第2話

「ねえ……あなたは魔女なの?」


 ある時少女が彼に尋ねた。彼女はそれまで彼を魔女として見ていたし、根拠はないが本能的に彼が魔女であると感じ取っていたのだ。


 関係が崩れることを恐れて、そのことを聞くことはこれまで無かった。しかし、彼女は遂に我慢ができなくなり彼にそのことを問いただしてみようと思ったのだ。


「そなたには関係のないことだろう?」


 そう応える口調は柔らかだったが、その声色はあまりにも冷たいものだった。


「ねえ、答えて! 何か困っているのなら私に言って!」


 彼のすかした態度に不満を持ったのか少女は性に合わないような激しい口調で魔女に詰め寄る。


「やめてくれ……」


 突き放すようなその言葉を聞いて少女は漸く理解した。勝手に親しみを覚えていたのは自分だけだったのだ。思い出してみれば彼を助けたのも、彼にここに来るように頼んだのも全ては少女から働きかけたものだ。


「ごめんなさい……今のは忘れて……」


 すると、その時。


「誰かいるのか?」


 扉越しに聞こえてきた声。それは少女の父のもののようだ。もしかしたら魔女との会話に気付いてしまったのだろうか。少女は焦りを悟られないよう、扉の方へ振り替えると、落ち着いた声色を作って応える。


「いいえ、お父様。森から聞こえたふくろうの鳴声で目が覚めてしまったの」


「…………ならいいんだ。お前は体が弱いんだからあまり無理はするんじゃないぞ」


「ええ。ありがとう、お父様」


 足音が遠ざかっていくのを聞いて、窓辺に再び顔を近付けたとき、魔女の姿はもう無くなっていた。

 


 その日から、魔女の足はパタリと途絶えることとなった。理由はなんとなくわかる、余計なことを口にしてしまった自業自得という物だろう。


 窓から見える『外の世界』は最早、少女の心を躍らせるようなものではない。モノクロに色褪せた代り映えしない無機物のように思えた。『この世界』が未だ不完全な姿であることに、少女も気が付き始めたのだった。


 沈んだ気分を和らげようとチェストから木箱を取り出して、開くとそれを勢いよく吸い込む。ふと箱の中を覗いてみると蒼い薬はもう底をついてしまいそうだ。


 時間がない。


 少女は焦りつつも、無力なこの身体では現状を諦観することしかできなかった。




 ある日、少女の父が彼女に言った。


 どうやら魔女の動きが活発化しているらしい。


 先日、ここから離れた村の長の一人息子が魔女によって惨殺されたという。父は詳細を述べなかったが、目を覆うような光景が広がっていたのは彼の様子からなんとなく察せた。


 今の彼はもはや変わってしまったのかもしれない。


 そんなことを想いながら今夜も蒼光そうこうの照らす寝台に横たわる。


 窓に背を向けて小部屋の虚空を見つめていると、ふと後方からコツコツと窓を叩くような音が聞こえる。鳥か虫あるいは鼠の類だろう。そう思って無視を決め込んでいると、しかし鳴り続けるのだ。


 暫くしても、やはり音はやまず、困り果てた少女は上半身を起こして窓をのぞき込もうとする。


 しかし、そこにある姿を見た少女はその寝ぼけ眼を驚きで見開く。


 窓の外にいたのは他でもない、あの魔女だったのだ。


 その外套は少々もつれ、所々に乾いた血がこびりついている。


 しかし少女はそのことに言及することなく、魔女が再び訪れてくれたことによる安堵からか顔がほころぶ。


 窓を開いて部屋へと降り立った彼は少女の知っている『魔女』のままだった。


 そんな彼女に魔女は、その姿に似つかわしくないほどに優しく語り掛ける。


「なぜだか、無性にそなたの顔が見たくなった」


 彼の言い方からは、この間のいさかいはまるで嘘のように感じられる。


「ふふ、私も同じこと考えてた。最近はどう?」


「…………」


 少女は窓の外にいる魔女に手を伸ばしたが、彼は自身のけがれた姿を気にしてかその手を取るのを躊躇ためらう。


 しかし、それを意にも介さずに少女は彼の腕を掴むと

 魔女の躰は不気味なほどに軽々と部屋の中へ引き入れられた。


「私の方は今日は珍しく家に訪問者が来たのよ。元気な男の子に、お淑やかな女の子、それと爽やかそうなお兄さん。顔は合わせられなかったのだけれど、声の感じで直ぐにわかったの……それで……」


「すまない。黙ってそなたの元から消えてしまったこと、どうか許してほしい」


 少女の必死な取り繕いに申し訳なさを感じた魔女の口から謝罪の言葉が漏れる。


「どうしてあなたが謝るのよ……。そもそも、私があなたの気に障ることを言ったから……」


「違うんだ……。私は取り返しのつかない罪を重ねてきた。身の毛もよだつような……復讐のためなど言い訳にはならない……」


「取り返しのつかない罪……?」


「ああそうだ。とてもそなたに話すことなどできない……憎悪と狂気に塗れた惨劇……。それを思い出したとき、私はもうそなたに近付くべきではないと確信した。それなのに、そなたに一目会いたくて、ここへまた戻って……私はつくづく脆弱な者だ」


 魔女は嘆きに震えてその場にへたり込んでしまう。自身の過ちを懺悔ざんげするその姿は初めて出会ったときの彼の姿とは打って変わって弱々しい。


 そんな彼の姿に少女はふと声をかける。


「私ね、物心ついたときから、ずっとこの部屋にいるの。でもね、今はもう私には必要ないのかなって思えるようになって。どうしてだかわかる?」


「…………」


 魔女は問いには答えずに沈黙する。


「あなたが来てくれたから。あなたの話を聞いていると、まぶたの裏に自然と浮かび上がってくるの。なぜなのかしら、とても不思議な感覚だったわ」


 少女は立て続けに話を進める。


「私はあなたに救われたのよ。それにあなたのおかげで私の夢も叶った」


「夢……?」


 塞ぎ込んでいた


「そう……。私がずっと叶えたかった夢。もう叶わないんじゃないかって思ってた」


 蒼白い夜光に照らされた少女の肌は陶器のように白く、いつも以上に透明感が増していた。それが、今にも消えてしまいそうな予兆に感じられて仕方なかったのだ。


 その儚さに押し潰されぬように、魔女はきっぱりと言葉を紡ぐ。


「今の私にこんなことを言う資格などないだろう。しかし、それでもこれだけは伝えておきたい。私はそなたのことが好きだ」


「嬉しい……」


 少女の頬を一粒の涙が伝う。


 この部屋の中だけが世界の全てだった。記憶の大半を失う中で、たった一つだけ残っていた『記憶』。もしかしたら『この世界』に来たのは、その『記憶』の根源となった唯一つの『夢』を叶えるためだったのかもしれない。


「私もあなたを愛しているわ。きっと、これからもずっと……」


 少女がそう言うと、どこからともなく蒼く儚い光が開けっ放しの窓から舞いこんで来た。それを見た少女はそっと涙をぬぐうと魔女に笑いかけた。


「ふふ、もう時間みたい……。お父様にも感謝しなくちゃ、それからあなたにも」


「そなた、このままいなくなってしまうのか……?」


 魔女はいつも通りの調子で言ったつもりであったが、その声はどこか上ずり震えている。


「もしや、私のせい……なのか?」


 そう恐る恐る尋ねると、少女は大きく首を横に振る。


「そんなことないわ。私の死はずっと前から……私が『この世界』に生まれる前から決まっていたことだから……」


 その言葉に魔女は顔を歪める。その表情は常にりりしく険しく振舞っていた彼が初めて見せたものであった。


「そんな哀しそうな顔をしないで。大丈夫、私は消えないわ。あなたがいてくれたから」


 少女は血塗られた衣服のことも気にせずに、魔女の胸にしがみついて顔をうずめる。


「ねえ……。もう少しだけこうしていてもいい……?」


 彼はそんな彼女の背を優しく、いつまでも手でさするのだった。


 しばらくすると空の蒼さが薄く広がり、白みを帯びていく。この地にも夜明けの訪れが来たのだ。


「すまない、私は最後の使命を果たさなくてはならない。そなたの最期を見届けてやれないことをどうか許してくれ……」


 申し訳のなさそうな目で見つめてくる魔女に少女は首を横に振る。


「さようなら、『魔女さん』……大好きよ」


 そう言って少女は柔らかく微笑むと魔女の頬にそっと接吻キスをした。


 その一瞬は彼女にとって永遠のようにも感じられた。


 いつの間にか疲れて眠りこけた少女に掛け布団をそっと被せると、魔女は彼女の前で見せていたものとは打って変わって表情を厳しくさせ、窓辺から黎明れいめいの空へと飛び立っていくのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蒼空は東雲に染まる さとう春乃 @harunosato-johnsonlong

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説