第9話「月下の魔女」

 目を覚ましたのは、夜風が冷たかったからだ。ユシュールの焚き火は煌々と燃えていたけれど、銀色の月が見下ろす夜闇は肌寒い。何より、僕は着の身着のまま、毛布の一枚もなく地面に寝転がっているのだから当然だった。


「……」


 ふと隣を見ると、シェリーがぐうぐうといびきをかいて寝ている。自分だけ暖かそうな布に包まって、良いご身分だ。

 レーテルのパンを食べたからか、数刻しか寝ていないはずなのに疲れはほとんど抜けている。近くの川で土に汚れた顔を洗って、焚き火の前でぼんやりと座り込む。


「今更、悲しくなってきたかな」


 大きな銀月を見上げる。激動の二日間だった。気がつけば、天涯孤独だ。父さんと母さんと、村の皆は安らかに眠れているだろうか。ようやく心が追いついてきたのか。ようやくキュッと胸元を掴まれたような辛さが襲ってきた。

 ゆらめく炎を眺めながら、思い出を噛み締める。覚えている一番最初の記憶は、投げつけられた石の痛みだ。まだ安住の地がなくて放浪していた頃のこと、立ち寄った村で石を投げられた。逃げるようにしてその村を去り、母さんに抱きしめられ、繰り返し謝られた。

 僕があの人の子供であることを示すのは、この灰色の髪だ。仲間はみんな、色の濃淡はあれど灰色の髪だった。最初はこの燻んだ色のせいで蔑まれているのだと思っていた。“灰毛アッシュフェール”の一族であると父さんから聞いたのは、もう少し経った後、あの谷奥に村を構えた頃のことだ。

 その時も、聖遺物であるというような話はされなかった。ただ、僕たちは災厄を呼び寄せる忌人の一族であると、いつになく真剣な顔をした父さんに告げられた。忌人という言葉の意味は分からなかったけれど、あの日投げられた石の理由がそれであることは、なんとなく理解できてしまった。

 運命の残酷さを呪ったこともあったけれど、村での生活は穏やかで平和で、楽しいものだった。決して楽なものではなかったけれど、一族の結束は強かった。全員で手を取り合い、助け合って、細々と暮らしていた。


「トーマス」


 彼がやって来たのは、数年前の話だ。最初に彼を見つけたのは、村一番の狩人だったライナーだった。泥と落ち葉で汚れ、息も絶え絶えだったトーマスを、薬師のパケラ婆さんのところへ担ぎ込んできたのだ。

 その後、大人たちは長い時間話し込んでいた。きっと、トーマスの処遇、生かすか殺すかを決めていたのだろう。結局、彼が目を覚ますのを待って、密かに銃を突きつけながら様子を窺っていた。

 トーマスは、良い人だった。

 僕たちが“灰毛アッシュフェール”であると知ってなお、感謝の意志を持ってくれた。更に、天秤教の修道士として教師として、村にあった空き家を教会として住み始めた。

 僕も含め、子供たちはトーマスから色々なことを教わった。言葉、文字、計算、そして天秤教のこと。何度かの季節を繰り返すなかで、大人たちもトーマスを信頼していった。


「トーマスは、良い人すぎたのかな。それとも、僕たちのせいだったのかな」


 結局、トーマスは人ではなくなってしまった。聖人、つまり聖遺物になってしまった。人といいながら、実際には神に近い存在だ。

 それは、彼が毎日熱心に祈りを続けた結果なのかもしれない。彼は修道士だった。僕たちの授業の他は、教会で祈りを捧げていた。

 もしくは、僕たちのせいなのかもしれない。生ける聖遺物である狼血が、彼に何か作用してしまったのかもしれない。

 どちらが悪いのか。何が理由だったのか。今はもう、わからない。

 確かなのは、あの谷に悪人はいなかったと言うことだけだ。


「——嫌だなぁ」


 目頭が熱くなる。頬を冷やす風で、自分が泣いていることに気がついた。

 どうして、父さんたちは死ぬ必要があったんだろう。なぜ、トーマスは苦しんで死んだんだろう。彼の断末魔はまだ耳に残っている。両親の愛に満ちた遺言も。

 僕は“女神の抱擁レディ・ハグ”を、本物の聖遺物を見つけなければならない。見つけて、この残酷な血を、除かなければならない。もう2度と、“灰毛”の一族が、狼血をその身に宿す一族が、石を投げられないように。

 だから、僕はシェリーと旅をするのだ。彼女と持ちつ持たれつの関係を保ちながら、いつかこの血の運命に終止符を付けるために。


「本当、嫌になりますわね」

「っ!?」


 突然、僕以外の声がして飛び上がりそうになる。しかも、その声が焚き火の向こうから、シェリーの声でしたのだから。


「だ、誰!?」

「ふふふっ。つれないわねぇ、寝食を共にした仲でしょうに」


 毛布に包まっていたシェリーがゆらりと立ち上がる。その動きは、まるで見えない糸に吊られるようで、とても人間のようには思えない。彼女は瞳を紫色に怪しく輝かせ、妖艶な笑みでこちらを見ていた。


