2章 3話 黒い街、黒い修道女
「ここがレグナムルスかぁ」
黒々とした雲から大粒の雨が降りしきる中、間を開けずに立ち並ぶ家屋を見回しながら、カナタはしみじみと自分は村から離れたのだという実感を味わっていた。
そこはレグナムルスの城内ではなく、城下街のうらぶれた通りの軒下で。
「ここどこぉ…」
カナタは見知らぬ街にて1人、迷子になっていた。
「なんか城の兵士みたいな人たちに、つまみ出されちゃった…」
カナタは寒さと悲しさで鼻を啜りながら、これまでのことを思い返した。
監査隊の一行にくっついて、数日をかけた移動の末に目的地であるレグナムルスへと着いた。
元々、商人たちの往来が頻繁にあったためか、村から伸びる街道は踏み固められていた。
そのため、馬車の揺れはおもったよりも少なく、道中を遮るような障害もなかったため、レグナムルスへの道のりはカナタが想像していたよりもはるかに穏やかなものだった。
監査隊の隊列が厳めしい城門を潜り、活気に沸く城下町を通り抜ける間、カナタは村以外の人の営みを物珍しそうに眺めていた。
レグナムルスの領主が住む城へとたどり着いた時に、カナタはふと思い至った。
「ポエラ…マズいかも」
「どうした?大丈夫か」
「着いたと思ったら、めちゃくちゃおしっこしたくなってきた…」
起伏のない旅であったとはいえども緊張自体はしていたようで、身体の力が抜けていくにつれて高まっていく尿意にカナタは冷や汗をかいていた。
呆れたような顔をしたポエラに見送られ、カナタはレグナムルスの城内に到着してすぐに、手近な衛兵用の厠へと用を足しに行った。
だがしかし、それがよくなかった。
「おい…城内に子供が入り込んでるぞ」
非常にすっきりとした表情で用を足していたカナタは、厠に居た屈強な衛兵たちに不審がられ詰め寄られてしまった。
「いや、俺は…」
「却魔祭の忙しさに紛れて侵入してくるとはふてぇ野郎だ…おい、つまみ出すぞ」
「いやあの、忍び込んだわけではなく…誰か監査隊のひとを…」
弁解を言う間もなく、あれよあれよという間に、カナタは城外へと放り出されてしまった。運が悪いことに近くに監査隊の面々がいなかったことも相まって、それは一瞬の出来事だった
「だっ、誰かぁ!?ぐえっ!!」
首根っこを掴まれたかと思えばあっという間に、正門から離れた小ぶりな裏門からつまみ出された。
「ったく、二度と入り込んでくるんじゃねぇぞ」
痛む背中をさすり、外套についた土を払いながら後ろを向けば、殺気立った近衛兵が険しい目つきでこちらを睨みつけていた。
ポエラたちがいる城内に戻ろうにも、こうなってしまえば同じ門扉を通ることは難しそうだった。
泣く泣くカナタは最初に入ってきた正門を目指して歩き出した。
「ひどい…乱暴だ。でもしかたないか…たしかあっちの方かな」
ポエラに鍛え上げられた方向感覚を頼りに城下町をひた歩いた。
しかし、目的地へは一向にたどり着く気配すらなかった。
どうにも街の作り自体ががまっすぐに目的地へ向かえないように作られているように感じられた。また、次第に空を真っ黒な雲が覆いはじめ、太陽の位置が分からなくなり、ついにカナタは迷子になってしまった。
「まっ、迷っちゃった…」
空を覆った暗雲から土砂降りの雨が降り注ぎ、あっという間に自分がどこにいるのか分からなくなってしまった。
「村の人以外と話したことほとんど無かったから、街の人に話しかけるのは最後の手段にしたかったけど…もうそんなこと言ってる場合じゃなくなってきちゃったな」
周囲に人がいるうちに道を尋ねておけばよかったと後悔する間もなく、見知らぬ街で、カナタは身動きが取れなくなってしまった。
そして現在。
避難した軒下で、1人静かに震えるしかなかった。
「ヤバい…ヤバいな…日が落ちる前に早く合流しないと。
…ここにあんまり長居しない方がよさそうだし」
寒さと不安で震えてくる肩と膝を抱えながら、カナタは周囲を見回した。
辺りには木造の家屋が立ち並んでいるが、真新しさは全くなく、どこか煤けたようなうらぶれた雰囲気が漂っていた。
また、開かれた窓や、路地の陰から、こちらを伺うような視線が自分へと集まっていることを、カナタは肌で感じていた。
