2章 第4話 王壁卿スクード
「お待たせいたしましたスクード卿。リストフただいま帰還いたしました」
「戻ったか、ご苦労」
侍従に通された執務室で、山のように書類が積まれた机の向こう側から、静かに筆を置く音と、男の低い声が聞こえてきた。
黒檀の重厚そうな椅子から、ゆっくりと、億劫そうに立ち上がった男は、リストフ立の前まで歩き寄ってきた。
「例の少年は連れて来たのか?」
「その件なのですか…」
伸ばし整えたあご髭をさする壮年の男はどこかくたびれた様子で、日頃の疲れがたまっているのか、どこか覇気のないように見えた。
しかし、ポエラは内心、興奮にも似た静かな喜びを感じていた。
(彼が北伐の雄、
前々回にあたる第六次北伐の第一級功労者であり、王国を守護する強壁の二つ名を持つ救国の英雄。
王国北端の支城へと迫る過去最大の勢力を誇った北帝の攻城軍から、戦力で圧倒的に劣るなか、越冬まで死守をして見せ、あまつさえ反攻まで行ってみせた。
過去においても類を見ない功績を残す、まごうことなき王国の英雄がそこにいた。
その証左に、腕を後ろに組み、根を張った大木のように微動だにしないその佇まいは、領主という地位にあっても、その肉体が衰えなく鍛え上げられていることが伺えた。
彫りの深い顔には、これまでの戦場で負ったのであろう深い傷跡が幾つも見てとれる。特に額から眉間を通り頬の右を渡る切り傷は、首筋にまで這っていた。
ポエラは書類仕事に疲弊した様子の目の前の男に、底知れない凄みを感じずにはいられなかった。
眠たげに下がった灰がかった眼で部屋を一度見まわした男は、どうやら目的の少年がこの場に居ないことに気付き、ゆっくりとその眼を細めた。
その瞬間、部屋の中に静かな緊張が走った。
見据えたものを縫い付け、萎縮させてしまうその鋭い眼光が、この男が当代のレグナムルスの領主であるスクード卿だということを物語っていた。
「申し訳ありませんスクード卿…、ただいまその使徒の少年はこの場におりません」
「どうした、ここまでの道ゆきで怪我でもしたのか?」
「いえ、到着してすぐに、城内より失踪いたしました。ただいま監査隊を動員し捜索を行っております」
「なんと…そうか」
スクード卿は目を伏せると、少し残念そうに肩を落とした。
「報告にあった使徒の子供を一応見ておこうかと思ったが…、今は却魔祭の準備でなんせ時間が惜しい」
「来賓の対応に、式典の監督、式典における警備、治安維持まで、大変ご多用のところ恐れ入ります」
「恐らく式典が終わるまで空いた時間は無いだろう。もうここにはもう連れて来なくていい。しっかり探すといい」
「承知いたしました」
リストフは、スクード卿からの強い追求が無かったことに安堵した様子だった。
大きな腹を揺らしながらゆっくりと息を吐くと、リストフは話題を変えた。
「却魔祭まであと7日と迫りましたが、我がフォレディタス殿下は本式典までには到着する予定となっております。つきましては、のちほど陛下来訪までに、最後の打ち合わせをさせていただければ」
「ああ、式典の宣言まで陛下の安全性には万全を期している。だが、第一王子の御身に、万が一もあってはならない。我が衛兵との連携は密にさせていただくぞ、皇太子第一執政官殿」
「フォレディタス…第一王子?式典の宣言は第二王女が行うのでは?」
ポエラは辺境伯と王国の執政官との会話に割り込む形で、咄嗟に声を出していた。
驚愕、という言葉がぴったりとあてはまるような、唖然とした表情でポエラは固まっていた。
それほどまでに、先ほどのスクード卿とリストフの間で交わされた言葉は、ポエラにとって信じられない内容だった。
レグナムルスの却魔祭は、ここ数年は、諸侯の子息たちからの支援もあり、純粋な祝祭として盛り上がりを見せていた。
しかし、もとは王位継承権を持つ皇太子や皇女が、次期国王候補としての地位を王国内に知らしめるための式典としての側面を、却魔祭は持っていた。
北帝国と地理的に近くに位置するレグナムルスは、150年の間、北伐への多大な貢献を行っていたこともあり、過去の領主たちは、特に軍部と近い王家の派閥との関係が深かった。
そのため、前回の北伐において最前線の支城で陣頭指揮を執り、あまつさえ戦闘に出て武功をあげた第二王女を、レグナムルスは支援するのが通例であった。
斥候隊として、北伐遠征軍への同行と貢献を行ってきたカナタ村の人間としても、式典の宣言をするのであれば第二王女だろうとポエラは思っていた。
しかし、先ほど会話であがったフォレディタス第一王子は、王国の
内政府は北伐に対して懐疑的な立場を持っており、古くから軍部との関係はあまり良いものではなかった。
