第15話「引き止める手」

 予定よりも早く帰ってきた司祭様に困惑している間に、僕はシェリーに腕を引っ張られて礼拝堂に場所を移した。そこには見知らぬ修道士が何人もいて、それまでの閑散とした雰囲気がまるでない。


「メリアさん」

「すみません、ウェルさん。まさか、司祭様が予定を繰り上げてお帰りになられるとは思わず……」


 集団の中にメリアさんを見つけて声をかける。彼女も困惑しているようで、声を抑えて言った。


「ウェル、荷支度は?」

「できてるけど……」

「なら、すぐに出るぞ」

「ええっ?」


 全く理由が分からないまま、シェリーは教会を出ることを決める。彼女は寝所を出る時に掴んでいた頭陀袋を僕に押し付け、大鎌を背負う。司祭様と顔を合わせるのを避けようとしているみたいだけれど、何か不都合なことでもあるのだろうか。

 くるりと踵を返し、外に繋がる扉へと向かうシェリー。けれど、その行く先は修道士たちに阻まれた。


「かようにお急ぎになられずとも結構。まだ旅の疲れは癒えてはおりませんでしょう。まだ数日は滞在されては?」

「断る。これでも忙しい身でね、次の町に行かねぇとならねぇんだ」


 シェリーは修道士の提案を一蹴する。僕も知らない予定だったけれど、それを今尋ねるほど、僕も馬鹿じゃない。

 修道士とシェリーが真っ直ぐに視線を交える。どちらも頑として譲ろうとしない。いったい何があるのか、何が起ころうとしているのか、僕には何も分からなかった。


「ほっほ。随分とお急ぎのようだ」


 そこへ、司祭様の声がする。振り返ると、祭壇の前に彼が立っていた。白い髭を豊かに蓄えた老爺は、悠然とした足取りで近づき、シェリーに微笑みかけた。


「しかし、異端審問官としての職務は全うしてもらわねば、我々も困りますのう」

「……聖遺物の検分はすでに終わらせた」


 表向き、シェリーは異端審問官として活動している。その職分は多岐に渡るようだが、最も代表的なのは立ち寄った町村の神殿を訪れ、そこに安置されている聖遺物が異端の物ではないか確認することだ。

 メリアさんはこの教会の334の聖遺物が置かれていると言っていたが、シェリーはそれを今日一日で全て確認したと言う。しかし司祭様は鷹揚に首を振る。


「聖遺物の検分は教会の管理者の立ち会いが必要じゃろう?」

「不在の場合はその時点での最高位の聖職者でも構わない」

「しかし、司祭位の者が間に合ったわけじゃ。検分に不備があってはならぬじゃろう」


 しばらく両者が睨み合う。間に挟まれた僕は何も言えず、プルプルと震えることしかできなかった。


「——それに、今現在この教会には335の聖遺物があってのう」

「なに?」


 司祭様の言葉に、シェリーが片眉を上げる。深い皺の刻まれた司祭様の黒い瞳が怪しく光ったような気がした。彼がおもむろに手を挙げると、控えていた修道士の一人が煌びやかな小箱を抱えてやって来る。

 赤い布張りで、大粒の宝石がいくつも嵌め込まれた豪華な箱だ。厳重に鍵が取り付けられていて、さらに鎖で修道士の腕と繋がれている。僕の目の前を通り過ぎる時、ふわりとかすかな花の芳香が漂った。


