〈閑話〉記念日とチョコレート
[chat 5]ココアブラウンの贈り物・前編
本日晴天、
翼の姉妹たちが
明日は、いわゆる「恋人の記念日」。我らが人間の守護者たる「炎の王」が、翼族たちの守護者である「風の女王」を自分の居城に招き入れた記念日、とされている。
実質的には夫婦みてぇなお二人にあやかり、日頃の感謝を伝えたり、想いを告げたり、求婚したり、と若者たちが盛り上がる日だ。俺のように枯れた
二人とも真剣な顔で、
当然のことだが、砦の設備でチョコレートは作れない。原料になる豆もそれを砕いて製品化する設備も高価で、手間と時間が掛かるからだ。とはいえ、製品化されたココアやチョコレートは少しお高いものの、庶民でも手が届く菓子として流通している。製菓用のチョコチップだって厨房の冷蔵室に常備してあるのだ。
「ミスティア、酒いるか?」
「うん、いる!」
手が離せないミスティアの代わりにフェリアへラム酒を手渡してやる。作ろうとしているのはトリュフかガトーショコラか、あるいは生チョコか。菓子作りに手慣れた二人なら、特に手伝いも必要ないだろう。
いつもなら目を輝かせて加わるヒナは本日不在だ。朝からアライグマ姉妹と採取に出てまだ戻ってきていない。昼飯前には戻ってくるだろうが……。
意味もなく気分が浮ついてきた俺は二人に声を掛け、裏庭の畑で一服することにした。
昔、店を持っていた頃、記念日やイベントといえば書き入れ
若い女性といえばフェリアもそうだが、彼女が記念日を祝おうとしたことはなかったように思う。理由は……恐らく俺と同じだろう。記念日やパーティーにまつわる家族との想い出は、まだまだ生傷だったってことだ。
そんな彼女がミスティアと一緒に何か作ろうとしている。贈りたい相手ができたことも、記念日らしいことをしようと思えるようになったことも、フェリアが前へ進み始めたしるしかもしれない。
それを、何だか
「ダズ、どしたのですの」
ぼうっと考えながら歩いていた俺の背後から、聞き慣れた声。慌てて近くの柵に葉巻を押しつけ火を
久しぶりに見る少年っぽい格好がむしろ新鮮に思えて、俺の心臓は落ち着きのない鼓動を刻みだす。
「ちょっと一服しにな。ヒナは、作業終わったのか」
何の気なしに籠を覗こうとしたら、ヒナは慌てたようにそれを自分の背中に隠した。珍しい行動に少しの好奇心が湧き、胸の奥がざわめく。
「ダズ、には……まだひみつっ、です」
「お、おう。そうなのか」
「ヒナ、も少しおしごとです」
耳を下げ、尻尾の先をぷるぷると震わせながらじわじわ後ずさってゆく狐っこ。別に悪巧みではないんだろうが、何かを隠しているな。
仕掛け人、あるいは協力者がおそらくあのアライグマ姉妹だってのは若干心配だが、ヒナが何をしようとしているか楽しみになって
ガフティから聞いたところ、和国にチョコレートはないらしい。地図上で
砦に住んでいるヒナにはココアもチョコレートも珍しくはないだろうが、せっかくの記念日だ。滅多に食べられないようなチョコ菓子を作ってやるのも悪くない――なんて思いつきが頭を
そんな気分になれた俺もフェリアと同じく、過去の生傷が塞がりつつあるのかもしれないな、なんてぼんやり考えつつ。
ついでに畑の育ち具合を見回ってから厨房へ戻ると、翼の姉妹たちは作業を終えたのかもういなかった。使った道具は綺麗に洗って積み上げてあり、その隣で
冷蔵室を覗いて材料を確認。チョコチップも生クリームも水飴も、少量であれば十分間に合いそうだ。卵とアーモンド粉、調理器具を取り出していると、火蜥蜴たちが様子を見にやってきた。
生クリームと水飴を小鍋に入れて混ぜ合わせてから、火蜥蜴たちに加熱を任せ、その間にアーモンド粉にココアを混ぜて、粉糖を加えてふるいに掛け、ボウルに卵白を分けて用意しておく。
「そろそろいいか?」
「クルルゥルゥ」
加熱具合を火蜥蜴に確認してから、小鍋の中身をチョコチップのボウルへ。溶け具合を確かめつつ泡立て器で丁寧にかき混ぜ、ペースト状になったら一旦休ませる。
そうして出来上がったガナッシュクリームを冷ます間に、卵白へ砂糖を加えて泡立て、メレンゲを作る。全体の固さがちょうど良くなった頃合いで粉類を加え、ヘラでさっくり混ぜ合わせてから、気泡を潰すようにして生地の柔らかさを調整してゆく。
砦の厨房には調理器具がほとんど揃っているが、菓子作りの道具は足りない物も多い。有り合わせの材料と道具で完成度を上げるには、工程を丁寧かつ手早く行わねばらない。それでも、店で出していたような仕上がりになるかは五分五分だろうか。
柔らかく滑らかになった生地を絞り袋へ移し、オーブンの天板へ敷紙を置いて、一摘みサイズの円に絞り出してゆく。最後に天板の裏から軽く叩いて、表面に
冷めたガナッシュクリームは一旦冷蔵室へ入れて、生地が乾くまで少し休憩する。最近は俺だけでなく翼っ娘たちも菓子作りをするようになったし、メレンゲやクリームを泡立てるのはなかなか骨の折れる作業だ。ローウェルの伝手で
食器や調理用具を洗ったり、ついでに昼食の仕込みをしたりしている内に、生地の表面が触れる程度に乾いたので、いよいよお待ちかねの焼成だ。
「いいか、最初強めに表面を焼いてから、少し火力を落として中まで火を通す感じだ。焼き過ぎると固くなっちまうから、いいタイミングで頼むぜ」
「クゥルル」
砦のオーブンで焼くのは初めてなので、火力と時間を調整盤に入力し、火蜥蜴たちが予熱を済ませて準備万端にしてくれたオーブンへ生地を乗せた天板を送り込む。
以前はしょっちゅう作っていた菓子だが、手掛けるのは実に六年ぶりだ。味はともかく、見た目の綺麗さと焼き加減は出来上がってみないとわからない。小さな菓子なので焼き時間はあっという間のはずなのに、期待と緊張からか今日は妙に長く感じた。
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