第10話「山羊と狼」

 夜の草原、銀月の下に現れたのは異形の魔獣たち。捻れた太い角を持つ、山羊の頭をした人形だ。その縦長の瞳孔に睨まれて、思わず足がすくむ。


「オラァッ!」


 しかし、初動に遅れたのは向こうも同じだ。山羊男たちが動き出すよりも早く、大鎌を拾ったシェリーがその懐に飛び込む。黒い毛皮に鼻先が触れそうなほど肉薄し、月光を浴びながら鎌を振り上げる。


『ギャアアアアッ!』


 股から頭までをスッパリと裂かれた山羊男が断末魔を上げながら崩れ落ちる。黒い血がとめどなく流れ出し、周囲に鉄錆のような腐臭が広がった。僕は思わず呻き、膝をつく。頭を揺さぶるような強烈な臭いに、鼻が曲がりそうだった。


『ハッハッハッハッ!』


 奇妙な笑い声のような叫びを上げながら、山羊男が手に持った刃の欠けた斧を振り上げる。理性のない瞳が真っ直ぐに僕を見ていた。


「タラタラしてんじゃねぇよ!」


 次の瞬間、山羊男の首が飛ぶ。崩れ落ちた奴の手から溢れた斧が、僕の頬を掠めて地面に突き刺さった。思わず短い悲鳴をあげると、鎌から血を滴らせたシェリーが苛つきを隠そうともせず僕を睨む。彼女の様子は、この間の豚鬼オークと対峙した時よりも焦燥しているようだった。


「とっとと荷物を纏めろ。走るぞ」

「えっ。た、倒さないの?」

「倒せないんだよ!」


 困惑する僕に、シェリーは怒鳴る。先ほどの凶暴な様子から一転して逃走を図る彼女に思わず驚く。彼女の背後で、縦に裂かれたはずの山羊男がゆらりと立ち上がった。


「ひっ——!?」

「奴らは魔獣じゃない。悪魔だ」


 鎌を構えながらシェリーが言う。二分割された山羊男が、傷口を重ね合わせる。シュウシュウと白い湯気を噴き出しながら、身体がぴったりとくっついた。一方では、首を刎ねられた山羊男が転がった頭を探して腕を彷徨わせている。


「悪魔って——」

「第四級呪物。魔獣とは明確に違う奴らだ。あたしの武器も呪物だからな、奴らにはほとんど効かん」


 悔しげにシェリーが言う。彼女は襲いかかってきた山羊男を切り倒すが、それもすぐに動き出す。シェリーは胸元の聖印を引きちぎって悪魔に投げつけた。


『ハアアアアアッ!?』


 投げられた真鍮製の聖印に触れた瞬間、悪魔の皮膚が焼け爛れる。まるで赤熱した鉄でも押し当てられたかのように、悪魔は悍ましい声を上げてのたうち回る。


「この程度の神聖性ウィルトゥスじゃ殺せねぇ。今のうちに逃げるぞ」

「う、うん!」


 頭陀袋を抱え、シェリーと共に走り出す。彼女の言った通り聖印程度の神聖性では不十分なのか、背後ではすでに悪魔たちが動き出す気配があった。


「クソ。なんで悪魔なんかが出やがるんだ」


 走りながらシェリーが悪態をつく。彼女は悪魔が突然現れた理由が分からないようだった。僕は彼女の背負う鎌を見て、紫の瞳をしていたフィノの事を思い出す。彼女のことをどう伝えればいいのか分からない。


「シェリー、その——」

「話してる余裕があるなら足動かせ!」


 口を開きかけて叱咤される。背後からは悪魔たちが狩りを楽しむかのようにこちらを追っている。彼らの口元には黄ばんだ鋭い牙が覗いている。あれに噛みつかれることを想像しただけで身の毛がよだつ。

 懸命に足を動かして走るけれど、彼我の距離はジリジリと詰められてくる。こっちは人間で、向こうは悪魔なのだ。その気になれば、一飛びで組み伏せられる。彼らは楽しんでいるのだ。


「ウェル」


 走りながら、シェリーが僕を見て言った。

 嫌な予感がした。


「嫌だ」

「五月蝿ぇ。黙れ。いいから走り続けろ」


 彼女の声が重なる。その鋭い眼に、懐かしいものを感じる。だからこそ、首を振る。


「嫌だ!」


 炎に包まれながら、僕を見ながら倒れた二人を思い出す。もう嫌だ。僕のために誰かが死ぬようなことは、絶対に。


「走り続けろ、ウェル!」


 シェリーが力強く背中を押して、僕を突き飛ばす。止める間も無く、彼女は身を翻して悪魔たちと対峙した。彼女の勇敢さを見た悪魔たちが笑みを深める。その手に握りしめた血塗れの斧を高く掲げる。