「シェリー、いや、誰なんだ!」


 彼女は、彼女ではない。直感的に理解した。冷たい鉄のような、嫌な匂いが鼻奥を突く。あの夜のトーマスと同じだ、シェリーの体にシェリーではない何かが潜んでいる。

 彼女は何が面白いのか、肩を震わせて笑う。


「うふふっ。良いですわね、その表情。とてもそそられるわ」

「何者なんだよ」


 泣きそうだった。

 彼女とは違って、僕には何も力がない。襲われたら、抵抗なんてほとんどできない。


「心配しなくても、殺しはしませんわ」


 不気味なほど上品に、指で口元を隠しながら彼女は微笑みを絶やさない。


「今晩は挨拶だけしようと思いましたの」

「挨拶?」


 拳を固く握りしめながら繰り返す。彼女は鷹揚に頷いて口を開いた。


「今後も長いお付き合いになるでしょうから。——わたくしのことは、フィノとお呼びくださいな」

「フィノ?」

「ええ。かつてはこの世で暴虐の限りを尽くした、大いなる獣の名前ですの」


 彼女——フィノは誇るように言う。それを聞いて、はっと気づく。僕の視線で、彼女も口元の笑みを深めた。


「ええ、ええ。お考えの通り、そこに転がる大鎌の呪いですわ」


 混沌の獣、黒猪の牙から削り出された呪いの大鎌。フィノはそこに宿る呪いだというのか。とても考えられないが、僕の想像力など到底及ばないことはこの世にいくらでもあることを既に思い知らされた後だ。


「どうして……僕の前に」


 押し潰されそうな恐怖に耐えながら尋ねる。フィノは一歩こちらに歩み寄る。その瞬間、焚き火が掻き消える。濃密な闇の中に、彼女の瞳と赤い口元だけが浮かび上がる。


「持ちつ持たれつ、ですわ。貴方が呼び寄せた聖遺物を、私が喰らう。貴方は災を免れ、私は力を高める」

「そんな……!」


 俄には信じ難い。けれど、信じてしまう。

 シェリーは聖遺物の神聖性で呪いの力を打ち消していると言っていたけれど、それは間違いだ。彼女は、フィノは聖遺物を喰らって力を増している。そうして、いつかシェリー自身を——人々の時代を喰らう時を虎視眈々と狙っている。


「今はまだ、力が足りませんの。だから、貴方のような人を待ち侘びていましたのよ」


 僕は餌だ。僕という聖遺物に引き寄せられた聖遺物を彼女は喰らう。そして、やがて完全な力を取り戻す。フィノは天秤が傾くことで、自分が全盛の力を取り戻す時を待っているのだ。


「僕は——」


 僕はどうするべきだ。シェリーから離れるべきだ。いや、それはできない。僕は、僕に押し寄せる災禍を退けられない。シェリーもまた、僕を逃す選択肢を持たない。広大な砂原で一つの砂金を見つけ出すには、僕という羅針盤が必要だ。


「貴方はとても賢いですね」


 いつの間にか、フィノは間近に迫っていた。綺麗な顔が妖しい笑みを浮かべて、冷たい手が僕の頬を柔らかく撫でる。僕の考えなど、彼女は全て分かっているようだった。


「私が完全な力を取り戻すまでに、貴方が忌まわしき女の亡骸を見つければ良いのです」


 彼女が耳元で囁く。

 それが、唯一の道筋だった。


「——必ず、見つけるよ。貴女を殺すために」


 フィノが笑う。僕が向けた殺意に喜んでいた。


「競争しましょう。どちらに天秤が傾くか。お互い、果ての見えない道を共に進みましょう」


 鼻先が触れ合いそうなほどの距離で、フィノが言う。彼女の冷たい吐息が頬に掛かる。嬉しそうに楽しそうに目を細め、僕の体に寄りかかる。その紫に透き通った瞳に、吸い込まれそうな錯覚に襲われる。


「まずは、私から貴女へ。ちょっとした歓迎のおもてなしを致しましょう」


 全身が総毛立つ。瞳孔が開ききり、急に闇が薄らいだ。草原の其処彼処から憎悪と怨嗟に塗れた殺意が向けられる。フィノは艶やかに笑っていた。笑いながらこちらを見ていた。鼓動が加速する。汗が湧き出すのを感じる。


「——おい、何やってんだお前」

「はっ!?」


 ふわりと香りが変わった。花のような芳香だ。彼女の肩をきつく掴んでいた。その赤い瞳を見て、鋭い眼光を向けられて、冷静になる。


「シェリー」

「お前がこんな情熱的な夜這いをかけるとは思わなかったが、まあいい。それよりも、野暮な覗き野郎をぶん殴らねぇとな」


 彼女は僕の胸を軽い拳で打つ。そうして、足元に落ちている黒鎌を拾い上げる。

 周囲の茂みから、黒い影が現れる。誰かが呼び寄せた、呪いの影だ。

 すっかり周囲を取り囲んだ魔獣たちを睥睨して、シェリーは凶悪な笑みを浮かべる。さっきまでのそれとはガラリと変わった、彼女の笑みだ。その目が鋭くなる。次の瞬間、獣の悲鳴が草原に響き渡った。

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