第11話「揺れる背中」

 優しい揺れと照りつける陽光の熱を感じて目が覚める。ゆっくりと瞼を上げると、僕は誰かに背負われているようだった。


「起きたか、寝坊助」

「ん……。うわああっ!?」

「おわっ!? 何するんだテメェ!」


 驚いて仰け反ると世界がぐるりとひっくり返る。僕はシェリーと絡まるようにして、柔らかい草の上に転がった。慌てて尻餅をついたまま後ろに下がると、頬に土を付けたシェリーが眉間に皺を寄せて睨んでいた。


「せっかくあたしが態々背負ってやってたってのに、随分なご挨拶じゃねぇか」

「いや、その、ごめんなさい。驚いちゃって」


 ポキポキと指を鳴らして声に怒気を孕ませるシェリーにペコペコと頭を下げて謝罪する。

 記憶を掘り返してみると、夜のことがガラス越しに想起される。山羊頭の悪魔たち。輝く銀月。大鎌を構えて対峙するシェリー。


「ええと、シェリーが助けてくれたんだよね。ありがとう」

「ああ?」


 謝罪に重ねて、感謝を述べる。3匹の悪魔に襲われてなお生きていられるのは、彼女が奴らを倒したからだろう。霞がかった記憶だけれど、彼女が果敢に挑んでいた後ろ姿は覚えている。

 しかし、感謝を告げられたシェリーは片眉を上げて、奇妙なものを見るような目をこちらに向けてきた。僕は何かおかしいことを言ってしまったのだろうか。


「お前、どれだけ覚えてるんだ?」

「ええと、悪魔が現れて、逃げて、追いつかれそうになって」


 僕は覚えていることを指おり数えながら話す。シェリーはそれに耳を傾けながら、うんうんと頷いていた。


「シェリーが3匹の悪魔を倒した?」

「そこが違うな」


 最後の一言が即座に否定される。きょとんとする僕に、シェリーは胡乱な顔になる。


「ふざけてるんじゃないだろうな?」

「な、何を?」


 どうして僕は怒られているんだろう。

 まったく心当たりのないまま、潔白を証明するため深く頷く。すると、シェリーは腰に手を当て、長いため息を吐いた。


「悪魔を殺したのはお前だよ」

「ぼ、僕? そんな、馬鹿な——」

「あたしが見たんだ。そもそも、あたしは魔獣より上位の呪物なんて殺せない」

「ええと……。そういえば、そんなことを言ってたような?」


 シェリーに言われて、だんだん頭が冴えてくる。彼女が手に持っている大鎌は呪物だから、それで悪魔は殺せない。だから、僕とシェリーは奴らから逃げた。シェリーが胸に着けていた聖印を千切って投げつけた光景を連鎖的に思い出す。

 悪魔は聖遺物の神聖性で傷を負う。


「ええと、それじゃあ、僕は……」


 まだ混乱しているし、理解もできていない。けれど、あの夜の記憶が少しずつ明瞭になってきた。まるで、雲が晴れて月が顔を出すように。


「僕は、毛が生えて」


 思い出した。あの時見た、山羊の首を握りつぶす自分の腕を。灰色の毛に覆われた、筋肉質な大腕だ。

 慌てて自分の両腕を見る。けれど、そこにあったのは頼りない男の細い腕だ。


「お前は獣だったよ」


 呆然とする僕に手を差し伸べて、シェリーが言う。彼女に引っ張られ、立ち上がる。


「狼神ヴォーヴルの血が、月光の下で活性化したんだろう。お前は神に取り込まれそうになってた」

「神様に……」


 トーマスの顔が脳裏を過ぎる。理性を失い、人間ではなくなったあの姿を。

 自覚すれば、記憶もさらにはっきりとする。悪魔のはらわたを掻き裂いた時の感触、喉元に噛み付いた時の味と匂い。僕は、獣になっていた。


「一線を越える直前で力尽きて倒れたけどな。おかげでお前を殺さなくて済んだ」


 シェリーはさらりととんでもないことを言う。彼女の持つ鎌は、神殺しの呪物だ。僕が神様になったとしたら、彼女は聖遺物狩りとしての職務をこなすのだろう。僕は自分の首がまだ繋がっていて、空気を吸い込めている今に感謝した。