「シェリー!」


 彼女は鎌を水平に構える。闇に溶けるような黒い刃が横薙ぎに振るわれる。一体が腰から断ち切られ、地面に転がる。2匹目、3匹目が同時に襲い掛かる。彼女は鎌を振るう。けれど、追いつかない。だめだ。彼女は人間なのだ。


「だめだ!」


 杖を握って立ち上がる。彼女に加勢しなければ。足がすくむ。一歩が踏み出せない。怯えている。恐れている。


「僕が——」


 彼女に救われたのだ。

 彼女を救わなければ。


「僕が——ッ!」


 雲に隠れていた月が現れる。冷たい銀光が降り注ぐ。

 不思議と、そこに温かさがあった。


「はああああっ!」


 踏み出す。一歩。

 そして、走る。

 月光を浴びて、力が漲っていた。僕に狼の血が流れているならば、今それを奮い立たせるその時だ。

 魂に刻み込まれた記憶が励起する。果てのない旅の中で眠っていた力を呼び覚ます。


「うああああっ!」


 ブチブチと何かが千切れる音。全身の骨が軋む。溢れる力が暴走し、制御が効かない。衝動的な本能のまま、拳を握る。指の骨が、山羊の顎を砕いた。


「らあっ!」


 鈍い音。斧を振り上げたまま、山羊の悪魔が吹き飛んだ。弧を描き、広大な草原に転がる。その頬が焼け爛れ腐り落ちていた。


「ウェル!?」


 シェリーの驚愕する声がする。僕はそれに反応する余裕がなかった。突き動かされるまま、2匹目の喉を掴む。視界に映る自分の腕に、灰色の毛並みがあった。


「うらあああああっ!」


 頚椎を握りつぶす。山羊の口から泡だった黒血が噴き出す。奴が白目を剥くのも構わず、そのまま強引に顔面を地面に叩きつける。ぐしゃりと熟れた落果のように血が広がる。


「ガアアアアアッ!」


 咆哮を上げて、最後の悪魔に掴みかかる。奴の振り下ろした斧が、僕の肩に食い込んだ。焼けるような痛みがあったけれど、心地よかった。

 お返しに、その黒毛に覆われた首元に噛み付く。ぐじゅりと染み出す血の味。咽せるような悪臭が鼻奥を貫く。甘露のようだった。

 間近にある山羊の眼に、初めて明確な恐怖が浮かんでいた。今更もう遅い。

 顎に力を込めて、食いちぎる。血が噴き出し、周囲に溜まる。まだ足りない。


「はははっ!」


 悪魔の腹を裂く。黒い血がとめどなく流れ出す。僕は両腕を濡らしながら、その肉を引き裂いた。悪魔は強靭だ。まだ呻き声を上げている。まだ死ぬなよ。


「——ウェル」

「っ!」


 冷たい刃が首すじに触れた。殺気を浴びて硬直する。


「いや、狼神ヴィーヴルの眷属よ」


 背後にシェリーが立っていた。彼女が僕の首に鎌をあてがうのは二度目だ。

 馬乗りになっていた悪魔はとうの昔に死んでいた。残ったのは、全身から灰色の毛を生やした見窄らしい僕だけだ。


「自我を取り戻せ。理性を持て。そちらへ行くな」


 彼女は僕に——化け物の奥にいる僕に話しかけるように言う。荒ぶっていた心が、少しずつ凪いでいく。


「一線を越えれば戻れない。戻れなければ、殺すしかない」


 はっきりとした声。嘘偽りはなかった。

 トーマスの顔が浮かぶ。僕は彼になりかけていた。荒い呼吸を繰り返し、胸の内に渦巻く衝動を抑えつける。


「ぼ、僕は——」


 雲が月を覆い隠す。

 再び、暗い闇が周囲を包む。全身から力が抜けていくのを感じる。あれほどの全能感が消え、四肢に力が入らない。凄まじい疲労が両肩にのしかかる。強烈な眠気、抗い難い虚脱感に襲われる。

 少し遅れて、自分が崩れ落ちているのを自覚した。


「よく耐えた」


 霧がかかる視界のなか、長い赤髪が揺れる。彼女のしっかりとした腕に受け止められる。花のような芳香が、鼻先をくすぐった。

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