[9-3]知らぬは本人たちばかり
砦の周辺に植えられた
恋する乙女は
彼女の恋心は、人の感情に敏感な
ミスティアは翼を
遠目だと真っ白に見えるレアチーズ生地へ、深紫色のジャムが乗せられてゆく。彩りも美しく、おそらく味も上品に甘酸っぱいのだろうから、ヴェルクの好む味になっているに違いない。
(ま、あいつはミスティアの手作りなら甘かろうと食うだろうけどな)
知らぬは当事者のみと言ったところか。互いへの好意は
「できたっ。あとは冷やすだけだけど、冷蔵庫に入れておけばいい?」
「なのです、おおかみさんにたのむですの」
『わたくし、寒いのはちょっと……』
冷蔵庫の白雪狼とヒナは相性がいいので任せておけばいい。思えば、ミスティアの手伝いとはいえヒナが自主的に菓子作りをするのは珍しいことだ。彼女が綺麗になったのにはやはり、心境の変化が関わっているのだろう。
「ぼく、ヴェルクを呼んでくる!」
『ええ、いきまショウ』
相変わらず雀が飛び出すような勢いでミスティアが去ると、厨房は再び静けさを取り戻した。ヒナが足音もなく移動し、いつもの椅子へすとんと座る。
「どうだ、楽しかったか?」
いそいそと教本を開こうとしていた少女に声を掛ければ、遠目からでもわかるほどに全身がびくんと跳ねた。顔半分を本で隠してこちらを見るヒナの
それでも、大きな狐耳はぴんと張っているし太い尻尾はそわそわと動いて椅子の座面を擦っている。何かを期待しているのか、あるいはダズリーの反応を観察しているのか。
「おかし、むずかしいのでしたの。ダズ、いつも、すごい」
いきなり
「俺は、ほら、元
「……うん」
大きく開いていた目が伏せがちになり、ほんのり上目遣いでヒナは小さく頷いた。その仕草には誰かへの恋心が現れているように思えて、ダズリーの心臓がまた落ち着きなく高鳴り始める。
海の彼方にいるミカドとやらにも時々菓子を供えることがあるが、ダズリーがそういう意味で言ったのではないことをヒナは理解しているだろうか。むしろやはり、手作り菓子を食べさせたい相手が砦内にいると解釈すべきだろうか。
軽い調子で「誰に」と聞けば良いのに、その問いはどうしても喉から上へ出てきてはくれなかった。疑問を噛み殺すように奥歯で葉巻を噛み締めてから、ダズリーは口角を上げてにやりと笑って見せる。
「おまえさん、手先も器用で覚えもいいから菓子作りに向いてると思うぜ。食材は限られるから何でもとはいかねぇが、やってみるか」
薄荷色が一瞬見開かれ、それから少女は教本を下げて頷き嬉しそうに微笑んだ。控えめな動きに合わせて青銀の髪がさらりと揺れ、大きな狐耳がわずかに下がる。
はにかみ気味の愛くるしい笑顔を向けられて胸の
***
以前に翼の姉妹たちが焼き
どちらであったとしてもヴェルク本人は気分が良いだろうから、恋の作戦としてはなかなか悪くないように思える。
「これね、村にいた頃よく作ってて、好評だったタルトなんだよ。どうかな、甘さは控えめにしたつもりなんだけどっ」
「ん、……美味いぜ。これなら幾らでも食えそうだ」
「そう!? たくさん食べて! 足りないならぼくのも食べて!」
「いや、幾らでも食べれるが足りなくはねえよ!」
場所が食堂なのでロマンティックな雰囲気とは縁遠いが、珈琲とタルトを前にし向かい合っているヴェルクとミスティアは楽しそうで、十分に恋人らしかった。あれであの二人、まだ付き合っていないらしい。
炎翼鳥は
六等分されたタルトはダズリーとヒナにも一切れずつ供された。残り二つはフェリアか兄か、あるいは他の誰かに差し入れるのだろう。
「タルトは案外粉っぽいから、夢中で食べると詰まるぞ」
「そなの?」
「ぬるめに
「うん、ありがとです」
教本を閉じて山葡萄タルトに取り掛かろうとしていたヒナの前にミルクティーを置き、ダズリーも珈琲を片手に腰掛けて、配膳用の窓から食堂の二人をそっと
折角なので貰った一切れを摘み上げ、鋭角の先端を一口
「なるほど、これは美味いな」
思ったままの感想がこぼれ落ちただけだったのだが、視界の端で一瞬銀色の尻尾が膨らんだ――気がした。つられて視線を向ければ、ヒナの不安そうな瞳と視線がかち合う。
そういえばレアチーズ生地はヒナが作ったのだった。ミスティアが褒めていた通り、味も滑らかさも申し分ない。菓子作り初心者でこれだけできるというのは、ヒナの勤勉で生真面目な気質ゆえなのだろう。
彼女ならあっという間に料理
「ヒナのおりょうり、いつか、ダズに食べてほしいです……」
思索に
「ああ、いつでも食べてやるぜ」
これでも戦災以前は自分の店を持ち、料理によって生計を立てていた身である。大陸の料理や菓子であれば巧拙も判断できるし、どんな相手の胃袋だろうと掴めるように助言や
狐少女の所作がいつも以上に乙女らしく見えて仕方ないのは、きっと朝から恋の炎を振り
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます