2章 第8話 緋色のラクピス
「聖女様、使徒の少年が姿を消しました」
壇上から降り、祝杯に沸く会場から離れたセヴァンジェリンに対して、黒を基調とした礼服に身を包んだ男が声を潜めて伝えた。
「ええ、承知しております」
「よろしかったのですか?」
「彼は遅かれ早かれ、いつか私たちから離れていったでしょう。
使徒の少年には、多くのモノに触れて、感じて、その上で我々と向き合っていただくことにしましょう」
「…仰せのままに」
男が深々と礼をすると、その後ろから一人の給仕がこちらへと駆けてきた。
「お話しのところ恐れ入ります。見張りからの火急の知らせです。
聖女様のご推察の通り、息のかかっていない憲兵がこちらへ向かっております」
「あら、案外早かったですね。では手筈通りに」
二人の部下は深々と礼をすると、それぞれの持ち場へと散らばっていった。
セヴァンジェリンは二人が去った後、カナタが去っていった扉の方へ視線をやった。
そして、口を付けなかった葡萄酒の杯を手近な机へと置くと、いまごろ必死で逃げまどっている少年を想い、彼女は目を細めた。
「アナタとはまたいつか会えるでしょう。私、分かるのよ」
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「あのー…いい加減許してくださいよ」
「黙れ」
黒々としていた雨雲はとっくに過ぎ去り、新市街の路地は夕陽の茜に染まっていた。
不機嫌そうに顔をしかめたトリワーズに首根っこをつかまれて、カナタは連行されていた。
トリワーズは女性ではあったがカナタよりもその背は高く、軍属の経歴もあるためか鍛えられており、カナタを引きずるようにしてもその重さは感じていないようだった。
すれ違う通行人たちは、二人の姿をみると驚いたようにして道の端に避けていく。
異様さもあるだろうが、通行人たちはトリワーズが着る紅色の隊服を見て、避けているようにみえた。
「トリワーズさんって有名なんですね」
「貴様、嫌味か?嫌われてるんだよ」
それもそのはず、新市街であろうが城下街であろうが、レグナムルスを居とする者であれば、その隊服の意味を知らぬ者はいなかった。
その紅色の隊服は、スクード卿の直下部隊である”監査隊”であることを示している。
監査隊とは、税の横領、首長の叛意、他国との通謀などを取り締まるスクード卿領地内の秩序維持のための部隊であった。
そのため監査隊という組織を知っている者であれば、その陰にある大きな事件や問題に巻き込まれまいと、自然と離れていくのは当たり前だった。
「貴様も城内から居なくなったとは聞いてはいたが
いったい今の今までどこをほっつき歩いていたんだ?」
「好きでこんなところまで来たわけじゃないんですよ…」
トリワーズの呆れたような目線を受けたカナタは、言い返す気力もなくしおしおと消沈して見せた。
日が落ち始め、人通りがまばらになり始めた石畳の街道を、二人で城へ向かって歩く。
通りは下り坂になっているためか水はけは良い様だが、ところどころ窪みに水溜まりが出来ており、カナタは首根っこをつかまれたまま器用に避けて歩いた。
「城から離れているってことは、何か緊急事態ですか?」
「…機密にあたる、詳しくは言えん」
「そう言うってことは、事件なんですね。たとえば人探しとかですか?」
「…まあそうだよ」
カナタの問いかけに鬱陶しそうな顔をしていたトリワーズだったが、少し疲れをみせると愁傷にうなづいてみせた。
「レグナムルスに帰還して直後に人探しとは…トリワーズさんも大変なんですね」
「なんだその目は…!気安いぞお前!」
この世界で記憶を無くしてから、カナタは多くの人の助けを受けて暮らしてきた。
そのため他人と接する場合は、自然と礼節を持った対応をするようになっていた。
