第19話「黄金よりも価値あるもの」

 空を駆ける。白い稲妻と共に、夜を裂くように。

 トーマスの燃える体は、その勢いとは裏腹に温かく心地よかった。彼は白い炎を翼のように広げ、僕が来た時よりも遥かに速くテルトナの町に向かって翔んでいた。


「見えたっ!」


 町の明かりが闇の中に浮かび上がる。近づくにつれ数を増し、鮮明になる。その中央、丘の上に立つ荘厳な教会は昼間のように輝いていた。街の人たちが門前に集まっている。彼らの前で大きく手を広げているのは、厳しい聖衣に身を包んだ司祭様。そして、礼拝堂の屋根の上で燃え盛る人型に首を掴まれ持ち上がり、四肢をだらりと下げている赤髪の女——。


「シェリー!?」

『あらあら。大変ねぇ』


 腰に差したナイフが震える。フィノの本体である大鎌は、誰からも忘れられたかのように、無造作に地面に転がっていた。彼女は他人事と言わんばかりの軽い口調で言った。


「アノあの人ヒトひとダネね?」


 轟々と燃え盛りながらトーマスが言う。彼は首を真後ろまで向けて、焦点の合わない目を僕に向ける。思わずぎょっとして彼の背中から落ちそうになったけど、優しく支えられる。

 トーマスは聖人だった。人の殻を脱して、確かに神々に近づいていた。


「うん。——うん、シェリーを助けて!」

「わかったヨ!」


 軌道が大きく変わる。視界がぐるりと回転し、地面が真正面に現れる。僕は直角に折れ曲がり、一条の白雷となってそこに落ちた。


「シェリー!」


 轟音が響き渡る。礼拝堂の屋根を吹き飛ばし、屋内に落ちる。思わず固く閉じていた瞼を開く。


「思ったより遅かったな、坊ちゃん」


 喉元に赤く焼け爛れた手型をつけて、シェリーが弱々しく不適に笑う。僕は彼女の胸に飛び込み、顔を押し付ける。シェリーは僕の背中を叩き、よろめきながら立ち上がった。


「さあ、仕上げだ」


 シェリーが手を伸ばす。


『うふふっ!』


 教会の扉を突き破り、大鎌が彼女の手に収まる。シェリーはそれを振り回し、ニヤリと笑った。

 その時、甲高い神の悲鳴が耳を劈いた。


「きゃあああああああああっっっっっ!」

「アハッ! アハハハッ!」


 二つの白炎が入り乱れていた。トーマスはシェリーを焼いていた謎の神格実体に猛烈な攻撃を仕掛けていた。その肩口を噛み、目を潰し、腹を抉る。そのたびに神格実体は悲鳴をあげる。彼も必死の形相でトーマスに喰らいつくが、彼は体がどれほど欠損しようと痛がる様子も見せない。それどころか、肉の衣という制約がなくなることに歓喜すらしているようだった。


「見苦しいだろ、なあ。ウェル」


 鎌を構えながら、シェリーが言う。彼女は二柱の神の戦いと呼ぶには一方的すぎる攻防を眺め、憐憫の色をその赤い瞳に滲ませていた。


「片や本物の祈りを神に届けた真性の信徒、片や仮初の聖火を羽織っただけの紛い物——」


 痛々しい悲鳴が響く。けれど、死ぬことはない。神は死ぬことを許されていないのだ。だから、永遠に続く苦痛だけが、彼を苛める。


「まるで人間じゃないか」


 シェリーが歩み出す。聖遺物を狩り、神を殺すため。

 けれど、彼女がその鎌を彼の首筋に掛けるよりも早く、茨のベルトが投げられた。


「愛憎の神ロネよ、彼らにその激しい怨嗟の束縛を」


 堂内に響く低い声。それが司祭様のものだと気がついたのは、トーマスと神格実体の両者がベルトによって拘束され地面に転がった後だった。


「おお、なんと言うことだ。なんという、悲劇だ」


 芝居掛かった調子で、司祭様が入ってくる。彼の背後には、槍や剣を携えた町人たちが続く。


「魔女の力は我らの祈りを凌駕していた。嘆かわしい。偽りの聖人を奉り、こうして私欲のため使役しておる。邪な祈りに酔い、恐ろしいほどに道を踏み外しておる」


 司祭様の声に呼応して、民衆から嘆きや怒りの声がする。彼らが向ける視線に気がついて、僕は愕然とした。彼らは、シェリーが聖人を痛めつけていると思っているのだ。


「まあ、そうカッカすんなよ」


 だというのに、彼女は気楽な声で言う。散歩にでも出かけるような、軽い足取りで司祭と対面する。シェリーは肩に大鎌をかけて、不適な笑みを口元に湛える。


「あたしは異端審問官として仕事をするだけだ」

「ほう?」


 余裕な態度のシェリーに、司祭様が髭を撫でる。シェリーは朗々とした声で、彼よりもその背後にいる民衆たちに聴かせるような声で言う。


「この教会に保管されている335の聖遺物。そのうち229は偽物だ」

「ふん。貴様の言葉に耳を貸す者などおらぬよ」

「テメェに言ってない。黙って聞いとけ」


 司祭様を一蹴し、シェリーは続ける。彼女を見る民衆の目はどれも懐疑的だ。彼らは目の前で奇跡を見せられたのだから、当然だろう。彼らにとっては、最初に現れた神格実体も、後から現れたトーマスも等しく同じ、人間以外だ。


「お前らの中に、トーマスを知ってる奴もいるだろう。奴の眼の色、髪の色、身長、声色、分かるはずだ」


 シェリーは礼拝堂の床に転がるトーマスを見る。彼の炎は目に見えて弱まっていた。彼の存在を信じているのは、僕とシェリーだけなのだから、当然だ。それに対して、神格実体は傷ついた体が再生を始めている。民衆たちは彼が本物の聖人であると信じている。


「司祭が持つ聖遺物容器にはトーマスの名がある。厳しい祈りの果て殉教した、聖人の名だと。しかし、そこに収められているのはどこの馬の骨とも分からん男の目と髪だ」


 民衆がざわつく。名も知らぬ聖人であれば、彼らにとって全て同じものだ。しかし、よく知る者だったのなら、話は変わってくる。彼らはトーマスを見て、そこに生前の面影を認める。彼の纏う炎が僅かに勢いを増す。

 それは彼らの信仰を示す天秤だった。


「次にお前が殺してきた奴ら。その死体もただの腐った肉と乾いた骨だ。そもそも、聖人ってのはそう簡単になれねぇから特別な力があるんだ」


 シェリーはそう断言する。

 たしかに、深く祈るだけで聖人になれるのなら、今頃神獣の天秤は傾いているはずだ。

 祭壇に置かれていた誰かの頭蓋骨が、突然灰になって崩れる。その様子を見て、人々が囁き合う。


「祈りも捧げず村々をほっつき歩いてたジジイは分からんだろうが、この町の奴らならみんな知ってることだ。——トーマスの髪色、目の色。よく確かめろ」


 シェリーが床に倒れているトーマスの髪を無造作に掴む。神聖性を宿した白い炎が彼女を焼くが、それを気にする様子はない。シェリーがトーマスの顔を見せる。人々はすでに、誰が嘘をついているのか知っていた。


「フン。邪教徒が白々しい」


 だが、司祭だけは未だ観念してない。彼はシェリーを睨みつけ、白い髭を震わせる。


「聖職者のくせに諦めが悪いな。そこまで言うなら、奇跡でも見せてやるよ」


 シェリーはそう言って、トーマスを見下ろす。そうしてニヤリと笑った。


「宝石よりも貴く、黄金よりも価値あるものよ。もうテメェには十分な祈りが捧げられてるはずだ。その体に渦巻く神聖性を解放して、ちょっと神様の真似事でもやってみな」


 彼女の呼びかけに、聖者は枷を強引に引きちぎることで応じた。

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