第14話「難解な聖典」
翌朝、教会のベッドで目を覚ます。寝ぼけ眼を擦りながら立ち上がると、隣から強烈なお酒の匂いが漂ってくるのに気がついた。視線を巡らせると、頭を枕の下に突っ込んだシェリーがぐうぐうといびきをかいて寝ている。
「うわぁ」
聖衣も着たまま、足も汚れている。いつの間に帰ってきたのか知らないけれど、そのままベッドに倒れて寝入ったのだろう。もう何回思ったか分からないけれど、本当に彼女は聖職者なのだろうか。
僕はベッドから出て、寝所の裏手にある小さな庭に出る。朝の清々しい空気を胸いっぱいに吸い込んで、火照った体を冷ます。井戸から水を汲んで、顔を洗えば、さっぱりと気持ちがいい。すでに日は昇っていて、僕もいつもより長く眠っていたらしい。
「……」
少し考えて、水を張った桶を寝所に持ち込む。そうして、呑気に寝ているシェリーの肩を揺らした。
「シェリー、朝だよ」
「んがっ」
何度か声を掛けても、彼女は深い眠りの底だ。それどころか、煩わしそうに枕をぎゅっと押さえつけてしまう。
「ほら、そんなにしてるとお昼になっちゃうよ」
「——ぅるせぇなぁ……」
枕の下からくぐもった声がする。
「あんまり耳元で叫ぶな。頭に響く」
「完全に二日酔いじゃないか……」
あんまりにもあんまりなシェリーの惨状に、こっちまで頭が痛くなってくる。僕は腹を括って、彼女の掴んでいる枕を引き剥がした。
「起きろ!」
「——うるっせい!」
「ぐわっ!?」
直後、彼女の赤い髪が視界を覆う。急にシェリーが立ち上がって、僕の顔面と彼女の後頭部が激突したと分かったのは、床でうめいたあとのことだった。
「ひ、ひどい……」
「お前が変なことするからだろ。ったく、眠気も吹き飛んじまった」
ブツブツと文句を言いながら、シェリーはようやく立ち上がる。彼女はベッド脇に置いてあった桶の水で顔を洗い、足を綺麗にする。聖衣も皺だらけになっているし、町を出る前に洗濯した方が良さそうだ。
「今日はどうするの? 何にもなければ、服を洗いたいんだけど」
「異端審問官として聖遺物の点検だ。お前はあたしの聖衣を洗ってればいい」
「はいはい」
どうせそんなところだろうと予想はしていた。どうせ、僕もここ数日着っぱなしの服を洗わなければならないのだ。彼女の聖衣が一枚増えたところで問題はない。
いまだに眠そうなシェリーと共に、教会の奥の部屋に向かう。そこには、すでに身なりを整えたメリアさんが朝ご飯の準備をしてくれていた。
「おはようございます。昨夜はよく眠れましたか?」
「おかげさまで。ご飯まで用意してくれて、ありがとうございます」
テーブルに付き、早速朝ご飯をいただく。パンとスープという質素なメニューだけれど、それがいい。スープは野菜もたくさん入っていて、繊細な味がする。
「ぷはっ。美味いな、もう一杯。あと水も」
「ええ。たくさん食べてください」
そんな真心こもった料理を、シェリーは飲み干すようにして食べる。さっきまで泥のように眠っていたくせに、元気なもんだ。結局、彼女はスープを4杯、パンも3つ平らげた。
「すみません、メリアさん」
「教会に人がいないのに、つい沢山作ってしまうのです。嬉しいくらいなんですよ」
僕がシェリーに代わって謝ると、メリアさんはニコニコと笑って言う。
どうやら、司祭様の教区視察に教会の他の聖職者もほとんど帯同しているらしく、今この教会にはメリアさんしかいないらしい。彼女はぱんぱんに張ったお腹をさするシェリーを見て、青い目を細めた。
「それじゃあ、朝の祈祷の後で聖遺物を見せてもらおう」
「ええ、よろしくお願いします」
たらふく食べた後、シェリーはメリアさんと一日の予定をすり合わせる。どうやら、一応聖職者らしく朝の祈祷はちゃんとやるらしい。僕もトーマスと一緒に何度かやったことがあるけど、本来は毎朝しなくてはならない。
それと、異端審問官は立ち寄った教会の聖遺物を必ず確認する義務があるようだ。シェリーの言葉に、メリアさんは特に驚く様子もなく頷く。しかし、この教会には300個を超える聖遺物があるというし、一日で終わるのだろうか。
「コイツは服を洗って荷造りをする。適当に放置しとけばいい」
「……まあ、それでいいけど」
シェリーが顎で僕を示しながら言う。やる事は変わっていないけれど、もう少し言い方を優しくしてほしい。
僕が食器を洗っている間に、メリアさんは礼拝堂で祈祷の準備をする。いざ祈祷が始まると、シェリーは意外なくらい真摯に祈りをささげていた。祝詞も淀みなく紡いでいるし、僕の目から見たら所作も丁寧だ。
「シェリーって本当に聖職者なんだね」
「喧嘩売ってんのか?」
思わず言葉をこぼすと、途端に猛獣みたいな眼で睨まれるけど。
ともかく、3人で行った朝の祈祷はつつがなく終わった。その後、シェリーはメリアさんと一緒に教会の宝物庫へと向かい、僕だけが残された。