だがしかし、村で一緒に過ごした同い年の友人であるジィチや、たまに嘘を教えてからかってくるベキシラフなど、礼節を気にしないでよいなと判断した場合、カナタは気兼ねなく、実に率直に対応することがあった。
村で起きた騒動を端に発するこのトリワーズとの関係性は、カナタの一方的ではあるが友好的で気安いものであった。
端的に言ってしまえば、カナタは無意識ではあったがトリワーズのことを舐めていた。
「チッ…!こっちだって帰還してすぐで忙しいというのに…」
「トリワーズさん
「面倒がられて、私たちに押し付けられたんだよ!!」
「なるほど…」
監査隊と呼ばれる治安維持のための部隊。
その隊長たる存在がこのトリワーズ監査官代理と呼ばれる女性だった。
部隊長
どうやら領民にとって厄介者として有名な監査隊でも、レグナムルスの城内ではあまり強い立場にはないようだった。
「新興部隊だからと、舐めやがって…」
もともと苛立ったような表情をよく浮かべていたトリワーズだったが、何かを思い出したのかその表情の険をより一層深めた。
「落ち着いてください…癇に障るようなこと言ったみたいで、すみませんでしたから…」
「フゥー…フゥー…そういえばガキ、お前は今まで何してたんだ?」
「ガキじゃないですカナタですぅ。
別に遊んでたわけじゃないですよ。衛兵さんに城から放り出されたちゃって、城下町を迷ってたんですよ。
そしたら親切な人に案内されて…」
カナタはそこまで言って、言葉を止めた。
ふと一つの疑念が頭をよぎったからだった。
急に言葉を止めたカナタを見て、トリワーズは怪訝そうな顔で尋ねてきた。
「親切な人だと?一体どんな奴だ」
「えっと…」
ここでカナタ自身が体験した出来事を、包み隠さずトリワーズに伝えようかとも考えた。
だが、”警笛の使徒”たちの集会で会った女の一人は、自分のことを城に勤める文官だと言っていたことを、カナタは思い出した。
また、あの場に居た集団は、身綺麗で社交的な礼儀作法を知っているような人物が多かったように思えた。
そのことを踏まえて、カナタは一つの考えに思い至った。
”警笛の使徒”と呼ばれる集団はこのレグナムルスの深くに溶け込んでおり、その影は城の内部まで浸透しているのではないか。
すなわち、思いもよらぬ相手が”警笛の使徒”だったりするのではないか。
それはトリワーズも、例外ではないのではないか、と。
「…どうした?急に固まって。早く何をしてたか言え」
「えっとぉ…」
カナタは嫌な汗が背に垂れるのを感じた。
正直、トリワーズはおそらく”警笛の使徒”ではないだろうという勘がカナタにはあった。
だが、トリワーズの周囲にいる人間が、そうであった場合、王子暗殺の計画を知るカナタを排除しようと考えてもおかしくはないだろう。
カナタは覚悟を決めて、適当な嘘をつくことにした。
「実は…鼠径部を見せるように迫る変態の集団に囲まれたので、今まで逃げ回っていたんです」
「あ゛?鼠径…?」
「どうもにも今、レグナムルス在住の変態の中で、汗をかいた鼠径部を眺めることが流行りとなっているようで…。
その部位は、人の躍動を生み出す場所だとかなんだと言って、新市街を連れまわした挙句、彼らの住処に誘い込まれ、汗ばんだ鼠径部を露出するように迫られたんです」
「何????」
よくわからない胡乱な情報を唐突に流し込まれたトリワーズは、呆れたようで困惑したような表情を浮かべると、その思考を固まらせた。
「命からがら、鼠径部からがらで彼らの住処を飛び出したのですが、
いかんせん土地勘がなくて、しつこい追手を撒くために気付けばこんな場所まで…
いやぁ、都会は怖いところですね」
「そう、か。覚えておく。」
怪訝そうな顔のしわをより深くさせながら、トリワーズは何も言わずに歩き始めた。
「ところで…トリワーズさんが探している人って、何か特徴があったりするんですか?
