蒼空は東雲に染まる

長倉帝臣

第1話

 少女はいつも一人だった。


 人足の届かない森の奥深くにある小さな小屋の、一角の小部屋。


 部屋にあるのはベッドにチェスト、そして備え付けのクローゼットのみ。まるで殺風景で生活感の一切見られないような窮屈な部屋だ。彼女はその狭い空間で暮らしていた。


「この部屋から一歩たりとも外に出てはいけない」


 少女の父はこの部屋に少女が初めて来たときに、きゅうえるように何度も含み言い聞かせた。


 その理由を彼は言わなかったし、少女も決して尋ねなかった。

  

 少女にはここに来るまでの記憶がほとんどがない。何故自身がここにいるのか、自分が何者なのかもわからず。ただわかっていることは自分があの人柄のよさそうな男の一人娘であるということだけだ。


 そんな少女を彼女の父は憐れに思ったのか、小部屋には大きな出窓が取り付けられている。そこから見える景色は森の中とは言えど木々が途切れているおかげで空を見渡せるほどに視界が開けていた。


 彼女はいつも窓の外の目眩めくるめく変わっていく光景を昼も夜もベッドから上半身を起こして見つめていた。それがこの部屋に閉じ込められた彼女の唯一の楽しみだったのだ。





 そんな彼女は今、夢のように信じがたい光景を目にしていた。


 夜空から降り注ぐ蒼色の光を背に受けて、逆光の闇をまとい宙に浮かび静止した人影。


 その日はいつも以上に夜の空の蒼さは際立っていて、蒼くきらめく瞬きは空から送られてきた悲鳴の叫びようだった。


 その悲鳴に共鳴するようにして現れた、目の前に浮かぶ謎の人影。

 そして、それが人間ではないということが彼女にはすぐにわかった。夜闇ではっきりとは見えなかったが、疾風はやてに漆黒の外套がいとう旗捲はためかせながら、その『人物』が少女を伺うように黄金色の目を光らせている。



――魔女。


 

 ふとそんな言葉が少女の脳裏を過ぎった。


 彼女が幼い頃、父からよく聞いた話だ。


 山を一瞬で灰燼にしただとか、村を一夜にして無人にしてしまっただとか、悪い話があとを絶たない。この森を抜けた先の集落では最近は、そんな魔女の話題でひっきりなしなようだ。


 しかし少女は奇怪な雰囲気を纏った人物を目の前にして、不思議と畏怖や恐れの感情は一切湧き立たなかった。


 彼女は窓を全開にしてその姿を目に焼き付けようとする。


 見上げた夜空は水晶を散りばめたように蒼く、碧くきらめきを放って眼下の地上を照らす。


 不意に『魔女』の身体が空中でよろめき、そのまま体勢を崩すようにして窓辺へ、ひらひらと舞落ちる。


「きゃぁ!」


 少女が慌ててそれをかわすと、その『魔女』のからだは彼女の横たわっていた寝台を超えて部屋の床に降り立った。


 落ちた勢いでめくれ上がった外套のフードが外れ、露わになったのは青年の顔だった。


 整った見目をしているが、その顔には苦悶の表情が浮かんでいる。震えながらうめき声を挙げる彼に少女は戸惑いを見せる。


「まあ、どうしましょう!?」


 対処しようと急いで部屋内を手探りに駆ける。

 ふと目に入ったチェストから小さな木箱を取り出し、箱の蓋を開く。


 その中は蒼く仄かな光を放つ無数の粒子で満たされていた。


 それを一粒たりとも零さぬ器用な手付きで紙の上に取ると、彼の口元へと運んだ。


「これを吸い込んで」


 その声に呼応して魔女は半目を開くが、口を開こうとはしない。


「元気になるお薬、私のお父様がくれたものよ」


 それは少女がここへ来た時に彼女の父から渡された『秘薬』だった。


「大丈夫。毒じゃないわ、私、あなたを助けたいの」


 少女が必死に訴えかけると彼も彼女の心中を理解したのか、ようやくそれを口に含んだ。それと同時に魔女の震えは収まった。


 それを見て少女も冷静さを取り戻した。


 


「どう……少しは良くなった……?」

 

 魔女が意識を取り戻したとき、彼は寝台の上に横たえられていた。

 そして、直ぐにその寝台の隣で椅子に腰を掛けた少女が目に入る。そんな彼女に魔女は多少の不信を抱くのだった。

 

「そなた……私が怖くないのか?」


「いいえ、全然」


 そう言うと魔女は怪訝な顔をする。少女に恐れられていないことがそれ程までに意外だったのだろうか。


「なにか、礼をしたい。私にできることはあるか?」


 上半身を起こしながら魔女は言う。


「見返りなんていらないわ。私がしたくてしたことだもの」


「なら、代わりにお前の願いを何でも叶えてやろう。それならどうだ?」


「そんなことを言われても……。私、あなたのその思いだけで十分よ」


「それでもだ。そうでもしなければ、私の気の遣りどころがない」


 少女は魔女からの押しに遂に根負けして、彼への願いを考え始める。


「うーん、そうね……」


 しかし、彼女に願いなどなかった。いや、一つだけ確かにあったがそれは決して叶うはずのない願いだ。


 他に何かないかと部屋を見回しながら必死に考えていたところで、ふと魔女の顔が目に入り、あることを思いつく。


「そうだわ、なら一つだけ。ここへ来るのはお父様だけなの。我儘わがままなことかもしれないけど、なんだかそれが少し寂しくて……。もし、あなたが良ければ、これからもここへ来てくれたら……って」


 少しだけ目を逸らしながら、少女は言う。


「いいだろう」

 

 気が付けば空は褪紅色たいこうしょく琥珀色こはくいろのグラデーションで染め上げられ、幾層にも重なってどこまでも遙か彼方まで広がっている。


「私はそろそろ行かねば。一時の別れだ。ではまた今夜、そなたの前に現れよう」


 そう言うと、魔女は窓から暁の空へと飛び立っていくのだった。




 その日の夜、少女が魔女を窓辺で待ちわびていると、彼は約束通りに窓の向こう側に現れた。


 父が廊下にいないことを確認すると、後ろ手で窓をそっと開けるとささやく。


「入ってきてもいいわよ」


「お父上と暮らしているのだな」


 窓枠を跨ぎながら魔女が言う。


「ええそうなの。私、物心ついたときからお母様はいなかったから。お父様は男手一つで私をここまで育ててきてくれたのよ」


「そうか……。そなたのお父上も色々と苦労されているのだな」


「ええ。でも、お父様は私には何も教えてはくれなくて……。無理に心配するなとは言うけれど、訳を教えてくれない方がむしろ気になってしまうわ」


 少女は苦笑気味にそう言う。


「辛気臭い話はここまで。それよりも『あなたの世界』のことを教えて」


 『あなたの世界』とは少女にとっての『外の世界』だった。

 彼女に急かされると魔女は彼女に言い聞かせるように物語を始める。


 それからというもの魔女は毎日、彼女の部屋を訪れては『外の世界』での話をするのだった。

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