第18話「人の願い」
荒野を駆ける。瞼の裏には胸から刃を生やしたメリアさんの姿がこびりついている。彼女が最期に僕に向けたあの青い瞳は、まだ僕のことを見ている。だから、僕は走る。
「はぁ、はぁっ」
喉が枯れていた。足はもう、何も感じないほどに疲れていた。それでも、動き続けなければならない。彼女たちのために。
「くそっ!」
首に掛かる鉄の輪を掴む。どれほど揺さぶっても、それは外れない。おかげで、僕は人のままだ。何の力もない、弱い人のまま。
冷たい鎖が揺れて、悲しげな音がする。意識は随分前から、朦朧としていた。
「うぐっ」
路傍の石に足を取られ、乾いた地面に頭から倒れる。頬が擦れ、血が滲む。
一度止まってしまえば、再び立ち上がるのは容易ではなかった。地面に突きつけた手に力が入らない。身体が鉛のように重たかった。
『——全く、世話が焼けますわね』
「っ!?」
不意にシェリーによく似た声がして目を開く。顔を上げると、懐から溢れでた古びた聖典がある。れけど、彼女の姿はどこにもない。夢か、幻聴か。ついにそんなものまで聞こえてきたか。
『ほら、お立ちなさい。貴方に頑張ってもらわないと、私も危ないんですのよ』
「うわぁっ!?」
けれど、それはさっきよりも明瞭に声を上げる。驚いて仰け反ると、地面に転がった聖典がひとりでに表紙を開いた。
『情けないですわねぇ。それでも男ですの?』
「お、お前は、まさか、フィノ!?」
そんなはずがないと思いつつ誰何する。けれど、僕の思いを裏切って、その声は肯定した。
『ええ、そうですわ。黒き猪の鋭牙、神を裂く者、破滅の獣。先日、貴方にご挨拶申し上げたばかりのフィノですわ』
聖典がぱらりと頁を捲りあげる。彼女の声は、その聖典から聞こえていた。
「そんな。お前は大鎌の——」
『ええ。今もあの鎌はシェリーによって振るわれてますわ。まあ、それもどれほど続くかは分かりませんが』
フィノは状況にもかかわらずとぼけたような声で言う。
『貴方はシェリーを助けたい。私も、こんな所で捨てられたくはありません。利害は一致していると思いますし、ここは一つ助け合いませんか?』
「助け合うって、何を……」
聖典がパラパラと捲れる。
『今の私はただの残留思念。貴方に擦り付けておいた匂いのようなもの』
フィノの冷たい吐息を思い出す。間近に迫った彼女の紫の瞳。冷たい鉄のような匂い。
『この聖典を、腰のナイフで裂きなさいな』
「えっ?」
『神の存在を否定するのです。天秤の一方が下がれば、他方が上がる。神の否定は、獣の肯定となります』
彼女が笑うのを感じた。僕が神を冒涜することで、混沌の獣が力を付ける。けれど、今は迷う暇はなかった。
シェリーが買ってくれた、真新しいナイフを革の鞘から抜く。慣れない手つきで逆手に持ち、呼吸する。
『さあ、一息に』
フィノが唆す。
「——はああっ!」
意を決して、ナイフの切っ先を聖典の紙面に突き立てる。まだ何も切っていない鏡のような刃が古い頁を裂き、そこから黒い血が吹き出した。
「うわっ!?」
『お見事! 勇敢な男の子は好きですよ』
フィノが楽しげに笑う。流れ出た血はそのままナイフに吸い込まれていく。銀色の刃が、黒く染まっていく。まるで、あの大鎌のように。
「はっ、はっ」
匂いが強くなる。かすかにあった芳香が、鉄錆に似た腐臭に変わる。心臓が激しく拍動する。フィノが——ナイフが歓喜に震え、艶やかな嬌声を上げた。
『いいわ、懐かしい。神の血の味、久しくなかったこの愉悦!』
ブルブルとナイフが動く。その刀身に紫色の紋章が浮かび上がった。
『全盛とはほど遠いけれど、ちゃちな縛めを食い破る程度のことなら出来ますわ。さあ、その鉄輪を喰わせてちょうだい』
フィノが叫ぶ。彼女は、次の獲物に僕の首もとにある物を狙っていた。
「これを解いたら、僕は——」
『狼血が解放され、貴方は神の獣となりますわ』
待ちきれない、早くしろ、と獣が叫ぶ。
『その後は、貴方が思った通りに行動すれば良いのです』
だから、今すぐに喰わせろ。
『さあ、早く!』
さあ、早く!