「昨日、近隣の村より聖遺物じゃ。こちらも含めて、今一度しっかりと確認をして頂こう」

「——移譲された際に、そちらの異端審問官が確認したのでは?」


 シェリーはまだ諦めず、礼拝堂の中にいる同業者をちらりと見る。彼女に視線を向けられた異端審問官の男性は、視線を逸らし俯いてフードを目深にした。

 司祭様は意に介さず、笑みを湛えたまま髭を揺らす。


「正当な理由なき職務放棄は大教会への通報対象となりますぞ」

「——」


 司祭様は、かつて大教会の宝物庫番をしていたという。大神殿がどんなものか詳しくは知らないけれど、天秤教の中心にあるものなのだろう。

 シェリーは忌々しげに唇を噛んでいたが、ついに観念した様子で息を吐く。


「分かった。あたしも気が急いて冷静じゃなかった。司祭殿の立ち会いの下で、改めて聖遺物の検分をしよう」

「ほっほ。ありがたい。……しかし、今日はもう遅い。他の者も急ぎ帰ってきたものでな、よければ日を改めて明日にでもお願いしたい」

「……分かった」


 司祭様の言葉は提案のようでいて、拒否することはできなかった。シェリーはついにそれを了承する。

 結局、僕たちは出たばかりの寝所に戻り、荷物を置いてしまった。


「シェリー。これはいったいどういうことなの?」

「面倒なことになっただけだ。お前は適当に過ごしてればいい」


 状況を尋ねても、シェリーは言葉を濁すだけだ。彼女はイライラを隠そうともせず、さっきまで僕が読んでいた聖典をペラペラと捲っている。メリアさんとも話すことができていないし、あんなにたくさんいた他の修道士も姿が見えない。どうしたものかとソワソワしていると、シェリーが突然立ち上がった。


「飯、食いにいくぞ」

「ええっ?」

「良いから、ほら」


 そうして、僕は半ば強引に引きづられるようにして教会を出た。その際に、いつの間にか出口の側に立っていた修道士に呼び止められたけれど、シェリーが荷物を部屋に置いていることを伝えると、外出を許された。


「司祭様は、僕らを外に出したくないの?」

「さてね。お目付役は付けてるみたいだが」


 彼女は町へ向かう坂道を降りながら、背後をそっと見る。夕暮れ迫る薄闇に紛れているけれど、物陰に隠れた人がいた。


「ま、関所に向かわん限りは何も言わんだろ」


 そう言って、シェリーはずんずんと歩いていく。僕は言い得ない不安を抱えながら、彼女の後を追いかけた。彼女が向かったのは、昨日と同じ騒がしい酒場だ。相変わらず眩しいくらいの光が灯され、露出の多いお姉さんたちがお酒を持って回っている。


「しぇ、シェリー」

「良いから入れ。真っ当な聖職者はこういう所には寄り付かん」

「それ、シェリーが真っ当じゃないってことじゃ——」

「あたしが真っ当な訳ねぇだろ。いいから来い」


 あまり気が進まないまま、僕はシェリーに引き摺られて店内に入る。騒がしいし、匂いがきついし、ふらふらしてしまう。


「あらお姉さん! また来てくれたのぉ?」


 店に入った瞬間、シェリーは店のお姉さんに歓迎される。彼女も手をあげて応じているし、カウンターにつくなりお酒を頼んだ。


「今日も子連れなのね。坊やはまたミルク?」

「飲みたいなら酒でもいいぞ」

「あっ、えっと、その……牛乳ください」


 結局、僕は昨日と同じ料理だ。前と違うところと言えば、シェリーが隣にお姉さんを座らせていないことくらいだろうか。

 彼女は氷の入ったグラスを傾けながら、いつになく真剣な顔をしている。


「シェリー?」


 黙ってしまった彼女を怪訝に思い、声を掛ける。彼女は僕の方を一瞥し、たっぷりと間を開けて口を開いた。


「ウェル。あたしの聖典を読んだか?」

「えっ? えと……」

「別に怒りゃしねぇよ」

「——読んだよ。内容はあんまり理解できなかったけど」


 そう言うと、シェリーは浅く頷いた。


「あの聖典、お前に預ける」

「それは、どういう——」

「今夜、月が天頂に昇ったら、その明かりを頼りにして町を出ろ。聖典を持って、教区を出るんだ。別の教区にある教会に入って、聖典を渡せ」

「な、何を言ってるの? シェリーは?」

「あたしは仕事があるからな。終わったら合流するよ」


 そう言って彼女は冷ややかに笑う。嘘だ。


「シェリー、あの教会には何があるの? 司祭様は何を考えてるの?」

「さてね」


 僕の追及に、シェリーは応じない。彼女はキツい酒精の匂いがする酒をぐいと飲み干し、グラスをカウンターに置いた。


「とにかく、お前は闇に乗じて外へ出ろ。関所までは、メリアが手引きしてくれる」

「め、メリアさんが?」


 何が起きているのか、何が起ころうとしているのか。何もかもが分からない。分からないまま、状況だけが進んでいく。


「寝過ごすなよ」


 彼女はそう言って、僕の肩を強く叩いた。

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