 そうしてすぐに、薄寒い恐怖が湧き上がってくる。


「その、僕はまたああなるのかな」

「なるだろ」


 恐る恐る尋ねると、彼女はあっさりと頷いてしまった。僕は愕然として彼女を見る。たしかに一度あったことはもう一度あっても不思議じゃない。けれど、またそうなった時に同じく一線を止まれる確証はない。


「安心しろ。とりあえず、毎夜毎夜ああなる訳じゃない」

「そうなの?」

「お前は随分眠りこけてたが、あの後もう一回夜を越したからな」

「そ、そうだったの!?」


 今明かされる衝撃の事実だった。どうやら、僕は丸一日以上も眠り続けていたらしい。つまり、彼女はその間ずっと僕を背負って歩いていてくれたということだろうか。

 そこまで考えて周囲を見渡す。細長い道の先に、畑の広がる村の影があった。


「あれは……」

「テルトナに一番近い村だ。あそこを越えれば、今日中に町に着く」


 やはり僕は随分と眠っていたらしい。しかも、シェリーはその間も歩みを止めなかった。数日かかる道のりを、体感二日で進んでしまった。その優しさに感激していると、シェリーは気味の悪い顔をして肩を引く。


「言っとくが、お前の為じゃねぇからな。あたしも聖印を無くしてるんだ」


 確かに、彼女は胸元の聖印を失っている。聖衣を着ているとはいえ、身分を示すのはあの天秤の紋章が刻まれた印だ。それがないと色々と不都合もあるのだろう。僕はうんうんと頷くと、彼女が持っていた頭陀袋を奪う。


「ありがとう、シェリー。ここからは僕も歩けるから」

「当たり前だ。甘えるんじゃない」


 ぶっきらぼうなシェリーに、思わず笑みがこぼれてしまう。彼女はふんと鼻を鳴らして、先へ先へと歩き始めた。僕は彼女の後を追う。


「あれ?」


 風に揺れる赤い髪を見て、何か違和感を覚える。


「どうした?」


 シェリーが振り返って僕の顔を覗き込む。その赤い瞳は透き通っていて、まるで宝石みたいだ。


「ええと……。いや、なんでもないよ」


 何か忘れているような気がする。けれど、それがいったい何なのかは分からなかった。僕は首を振って再び歩き始める。修道院のある町、テルトナはすぐ近くに迫っていた。



「ああ? だから失くしたっつってんだろうがよ!」

「いやぁ、困りますよ。聖印を持ってない聖職者なんて聞いたことないですし」

「あの、シェリー……」


 テルトナを囲む立派な城塞の一角に開けられた門の袂で、シェリーが門番に掴み掛かろうとする。槍をチラつかされて、余計に苛立っているようだ。僕は必死に彼女の腕を掴むが、すぐに振り払われてしまう。


「その、本当に聖印は持ってたんです。でも、道中で悪魔が出て……」

「悪魔ねぇ。そんなモンが出るなんて話、聞いてないけど」

「だからあたしらが倒したんだよ!」


 首を傾げるおじさんに、シェリーがグルグルと唸る。僕より彼女の方が、よっぽど狼みたいだ。


「あっ! そうだシェリー、袋の中に証書が……」


 頭陀袋の中に彼女の身分を示す証書が入っていたことを思い出す。我ながらとてもいいタイミングだ。


「あっ、待て!」


 僕はシェリーが焦った顔をしているのにも気付かず、軽率に頭陀袋に手を突っ込む。取り出したのは、やはり彼女の名前と身分がしっかりと記された書類だ。それを、門番のおじさんに渡す。


「ふぅむ? 借用書? キミ、教会から借金してるじゃないか! しかも返済期限も切れてるし!

「ええっ!?」


 おじさんの声に僕まで目を丸くする。シェリーは慌てた顔でその紙を掴み取って、乱暴に胸元に押し込んだ。しかし、おじさんはしっかりとその紙を見ていた。じっとりとした目をシェリーに向けて、彼女の手を掴む。


「いいよ、町には入れてあげよう。その代わり、教会に出頭してもらうからね」

「……ちっ」


 シェリーはしばらく黙っていたけれど、結局舌打ちをしながらそれに応じる。僕はそんな彼女に憮然とした目を向けながら、町の中にある教会に向かって歩き出した。

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