[2-2]鹿肉とトマトソースのミートパイ


 戦災前にダズリーが住んでいたのはダグラ森より空方にあった小国で、大きな川が中央海域へ注ぐ、温暖ながら湿度は低い農村地域だった。

 麦の栽培と羊の放牧が産業の中心だが、閑散期は都会へ出稼ぎに出る者も多い。ダズリーも首都に店を持っており、冬季や週末はそちらに泊まり込んで仕事に没頭することもしばしばだった。


 新婚の妻とはこういう生活スタイルで合意していたが、忙しさにかまけて家のことを十分顧みれずにいた。娘が産まれたのを機に仕事を縮小しようと思い立ち、その準備をしていた時期だった。故国が突如とつじょとして戦火に巻き込まれたのは。

 戦端を開いたのがどちら側だったのか、一般市民であるダズリーが知る由もない。戦乱は容赦なく国土を舐め尽くし、城壁に守られていない地方や農村部は真っ先に餌食となった。市民と軍が入り混じる混乱の中を必死に帰郷した彼が目にしたのは、もはや日常など取り戻しえぬ惨状だった。


 駆けつけた時、妻にはまだ辛うじて息があったが、医者でもないダズリーに家族を死の淵から引き戻す手立てはなく。腕の中でった妻が言葉をのこさなければ、おそらく彼もあのまま、生きることをあきらめたのだろうけれど。

 死に損ね、新たな場所に迎え入れられれば、どうにかこうにか命をつないでしまえるものらしい。今さら死を選ぶこともできず、砦の料理人として気づけば六年が経過していた。


 亡き妻は人間だったから、狐の少女とは似ても似つかない。乳児だった娘がどんな少女に育っただろうというのも全く想像がつかない。それなのにヒナを見ているとなぜか、昔のことが思い出されてならないのだ。

 思えば彼はあの日からずっと、自身の『得意料理』を封印したかのように振る舞ってきた。不思議と、久しぶりに作ってみようという気になったのだが――。


「あー……、羊も牛も切らしてるんだったな」


 冷蔵室を覗いて、ダズリーは思わず独り言を漏らす。奥の雪山に埋もれて丸くなっていた白雪狼スノーウルフ――雪の精霊が、耳をぴくんと震わせてこちらを見た。名前の通り真っ白な毛皮に包まれた狼姿の精霊で、体長は大人の肘から指先ほどの長さとかなり小さい。硝子玉のような青い目のせいもあって、ぬいぐるみが動いているように見える。

 魔法具として作られたオーブンと違い元はただの貯蔵室だった小部屋に、この雪精霊はいつからか住み着いていた。火蜥蜴ひとかげたちほど人懐こくはなく、奥のほうに雪山を造って大抵そこに埋もれているのだが、お陰でここは今、冷蔵室として機能している。

 入り口側に保管すれば適度に冷やしたり保存ができて、雪山の近くに置けば時間は掛かるが凍らせることもできるという、低コスト高機能の貯蔵室なのである。


 砦の食糧は裏の畑で栽培している穀類と野菜、森で採取できる果実類や野草やキノコ類、前庭で放牧している十頭ほどの山羊と二十羽ほどの鶏から得られる乳と卵、森で狩ってくる魚と鳥獣が主だ。油や調味料、自給で賄えない食材などは、月に何度か行われる取り引きの際に持ち込まれるのだが、日持ちのしない獣肉が生で届くことはほとんどない。

 改めて、砦に来てからただの一度も得意料理を振る舞ったことがないという事実を認識し、ダズリーは思わず自分自身へ苦笑した。

 本来なら使うのは牛肉だが、牛より羊のほうが入手しやすい環境であったため、羊肉で代用することも多かった。しかし、そのどちらもないのであれば――。


「ヒナ、おまえさん、鹿肉は食べたことあるか?」

「んぅ?」


 手にした赤黒い塊は、森で獲れた鹿の肉だ。この森は豊かで獣たちの肉付きは良く、下処理もきちんと済ませてあるので味は上々なのだが、脂が少ないため好みが分かれる。挽いて野菜と炒め合わせればそれほど気にならないだろうが、念のためである。

 狐の少女はダズリーの問いにこてんと首を傾け、しばし黙考してから、ぱちんと手を打った。


「シカ! たべるよ!」

「そうか。なら、鹿肉でいいな」


 鹿肉とホワイトマッシュ、作り置きのパイ生地を冷蔵室から持ち出して、野菜室から玉葱も取る。カッティングボードに肉を乗せると、少女がそろっと近づいてきた。付かず離れずの距離を保ちつつ、食い入るように調理台の上を見つめている。