「——ああっ!」
ナイフを掴み取り、自分の喉元に突き付ける。切っ先が黒い首輪と衝突し、熱い火花が散る。フィノの叫びが響き渡る。苦しげなようで、楽しげで、辛そうだけど、嬉しそうな。火花は勢いを増し、轟々と音を立て噴き出す。
神聖と邪悪の鬩ぎ合いが、僕の喉元で起こっていた。
「あああああっ!」
ナイフを握り、深く突き付ける。鉄輪が負ければ、勢いのまま僕の喉に突き刺さるだろう。それでも構わない。それに構う余裕などない。渾身の力を振り絞り、聖遺物を壊す。
「あああっ!」
ギリ、とかすかな音がした。細かな粒が溢れる。亀裂は広がり、火は燃え盛る。
次の瞬間、天秤の均衡が崩れた。
『はああああああああんっ!』
色めいた声がする。全身の血管が裂けそうなほど、血が熱くたぎる。僕の全身は、銀月の光を浴びて、青白い炎に包まれる。
『すごい! すごいわ、貴方! これほどの神聖性、とめどなく溢れる力! いったい、何者なの!? ああ、これを全て喰らい尽くせたら! 口惜しい、羨ましい、悲しい、嬉しい!』
刃が狂乱する。獣が吠える。
「うあああああっ!」
天に向かって、闇に浮かぶ月に向かって声を上げる。全身からメキメキと音がする。骨が折れ、治り、肉が裂け、治り、破壊と再生を繰り返しながら、膨張する。目線が高くなる。影が長くなる。
僕はナイフと血に濡れた聖典を掴み取り、懐に収める。その理性がなくなった時、僕は猛然と駆け出した。
向かう先は荒野向こう、深く険しい山の奥、密やかに人の営みが編まれていた、廃村。そこに並ぶ墓標。
大地を駆ける。川を飛び越え、崖を登る。石を蹴壊し、木々を折る。湧き出す力はとめどなく、抑えきれない全能感が脳を痺れさせた。風を追い越す速度で丘を抜け、空を飛ぶように草原を越える。
「あった!」
懐かしい風景があった。
まだ、焦げた匂いが残っている。かつて、僕の笑顔があった場所。二人の愛があった場所。
開けた場所に、魔獣に掘り荒らされた墓がある。そこに、彼の墓もある。
「トーマス!」
叫ぶ。
長く深い祈りの果てに、人の身から神へと至った、敬虔な信者の名を。その、他者に傲られ、未だ沈黙している、聖者の名前を。
「君の力を、その祈りを見せてくれ! 僕の、君の仲間を助けるために!」
吠える。神に訴える。
人の祈りは神の力となる。信じれば、そこにある。感じれば、そこにいる。
「シェリーを、救って!」
願えば、応える。
「うわっ!?」
雷鳴が轟き、耳を劈く。大地が燃え上がり、白い炎が高く荒ぶる。
轟音の中に外れた笑声があった。
甘ったるい花の芳香が広がる。腰のナイフがぶるりと震える。聖者は死んでいなかった。シェリーは彼を殺しきっていなかった。ここに彼がいると、僕が信じれば、ここに確かに彼はいる。
「タた助ける助けて助けてあゲるゲル!」
神が応える。
人の願いは、彼に届いた。
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