新市街を結構走りまわったので、もしかしたら見たかもしれませんよ?」
カナタはすかさず”警笛の使徒”から話題をすり替えようと試みた。
トリワーズはもとよりそこまで気にしていなかったのか、すんなりと答えた。
「外見をお前に伝えても当てにならないだろう。おそらくだが、自分が探されていることを理解しているはずだ。
…そうだな、しいて言うならば、顔がわからないように隠しているはずだ」
「隠している…たとえば、頭巾を頭から被ったりとか?」
「恐らくはそうだろう」
「なるほど」
トリワーズに引きずられたまま、カナタは腕を組んで頷いた。
「例えば、そう、あんな感じ…?」
「なに?」
首根っこを掴まれ引きずられていたカナタは、トリワーズの背後のほうを指さした。
傾きを増した夕陽は建物の影を作りだし、石畳の街道を黒と茜色のまだらに染めている。
カナタの指の先、新市街特有の煉瓦と木材を組み合わせた建物の外壁に、細長い灰色の布切れが吊り下がっていた。
いや、それは布切れでなく、灰色の布を被った細身な人影だった。
トリワーズよりも背は高いだろうか。
布切れからはみ出した手足は細枝のように心もとなく、その肌は連峰の冠雪のように白かった。
雨上がりの湿った風を受けて静かにゆれるその姿は、枯れ木のようにも見えた。
その佇まいに、カナタは沸々と込み上げる不安で顔をこわばらせた。
ダルそうにトリワーズが振り向こうとした瞬間。
たゆたっていた布切れが、まるで糸が切れたかのようにして地面へと広がっていった。
まるで、中の人影が消滅してしまったかのように、力を失って崩れ落ちていく。
完全に地面へと広がるかと思われたその瞬間。
音もなく、石畳を滑るようにして、灰色の布が這い寄ってきた。
トリワーズさん!!敵だ!!
カナタが咄嗟に声をあげようとした。
しかし、声が口から出たかと思えば、直ぐにかすれて消えてしまった。
(声が大気に通らない…?!)
トリワーズへの警告が音となって伝わらず、カナタはパクパクと空けた口から、空気の塊だけを幾度か吐いた。
遅れて襲撃者の魔術によるものだとカナタは気付いたが、そのほんの数秒でトリワーズへの注意が遅れてしまった。
「一体なんだ…?」
怪訝そうに振り向こうとしたトリワーズだったが、背中を炙るような殺気を受けてその身を引き締めた。
雨に濡れた外套のうちに隠した片手剣に手を伸ばす。
そして、残った腕で少年の首根っこを引っ張り、自分の背後に隠した。
それは、ほんの一呼吸にも満たない対処。
戦帰りであるトリワーズだからこそ、行えた対処であった。
だがしかし、襲撃者にとっては一瞬だけ遅かった。
振り向いた際に目線を高く持っていたトリワーズは、地面と溶けいるほどの低さで迫りくる影を見失ってしまった。
その一瞬の隙をついて、這い寄ってきた影が覆いかぶさるようにして、カナタとトリワーズに飛び掛かった。
(暗器…?!こいつ暗殺者だ!!)
仄暗い闇のような布の内側から、よく磨かれた直刀が光を放っていた。
そして構えすら取れていない二人へと、白い軌跡を描きながらまっすぐに繰り出された。
トリワーズが身構え、剣を抜くよりも早く、直刀はトリワーズの胸元直ぐまで到達していた。
咄嗟に身をよじって避けようにも間に合わない。
暗殺者の凶刃が煌めき、心の臓と”炉”とが合わさった左胸を貫こうとした。
紅い鮮血が飛び散らんとしたその時、よく通る女の声がカナタの背後から聞こえた。
「赤・緋閃」
鮮やかな光跡を残したまま、緋色の閃光がカナタの鼻先を掠っていった。
そしてそのまま、覆いかぶさろうとした刺客の中心に吸い込まれていった。
硬質な金属音を鳴らしながら、焼け焦げた布切れごと、人影は遠くへと弾き飛ばされた。
何者かが放った
(女…?)