 ダズリーが「どうした?」と声を掛ければ、薄荷はっか色の両目が彼を映してきらめいた。


「おにく」

「おぅ、肉だな。ほら、危ないから覗き込むな」

「おなかすいた」

「おまえさん、細っこいわりに食いしんぼうじゃねぇか……」


 食が細いとか、食べられる物が少ないとか、虚弱だとか、あれこれ想像を巡らせて心配していたダズリーは、拍子抜けしてぼやいた。食欲があるのはいいことだ、食に積極的だというのはつまり、生きることに対し貪欲だということだから。

 じっと注がれるヒナの視線を居心地悪く感じつつ、ダズリーは冷えきった鹿肉に刃を入れる。薄めに切り分けたそれをまとめて、今度は細切りにしてゆく。


 家族をとむらった日の夜、水すら喉を通らなかったことを思い出す。生き残りの軍人たちに勧められ、ダグラ森を目指すと決めたのが未明の時刻。なぜか、安い麦酒だけは吐き出さず飲み込めたのを覚えている。舌に残る苦味が、当時の心境と似ていたからかもしれない。

 幸運にも精霊の導きによって砦へ辿り着き、迎え入れられ、喪失の悲しみに囚われるいとまさえなく役割を与えられた。そうなればもう、死ぬわけにはいかない。


 義務が生じれば、不思議と食べられるようにもなった。妻と子にもう二度と料理を振る舞えないと自覚すれば胸が裂かれるようだったが、砦に住む者たちが食の改善を喜ぶ様子を見れば粉々になった自尊心が慰められる気もした。

 家族のことで思いにふける時間もなく――いや、思い出すのをあえて避け続けて、この六年間ダズリーは料理人としての勤めを果たしてきたのだ。

 あの喪失によって穿うがたれた心の穴がえたわけではない。それでも時間は確実に虚無を薄め、悲しみを遠ざけ、やわらかな思い出として心に巡らせられる程度には傷を覆ってくれたのだろう。


「玉葱は覗き込むと目にみるぞ? ほら、下がっとけ」

「しみる?」


 首を傾げる少女を手振りで下がらせ、玉葱の皮を剥いてから手早く刻んでゆく。器によけて蓋を被せた後、ホワイトマッシュも細かく刻んで、大きなフライパンを焜炉こんろに乗せた。すると待ってましたとばかりに火蜥蜴たちが飛び乗ってくる。

 オリーブ油を多めに入れて温め、刻んだ玉葱を強火で炒める。全体的に透き通ってきたところで一旦それを器に取り、オリーブ油を追加しつつ、火を弱めて細切れにした鹿肉を丁寧に炒めてゆく。火が通ったタイミングで先ほどの玉葱とホワイトマッシュを加えた。

 味付けに使うソースは特製の物が良いのだが、砦の物資は限られているので贅沢ぜいたくは言えない。塩と黒胡椒を少しずつ加え、トマトソースを混ぜ合わせてゆく。香ばしさと甘さの混じる良い香りに、ヒナの距離がまたもずいぶん縮まっている。


「だから、危ねぇぞ?」

「へいき」


 何が平気なのかわからないが、この先はオーブンの役割なのでダズリーはしつこく言うのをやめた。火を止め、中身をボウルに移して調理台へ。パイ生地に作りたてのフィリングを乗せ、山羊乳のチーズを一欠片置くと手早く包んで、トレイに並べてゆく。

 少女の背中の向こう、銀色の尻尾が大きく膨らんで揺れていた。期待を映した薄荷色がダズリーの動きを逐一ちくいち目で追っている。


「もうすぐ出来上がるからな。おまえさんの口に合えばいいんだが」

「これなに? つつみ焼き?」

「いんや、ミートパイってやつだ。確かに、包んで焼くんだけどな」


 和国にも似たような料理があるのだろうか。そうだとしても包む具材はだいぶ違いそうだ、と思いながらオーブンを開ける。焜炉から戻って待機していた火蜥蜴たちが、押し込んだトレイに飛び乗って楽しげに踊り始めたのを確認し、扉を閉める。

 材料は代用品で、味付けも有り合わせだ。得意料理だとは言え、いつも作っていたミートパイとは全く違う味になるだろう。――けれど、それも、いいのかもしれない。


 過去は戻らず、残された者は現実に向き合い、今を生きてゆくしかないのだから。

 ソワソワと落ち着きなくオーブンの動向を見守る狐の少女を見ていれば、心の奥底にずっと押し込め凍らせていた情動が、じわりと溶けだすように思えた。



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