そのため、内政府側の王位継承者である第一王子と、軍部側の王位継承者である第二王女とは対立勢力にあるといえた。
水色を基調とした文官の制服に身を包んだリストフは、現在の肩書を皇太子第一執行官といった。
皇太子第一執行官とは、内政府における皇太子
そのため、先ほどのスクード卿とリストフとの会話は、”今後、レグナムルスは第一王子の陣営へと鞍替えをするということ”を示していた。
怪訝そうな顔をするスクード卿と、冷たい目を向けるリストフを見て、ポエラは自分の失言に気付いたが、自身の中の困惑は深まるばかりだった。
「はぁ…」
ポエラの背後に立ちすくんでいたヤーブが、呆れたようにため息をつくと補足するように答えた。
「レグナムルスは次期王位継承者として、フォレディタス第一王子を支持するということで間違っておりませんよ、ハイ」
「…ヤーブ殿、それは、ここが辺境伯の御前と理解しての言葉でしょうか?わきまえていただきたい」
皇太子付きであり内政府の重役でもあるリストフの、穏やかなようで薄刃のような鋭利な言葉が、まっすぐにヤーブへと向けられる。
それに対して、意に介していないかのように、涼しい顔で受け止め、一礼で返すヤーブという男の態度が、彼もまた北伐とは異なる”政争”という争いを勝ち抜いてきた古強者であると言うことを物語っていた。
「ああ、スクード卿、お伝えが遅れました。
却魔祭のため、カナタ村より使者を連れてまいりました。ポエラ殿、挨拶を。」
急にリストフより紹介を受け、呆然としていたポエラは、慌ててスクード卿へと向き直った。
「カナタ村、村長の名代として参りました孫娘のポエラと申します。この度は却魔祭のご開催を心よりお祝い申し上げます。」
昔、父から習った作法を思い出しながら、恭しく口上を述べて深く礼をする。
ポエラの口上を表情一つ変えずに聞くスクード卿は、降り注ぐような威圧感がどこか”聖森”の大樹のようだとポエラはふと思った。
頭を垂れたままスクード卿からの返答を待ったが、執務室の中にシンとした静寂がしばらく続いた。
来訪者にかける言葉を選ぶには長すぎる時間がたったあと、スクード卿は口を開いた。
「そうか、お前がマレトロの娘か」
思いがけず聞いた父の名にポエラは驚いた。非礼であることを思わず忘れ、顔をあげてスクード卿を見上げた。
雨空を空いっぱいにうつす硝子窓は、部屋に微かな明かりをもたらしてくれてはいるが、スクード卿の表情は部屋の薄暗さもあって伺いづらい。
ただ、少なくとも親しみを込めた笑みはいっさい感じられないことは、ポエラにも分かった。
「マレトロは父です。数年前に亡くなりました」
「ああ、知っている」
「父をご存じでしたか?」
「ああ…。
カナタ村の使者よ、遠いところからの謁見ご苦労だった。もう下がっていいぞ」
スクード卿はポエラの問いかけに、言葉少なに返答をすると、面会は終わりだと告げた。
ポエラは立ち上がり、先ほどの言葉の真意をただそうと思ったが、スクード卿はすでに用は無いと言わんばかりに、執務机へと戻っていった。
「では、ポエラ殿行きましょうか」
いつの間にか、ポエラの隣に立っていたリストフに促されて、ポエラは立ち上がりスクード卿の執務室を後にした。
「北伐の功労者であるスクード卿が、軍部と犬猿の中である内政府の王子に手を貸した…?
それにスクード卿は、父を知っていた?」
部屋に入る前までまで感じていた興奮は既に冷めており、ポエラの心中は沸々と湧くような静かな憤りと、激しい困惑で満たされていた。
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「…それで、何か報告が?」
うず高く積み上げられた書類の束を崩すように処理していたスクード卿は、掴んだ書類に羽筆を走らせながら、部屋を出て行かなかったヤーブへと問うた。
「恐れ入りますが、一点ご報告があります。」
「なんだ」
「我が主が、護衛の監視を振り切り、王国内にて失踪いたしました。
先ほど部下が掴んだ情報によると、どうも、ここレグナムルスに潜伏している可能性が高いとのことです」
バキッ!!
スクード卿の指先の羽筆が真っ二つに割れた甲高い音が部屋に中に響いた。
その後には、静寂が部屋を包んだ。
「このことを知っているのは?」
「現在、監査隊の面々のみにとどまっています。」
「…情報の共有を。 御身に大事あっては困る」
「随意に」
「まったく…かのお方の無茶には困ったものだ」
スクード卿は、顔に浮かんだ疲れを絞り出すかのような深いため息をついた。
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