ぼろ布の一部が
白い肌の女が、冷めた目つきで閃光が放たれた背後を一瞥した。
そして襲撃が失敗したと悟るや否や、建物の影に溶けるようにしてその姿を消した。
「間一髪、危なかったわね」
背後から勝気そうな声が聞こえ、カナタは背後を振り返った。
山影へ消え入ろうとする真っ赤な夕陽を背に受けて、1人の女が悠然とこちらへ向かってきた。
右手には刀身だけが布からむき出しになった大剣が、白煙を立ち昇らせていた。
飾り気のない丈の長い外套に隠れて気付かなかったが、急所を覆う軽鎧の輝きが外装の隙間からのぞいていた。
沈みかかった夕陽を浴びて、頭まで被った外套から漏れた髪が緋色に煌めいている。
その緋色の髪を見て、カナタはあの勇ましくも荒ぶる秋熊の首領を連想した。
カナタは呆けたようにその姿を眺めていたが、突然トリワーズに頭をつかまれると、地面へと縫い付けられるようにしてその頭を下げさせられた。
「ラクピス様…お探しいたしました」
「出ていくつもりはなかったけれど…目の前で既知の者に死なれたら流石に夢見が悪いじゃないの」
呆れたようにため息をつくラクピスと呼ばれた女は、大剣の柄にぶら下がった布を振り回すようにして巻きなおすと、頭にかかっていた外套を払った。
その背丈はトリワーズより少し高い。
髪と同じ緋色の細い眉に、くりくりとした琥珀色の瞳と、幼さが残る顔立ちはカナタと同年代のようにも感じられた。
「監査隊のアナタが連れ歩いているということは……さてはコイツは罪人かしら?」
しかし、人をまっすぐに見つめるその冷めた瞳からは、ラクピスがそれまで潜った修羅場の数が伺えた。
武人特有の身のこなしには、気負いもなければ、隙も無い。
カナタの胸元まであろうかという大剣を、片手で軽々と持ち上げると背に担いだ。
風に揺れて波打つ緋色の長い髪の毛が真っ赤な夕陽に透けて、まるで燃え上がる烈火のようだとカナタは思った。
「ラクピス様、この者は罪人ではありませんが…」
「が?」
「厄介なガキです」
「ひどいや」
あんまりな紹介をするトリワーズを、カナタは悲しげ顔で見つめた。
だが、こちらを見ることはなく、トリワーズは深々と頭を下げたままだった。
「邪気はなさそうだし、アナタの言うように罪人ではないのね」
「まあ、そうなりますが…」
「トリワーズさん?なんで不服そうなの?」
不詳不詳と言った風に話すトリワーズに、カナタはささやかな抗議の声をあげた。
不服そうに頬を膨らませたカナタは、いつの間にか目線を合わせこちらを眺めるラクピスに気付いた。
「なにか落ち度でもありました…?」
「そういうわけじゃないけど…よし決めたわ
じゃあ、行きましょうか」
「え?」
ラクピスは不思議そうにするカナタの手をつかむと、トリワーズを置いて歩き出した。
「ちょっと!?ラクピス様どこへ?!」
一瞬、呆気に取られていたトリワーズが追おうとするが、ラクピスはそれを手で制すと、高らかに告げた。
「ラクピスの名において告げる。
このまま、私を逃がしなさい。
大丈夫、騒ぎは起こさないようにするわ」
「……ヤーブ殿には、報告いたしますからね」
「そうね!よろしく!」
頭を抱えたトリワーズへ手を振ると、ラクピスはずんずんと新市街の中心へと歩き始めた。
「えっ、このまま俺も!?」
カナタは一瞬止まろうとするが、ラクピスの力は強く、なかば強制的に歩かされる。
カナタは確かめるように背後のトリワーズを幾度か振り向いた。
しかし、力なく手を振る監査官代理をみて、カナタの顔は青ざめた。
「えっと、あのラクピス様……いったいどちらへ?」
「んー、観光のつづき?」
「えぇ……」
遠くから聞こえる喧噪を追うように歩き出したラクピスに連れられて、カナタは日が落ちた新市街の中心部へと向かい始めた。
いまだ慣れない街の空気に身体をこわばらせながら、カナタは不愛想な姉に今、無性に会いたくなった。
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