第22話「共に歩む」

 皮を破り、血が流れ出す。ミルクのように濃厚で、甘く、温かい。人間の血には感じられない、極上の甘露。溢れ出す神聖性。それを飲み干せる喜び。


「ウェル!」


 誰かが僕の肩を掴んだ。


「がっ!?」


 強い力で引き剥がされ、床に打ちつけられる。気がついた時には、険しい表情のシェリーに組み伏せられていた。どうして彼女がそんなことをするのか分からなくなって混乱する。混乱した後に気がつく。


「シェリー、僕……」

「落ち着け、呼吸しろ。ゆっくりだ」


 シェリーはうつ伏せになった僕に跨り、体を倒して密着する。甘い花の芳香を放ちながら、僕の耳元で囁く。燃え盛るような興奮と、凍えるような恐怖に怯えながら、彼女の言葉に耳を傾ける。震える喉で呼吸を繰り返していく。


「大丈夫。落ち着け。大丈夫」


 シェリーが僕の背中を摩りながら繰り返す。浅い呼吸を繰り返しながら、だんだんと体が冷えていくのを感じる。目を横に向けると、白い血を太ももから流し続けるトーマスが見えた。


「トーマス!」

「大丈夫。落ち着け。トーマスはこの程度じゃ死なねぇよ」


 思わず起き上がりそうになる僕を、シェリーは強く押さえつける。メリアさんがトーマスの側に駆け寄り、彼の手を握って祈っていた。


「何が起こった。何をした。ゆっくりでいいから、話せ」


 シェリーが問いかけてくる。僕は混乱を抑えながら、囁いてきたフィノの声を伝える。


「チッ」


 彼女の存在を伝えると、シェリーはあからさまに悪態をついた。


「シェリーは、知ってるの」


 てっきり、シェリーはフィノの存在を知らないものだと思っていた。彼女の意識がない時にしか、フィノは現れなかったから。けれど、彼女は当たり前だと言わんばかりに頷いた。


「あたしのモンに取り憑いてる奴だぞ。知らないわけがないだろ」


 フィノはシェリーが持つ黒い大鎌に宿る意志だ。持ち主であるシェリーは、当然知っていた。知っていて、押さえつけていた。彼女はむしろ、僕がフィノの存在を知っていることに驚いていた。


「迂闊だった。クソッ! アイツにとって、ウェルは目の前に釣られたニンジンと同じだ」


 シェリーは額に手を当て、赤髪を乱す。

 混沌の獣であるフィノは聖遺物の神聖性を喰らう。生ける聖遺物である僕は、まさしく彼女の食事そのものだった。

 今も、フィノが僕の身体を食っているのが分かる。彼女は僕の身に流れる神聖性を貪っている。飲み込んだトーマスの血を啜り、明らかに力を増していた。


「ウェル。聞こえるか、ウェル」


 シェリーが僕の頬を叩く。細かく頷くと、彼女は少しほっとした顔で続ける。


「荒療治だが、仕方ない。今から言う言葉を繰り返せ」

「わ、わかった」


 そう言うと、彼女はすぐに口を開いた。


「我、黒き鎖のパルマの名の下に契約と誓いを打ち立てる」

「わ——我、黒き鎖の、パルマの名の下、に、契約と誓いを……打ち立てる」


 言葉を紡ぎはじめた瞬間、体内で黒い泥のようなものがのたうち回るのを感じた。フィノが明らかに嫌がっている。胸が圧迫され、喉が焼ける。苦しみもがく僕の胸に、二つの手が置かれた。


「と、トーマス——」


 トーマスとメリアさんが、僕を支えてくれていた。トーマスの手から、膨大な神聖性が流れ込んでくる。フィノはそれを喰らうことに気を向けて、抵抗を弱めた。その隙を見て、シェリーが続ける。


「我が身は汝、汝は我が身」

「わ、我が身は、汝——。かはぁっ!」


 咳き込む。黒い血が噴き出した。


「汝——、はぁ。汝は、我が身」


 それでも、続ける。

 不思議なことに、僕はシェリーの身体に黒い鎖が巻き付いていく様子を見ていた。とても硬くて、冷たい金属の鎖。けれど、嫌な匂いはしない。むしろ、僕は彼女と強く繋がっていくような気がしていた。


「我が魂を縛り付ける。汝が骨に結いつける。我が死は汝が死、汝の生は我が生。鎖に絆された三足で、我ら共に険しき道を歩かん。過酷な荒野を往かん。我が倒れる時、汝は支える。汝が倒れる時、我が起こさん。結合は固く、我らの道は絡まる」


 長く続く祈祷だった。彼女の言葉を、必死に追いかける。その祈りの意味するところを知らないまま、言葉を並べる。トーマスの手から注がれる神聖性は莫大で、とめどなかった。僕の胸の中でフィノが歓喜と怒りに震えていた。


「我ら、真紅の血よりも強く結ばれる」


 シェリーが最後の言葉を口にする。僕がそれを繰り返す。


「耐えろよ」


 シェリーがそう言った。彼女の言葉に反応する間も無く、僕は鋭利なナイフで喉元を掻き切られた。


「かはっ!?」


 驚く僕の目の前で、シェリーは自分の手首を同じナイフで裂く。赤い血が流れ、黒化し、鎖となる。僕の喉から流れる血も同様に黒い鎖となる。二本の鎖が互いに交わり、溶けていく。

 次の瞬間、彼女を締め付けていた鎖と、僕を包んでいた鎖が繋がる。固く結合し、決して離れない。

 僕は本能的に、直感として理解した。僕は、シェリーと一蓮托生の身となったのだ。彼女が死ねば、僕も死ぬ。僕が死ねば、彼女も死ぬ。使徒に直接打ち立てた誓いは、それほどに強力だ。


「ウェル」


 手首に黒い鉄の腕輪を付けたシェリーが名前を呼ぶ。彼女の鎖は、僕の首に嵌った鉄輪に繋がっている。二人の繋がりができた今、フィノは苛立ちをあらわにしながらも落ち着いていた。


「アイツはあたしを殺せない。そういう契約だ」


 シェリーの爪の長い手が僕の頬を撫でる。彼女はかなり無茶な契約で、僕を助けてくれた。感謝と共に深い後悔の念に襲われる。

 僕は安易な気持ちでフィノに協力してしまった。その結果がこれだ。メリアさんは目の端に涙を浮かべ、神聖性を大量に失い衰弱したトーマスを見ている。


「そんな顔するな。やることはこれからも変わらないだろ」


 僕を慰めるようにシェリーが笑う。そうして、彼女は黒鎌をトーマスの首筋に当てた。


「トーマス、まだ生きてるか?」


 シェリーの問いに、トーマスは呻く。虚な目を彼女に向ける。


「生きてるなら、あたしが殺してやるよ。獣に食い荒らされる前にな」


 シェリーが鎌を引く。鋭利な黒い刃はすんなりと彼の首を斬った。

 礼拝堂の床に転がるトーマスの頭は、とても安らかな表情をしていた。

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