「なんというか居心地が悪い…な。ここに迷い込んだのは俺が悪いんだけどさ」
雨は一向に止む気配はなく、ここで立ち止まっていてもこの状況は解決の兆しすら見えないのだろう。
「とりあえず、大通りに出てから考えるしかないか」
ここまで来た道のりを思い出しながら、大通りを目指して歩き出した。
だがしかし、雨音に紛れる奇妙な違和感をカナタは覚えた。
激しく音を立てる雨音と、濁流とともに巻き上げられた下水の臭気とはまた別の嫌な感覚が、カナタの五感を刺激した。
「これ、足音だよね…ずっと後ろに着いてきてるな。しかも、多分複数人いる」
カナタは周囲で反響する音に耳を澄ませながら、斥候隊の一員として受けた訓練を思い出していた。
かつて村で教官役を買って出てくれたベキシラフ曰く、森の音を聞き分けるためには、「目的の音にめどをつけて、選り分けるようにして耳を澄ませることが大切だ。」と教えてくれた。
石畳を叩く大粒の雨の音。
側溝を競うように流れる水の音。
民家の壁に遮られてくぐもった赤子の鳴き声。
身体に降りしきる水滴を嫌がるような家畜の嘶き。
遠く遥か先で、稲妻を抱えて唸る雷雲。
そして、濡れた石畳を踏みしめる靴の反響が、踏み入れた水たまりの音を伴いながら、後頭部の十数歩先から聞こえてきた。
数までは分からないが、1人よりは多いはずだ。
隠す素振りもなく、堂々とした歩調はおそらく男だろう。
「振り向いたり、走り出せば、たぶんあっちも気づくはずだ」
雨水ではない嫌な汗が、背中をつたっていった。
慣れぬ道で走って追われれば、あっという間に追い付かれてしまうだろう。
「大通りに出て、誰に助けを求めればいいのか分からないけど…、捕まったほうがもっとヤバそう…!」
カナタはたびたび感じてはいたが、このエレーアボスにおいて自分はとても非力な存在なのだと気づいていた。
今まで出会ったヒトのほとんどが自分よりも力強くて頑丈だとは思ってはいたが、ジィチたちが軽々と巨大な木材を担いでいくのを眺めながら、どうやら根本から違うのだと理解した。
おそらくは、自分が
「弱っちくても、足掻くしかないんだよな…!大通りまであと少し…!」
薄暗かった路地の先に、開けた通りが見えて安堵したことが追手に伝わったせいか、背後の足音が早まるのをカナタは感じ取った。
「気付かれた…!こうなったら、行くしかない…!」
ここから大通りまでは、遮るものは見当たらない。
意を決して、一瞬、前に倒れ込むようにして身を屈めると、前傾の姿勢のまま静かに駆け出した。
音もなく走りだしたカナタに、少しだけ反応が遅れた様子の追手も、後を追うように一斉に走り出したのが分かった。
「待て」、「止まれ」という怒号にも似た呼びかけを背後に感じながら、カナタは一目散に大通りを目指して走る。
大きな水たまりを跳ねる足音が一つ聞こえたかと思うと、すぐさま幾つもの足音がその後を追う。
通行人も、露店も居なくなった大通りはひどく閑散としていた。
そこに走り込んでくる幾つもの騒がしい人影が、通りの中心に躍った。
「ハアハア…おい、アイツどこに行きやがった?」
「チッ…消えやがった」
いくつかの人影は、大粒の雨に隠れて見えなかったが、声から察するに屈強な男達のようだった。
人気のない大通りを、遠くから走り込んでくる馬車が、男たちのそばを通って駆け抜けていった。
「どうする、周辺を探すか?」
「はぁ…一旦ここで分かれようか」
彼らはそのまま面倒くさそうな悪態をつきながら、1人は元居た路地へ、残りは大通りから分かれて散らばっていった。
「うーっ…むー?!」
「しー…もうちょっと静かにしてください、ね?」
男たちが去っていった路地の1つ隣。
真っ黒な雨傘が、薄暗い闇が溜まった細い路地に、開いていた。
黒百合の紋様が拵えられた雨傘がひるがえると、中から同じく黒い修道服に身を包んだ女がいた。
黒い裾から覗く陶器のように真っ白な手が、濡れ鼠になった少年を抱え込んでいた。そして、まるで包帯に巻かれたかのように、女の手が少年の口を塞いでいた。
しばらく、雨音のみが響く静謐が続いたのち、しゅるりとほどけるようにして女の手が少年から離れた。