「さあ、じゃあ洗濯するか」
メリアさんには、今日中にこの町を去れと言われている。それに間に合わせるには、早めに洗濯を終わらせる必要があった。幸い、今日は良い天気らしいから、日向に干しておけばすぐに乾くだろう。
裏庭に桶を置いて、昨日町で買った石鹸を使って服を洗っていく。汚れを落とした服は、すかさず干していく。風に揺れる服を見ると、なかなか壮観だ。
「げっ」
順調に洗濯物を消化していると、黒い紐のようなものが出てくる。シェリーの下着である。
「うぅ……。これくらい自分で洗ってくれないかなぁ」
シェリーは教会の地下にある宝物庫だ。彼女が見ているはずがないけど、ついキョロキョロと周囲を探ってしまう。裏庭から見える寝所の中に、彼女の大鎌があった。
僕は意を決して、努めて無心になってそれを洗う。汚れているかも分からないし、そもそもどう洗えばいいのかも分からない。それでもなんとか濡らして、物干し竿に引っ掛けた。
「はぁ。なんだか凄く疲れたよ」
ぐったりとしながら立ち上がる。幸い、まだ時間はある。僕はついでに昨日使ったベッドのシーツも洗うことにした。けれど、普通の衣服とは違って、大きいシーツは僕の手に余る。なんとか試行錯誤しながら格闘し、なんとか二人分を干し終えた時には疲労困憊になっていた。
「もうお昼か。早いなぁ」
洗濯に没頭しているうちに、時間は進んでいた。気がつけば、もう太陽もかない高い位置にある。この調子なら、数刻で乾いてくれるだろう。
僕は達成感に包まれて、地面に寝転がる。裏庭は芝生で覆われていて、陽光の下で腕を広げるととても気持ちがいい。時折吹いてくる風が頬を撫で、ついうとうとしてしまう。
『——まったく、愚かな人間ね』
曖昧な意識のなかで、誰かが囁いた気がする。耳馴染みのある声だ。
『早く起きなさい——』
その声が耳元でそっと伝えてくる。
『——貴方もこんなところで死にたくないでしょう』
「しにっ!?」
驚いて目を覚ます。気がつけば、正午はとうに過ぎていた。
あたりを見渡すけれど、誰かがいる気配はない。ただの夢だったのだろうか。それにしては、妙に鮮明な声が耳に残っている。
「あっ、洗濯物」
風に揺れる白いシーツに気がついて立ち上がる。触ってみると、数刻ですっかり乾いていた。
「シェリーたちはまだ仕事中かな?」
随分寝てしまったけれど、シェリーたちが戻ってきた様子もない。
僕は洗濯物を取り込んで荷物をまとめていく。シェリーが戻ってきたら、すぐに出発できるように準備を整えておく。そうやって荷物を纏めていると、頭陀袋の中に小さな本を見つけた。
「これは?」
随分と古そうな本だ。表紙もくたびれているけれど、大切にされてきたのが分かる。かなり昔の言葉で書かれているけれど、どうやら天秤教の聖典らしい。
シェリーがこんなものを持っていることに少なからず驚く。朝の祈祷の時にも思ったけれど、彼女は普段の素行こそ乱暴だけれど、たまに敬虔な信徒の姿が垣間見える。本当に、よく分からない女性だ。
適当なページを開き、読んでみる。ほとんどは意味が分からない文章だったけれど、なんとか曖昧に意味を拾うことはできた。
表向きはシェリーの従者ということになっているのだし、僕も天秤教のことを知っておいた方がいいはずだ。
「うーん……」
最初の方に書かれているのは、この世界の成り立ちについて。混沌の獣と神々の争い、それぞれの時代、そして両者に挟まれた人々の時代について。後ろの方に行くと、現代に残された聖遺物に関する記述が多くなっていく。
これは、聖遺物狩りか異端審問官のための教科書のようなものなのだろうか。
読み進めていくとコツも分かってきて、意味も多く取れるようになってくる。僕は次第に、その本を読むことに没頭し始めていた。
「——おや、珍しいものを読んでおるのう」
「うわっ!?」
だからか、頭上から聖典を覗き込むお爺さんの存在に気づかなかった。その声に驚き、仰け反る。目の前に立っていたのは、豪華な聖衣に身を包んだ白い髭のお爺さんだった。
「す、すみません。気づかなくて」
「ほほ。良い良い。熱心な信者は善いものだからの」
お爺さんはそう言って髭を撫でる。いったい、この人は誰だろう? 名前を尋ねようと口を開き掛けたその時、慌ただしい足音と共にシェリーが部屋に飛び込んできた。
「ウェル!」
「シェリー!?」
彼女は僕を見た後、隣に立つお爺さんを見て一瞬表情を歪める。けれど、僕の見間違いかと思うほどすぐに、にこやかな笑みに変わった。
「不在の中、押しかけてしまい申し訳ない。司祭殿」
「ほっほ」
彼女の言葉に愕然とする。
目の前のお爺さんはそれを否定しない。彼こそが、教区内を巡っていたはずの司祭様のようだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます