第20話「人の願い、神の抱擁」
聖火が礼拝堂の床に広がる。その炎は、僕やシェリー、そして町の人々には優しく暖かなものだった。しかし。
「ぎゃあああああっ!?」
「ぐぅ、あああっ!」
ただ二人。司祭と彼が仕立て上げた偽の聖人だけがのたうち回る。二人の皮が焼け爛れ、髪と髭が燃える。司祭は咄嗟に指を複雑に動かし、何かの力で炎を退けた。けれど、偽聖人はその術もなく燃え続けている。
「聖人トーマス、ツェーリアの眷属よ。今こそ希う。我が祈りを聞き届け給え」
炎が礼拝堂に広がるなか、シェリーは落ち着きを払った声でトーマスに呼びかける。彼もまた冷静な理性を瞳に宿し、彼女をまっすぐに見返した。
「我が信仰の一端、其方に分け与えよう」
「我が同胞、同じ食卓を囲んだ者が、逆徒により凄惨なる死を遂げた。これは天秤の理に逆らうものである。今一度かの者を黄金の水平より呼び戻し、今ここに息を吹き返せ」
シェリーの嘆願にトーマスは静かに頷く。
民衆が彼の所作すべてに注目するなか、静かに手を振る。
「其方の祈り、確かに受け取った。其方の信心は我が力となり、ひいては我が主上の御力となる。その深き祈りに応えよう」
崩れ落ちた礼拝堂の天井から、横たわる女性がゆっくりと落ちてくる。
「メリアさん!?」
それは、黒い衣に身を包んだメリアさんだった。全身に鋭利な刃が突き刺さり、貫通している。今も真紅の血が流れ、その顔は蒼白だ。すでにその胸は動かず、誰の目にも明らかなほどだった。
静かに降りてきたメリアさんの遺体に、トーマスが手をかざす。白い炎を帯びた手で、彼女の胸に触れる。
「おおっ」
誰からともなくどよめきが上がった。
トーマスの手は彼女の服を、肌を、骨をすり抜ける、心臓を直接握っていた。
「祈られし者よ、祈りし者よ。非業の死を遂げた経験なる殉教者よ、未だ円環は整っていない。未だ其方の席はない。未だ、母なる神は其方を迎える意思を持たぬ。長く暗き旅路から踵を返し、その深く険しき坂を戻り、光と闇の混濁する現世へと現れよ」
囁くように、語りかけるように、トーマスが言葉を紡ぐ。その一言一句が彼女の体に染みていくようだった。炎が広がり、彼女の身体を包み込む。炎は死に群がる混沌の気配を燃やし、退け、彼女を出迎える準備を整える。
「銀の指輪のユーゲンロウ、終わりなき円環の端、翻る終焉のツェーリアに祈ろう。我が名を導とし、かの司神に祈ろう。其方の旅路は再び始まるであろう。未だ、終わるべき時はあらぬ。未だ、その祈りは果てぬ」
彼の声が厳かに響く。偽聖者はすでに虫の息だ。司祭もまた、ぐったりとしている。
民衆は皆、すでに理解していた。どちらが本物なのか、いま、何が起こっているのか。
「——ふっ」
トーマスが吐息を吹きかける。すると、まるで乾いた大地に雨が降るように、メリアさんの蒼白だった顔に赤みが戻る。少しずつ胸が上下を始め、やがて体内に溜まった穢れが咳となって飛び出した。
「かはっ!」
「メリアさん!」
思わず駆け寄る。彼女がぐったりとしていたけれど、確かに目を開いていた。青い瞳がこちらを見て笑っている。彼女はトーマスの方へ視線を向け、少し驚いたあと、再び笑う。
「また、会えましたね」
トーマスは何も言わず、ただ神のように微笑んでいる。その反応に、彼女は少しだけ悲しそうな顔をした。
「貴方の奇跡に感謝と祈りを。我が同胞は再び果てなき信仰の道を歩み始める」
シェリーが指を組み、トーマスに感謝を告げる。
その時、彼の目が僅かに光った。
「シェリー」
「っ!」
その声にシェリーが身構える。トーマスは手を上げて、口角を上げた。困ったように眉を寄せ、肩をすくめる。まるで、人間のように。
「僕の身に再び神聖性が溢れる前に、頼みたい」
「お前……トーマスか?」
驚きの表情のまま、シェリーが尋ねる。トーマスは頷き、口を開いた。
「僕を殺してくれ、シェリー。今度は手加減なしに、完璧に」
「そんな——」
僕は口を開きかけ、押し止められる。見れば、メリアさんが僕の肩に手を置いて、首を左右に振っていた。
「僕はただの天秤教の信者だ。祈り手の一人だ。ただ祈るだけの者で、祈りを受けるものじゃない」
彼の悲痛な叫びだった。司祭の顔をちらりと見て、再びシェリーに目を向ける。
「僕は神として奇跡を齎らす者にはなりたくない。人として、人の強さと弱さと、儚さと強かさを持ったまま、土の中で腐り果てたいんだ」
彼を包む炎が強くなる。決して彼を逃しはしないと、彼を庇護する誰かがその存在を絡め取ろうとしている。
「僕は神じゃない。僕は、人なんだ」
その嘆願に、シェリーが頷く。そこが限界だった。
「がっあっ!」
トーマスが顎を開く。骨が折れる音がする。彼の背中が折れ曲がり、人としての形を失う。雑に丸めたような、歪な球形。メリアさんが手で口を覆う。
「——お前の祈り、確かに受け取った」
シェリーが鎌を掲げる。濃い紫のオーラを宿し、怪しく輝く黒鎌だ。神聖性を取り戻しつつあるトーマスに向けられる。
「祈りの果て、神座の末に並ぶ者、その祈りによって弑し奉らん」
彼女が鎌を振るう。
「あはっ! あはははははははっ!」
張り裂けるような笑い声。焦点の合わない瞳。歯を揺らし、肺を破り、喉を裂く。トーマスだったもの、神聖なる神の眷属が、それを受け止めた。燃え盛る白い血が流れ、礼拝堂を焼く。今度の炎は、僕たちすら焼く容赦のないものだ。
「ウェルさん、町の人を!」
メリアさんが叫ぶ。僕は弾かれたように駆け出し、入口に集まっていた人たちに避難を呼びかけた。
「シェリー!」
「任せとけ! こいつはあたしが殺す!」
そうして、神と人の戦いが幕を開ける。
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