訳も分からぬまま、口をふさがれていたカナタは、自由を感じるとすぐさま彼女から距離を取った。
そして、困惑した小動物のように身をこわばらせながらも、彼女を見上げた。
「匿ってくれたんですか…? 」
「ええ、追われていたようでしたので」
「助かりました、ありがとうございます」
「ふふふ、どういたしまして。力になれたのなら幸いです」
静かにほほ笑み、首を傾けた彼女を見て、厳粛な墓地に咲く白い花弁のようだとカナタは思った。
「正直、どちらに
上品な立ち振る舞いや、身につけた装飾品からみるに、格式が高い生まれの貴族かなにかの関係者なのだと、カナタは直感的に察した。
彼女の気まぐれで助けられたのならば、彼女の一存で今の状況が悪くなる可能性も大いに高い。
彼女の機嫌を損ねても良いことは無いだろう。
加えて、さきほどからカナタは何者かの視線を感じていた。
自分を追っていた男たちとはまた別の、どこか無機質で家畜を見るような冷たい視線を感じていた。
(こわっ…)
「まあまあ、そう怯えないでくださいな。
別に取って食うような真似は致しません。もちろん、何かの対価を求める気もさらさらありませんよ?」
高貴な百合の花のようでありながら、どこか親しげな口調と柔和な表情を見ながら、カナタは身体に薄膜のように帯びていた警戒感が、ゆっくりと剝がされていくような感覚を覚えた。
気付けばカナタは、自然に彼女へと問いかけていた。
「では、どうして助けてくれたのですか?」
「うーん、そうですねぇ。深い考えがあったわけではないのですが…」
黒い修道服の裾から伸びた白い手が、彼女の正面でぽむっと合点がいったように打たれた。
「どうやらアナタも遠くからやってきた客人のようですが、旅装がないところをみるに、お連れの方とはぐれてしまったようで」
「ええ、そうなんです。おそらく城内にいるのだと思うのですが…」
「なるほど。これからこの街の衛兵の知り合いと会う予定があるのですが、ついてこられませんか?彼女を頼れば、アナタの尋ね人と合流できるかもしれません」
「それは、願ったり叶ったりですが…よろしいのですか?」
「ええ、それもまたお導きでしょうから」
彼女は両手を包むようにして、胸の前で組むと静かに祈る素振りを見せた。
その組まれた手の形は、村の小司祭であったポテスタス先生のそれとは異なっていたが、おそらくは子神信仰をしている人なのだとカナタは理解した。
「アナタにも、慈悲なる加護が降りかかりますように…えーと、お名前は?」
「カナタと言います。」
「ほう…カナタですか。」
一瞬、彼女の口元が、沈みゆく三日月のようにつり上がったように見えた。しかし、目に入り込んだ雨粒をカナタが拭った後には、変わらぬ柔和な笑みがそこにあった。
「ではカナタ行きましょうか。…良ければ傘、入ります?」
「い、いえ。外套を被れば大丈夫なので…」
「あら、慎ましいのですね。ああ、そういえば、私の名前を伝えていませんでしたね。」
彼女はこちらに向き直ると、傘を軽く掲げ、修道服の裾をつまみ、簡易ながらお辞儀をして見せた。
「セヴァンジェリンと申します、どうか以後お見知りおきを。」
「セヴァンジェリン様…こちらこそ。」
彼女の礼に対して、カナタはぎこちなくも村の大人たちがしていたような礼を返した。
「これはご丁寧に。ですが、“様”は無くても良いですよ。別に私は高貴な生まれではありませんので。」
「いえ、流石に…」
「セヴァンジェリン、です。はいどうぞ」
「セ、ヴァンジェリン、さん…」
「まあ…良いでしょう。
目的の待ち合わせ場所までは少し離れています。良かったらカナタがここにたどり着くまでのお話を伺ってもよろしいですか?」
「そんなに面白いものではないと思いますけど…エヴァンジェリンさんが良いなら」
「ええ、これも何かのご縁、お導きでしょう。」
降りしきる雨の中、通りの坂をカナタ達は並んで登って行った。
遠くの連峰に隠れていた雷雲が、二人のあとを追うようにして街に覆いかぶさろうとしていた。
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