第6話 何も分からん
「ハァ…ハァ…ハァ…」
______一体、いつから走り続けていたのだろうか。
気が付けば、真っ暗な森の中を、息を切らせながらひたすらに駆け抜けていた。
暗闇にそそりたつ巨木たちに見下ろされている。
木の葉の隙間から差し込む月明りは、頼りなくも仄明るく地面を照らしている。
木の根や凹凸に足を引っかけない様に、両の足に力を込め、走る。
しかし、懸命に走ろうとするが、思うように身体は進んではくれない。
深い泥中をもがいているように、足はひどく重く緩慢だった。
なぜ走っているのか?
【…分からないのか?】
背後に広がる暗闇は、生命に対して根源的な恐怖を感じさせる。
【何を恐れているか、お前は理解しているはずだ。】
そうだ。自分は今、背後から追いすがるなにかから逃げている。
自分の後ろにぴったりと、何者かが追いかけている気配を絶え間なく感じていた。
何故、追われているのか。
誰に、追われているのか。
そもそも、本当に追われているのか。
【背を追う者の存在を、お前は知っているだろう。】
背後に迫る影は、こちらの後を確かに追っている。
自分のものではない足音を、確かに感じていた。
苔むした転がる石を、
盛り上がった木の根を飛び越えて、
ただ、恐怖に突き動かされながら、
混乱する思考の中で、
目的地もなくひたすらに逃げる。
【奴は執着している、もちろんお前のことを。】
そのうち、無我夢中で走る自分の服の裾を、ふと、ひんやりとした何かが掴もうとして空を切ったような感覚があった。
その一瞬で、背筋が凍り付き、頭の中が真っ白になった。
振り払うように腕を振った拍子に、大ぶりな落石か、木の根に足を取られてよろめいてしまう。
そうして、いつの間にか自分が崖から放り出されていることにも気づかず、湿った土とコケにまみれながら、斜面を転がるように落ちていった。
強い衝撃が背中から身体を突き抜けて、一瞬だけ呼吸が止まるが、不思議と痛みは感じられなかった。
しかし、足を怪我したのだろうか立ち上がることは出来なくなってしまった。
(なぜ、俺はこんなところにきてしまったんだ。)
不気味なほどの静寂に包まれた森の中からは、答えは帰ってこない。
ただ、身体を引きずりながら見上げた木々の隙間に、青々と輝く双子の月がそこにあるだけだった。
そのとき、暗がりで見えない背後から、何かが同じように斜面から転げ落ちてくるような音がした後、さっきまで感じていた気配が、再び背後に感じられた。
【奴はどこまででも追いかけてくるだろうさ。お前のことを。お前のことを。】
上体を起こし、意を決して、こちらを追いかけてくる何かを見据えた。
顔を上げるとすぐ目と鼻の先、もうすでに何かは居た。
人ほどの大きさ。
黒くもやがかかった輪郭と、四肢。
こちらを覗き込むその頭らしき部分には、ただ漆黒の闇が広がっている。
しかし、何となく分かった。
【そうだ。】
否応なく分かってしまった。
【奴はお前を。】
その闇はこちらを認識している。
こちらを見据えているのだ。
その事実に、身体が強張る。
のどが引きつって声が出せなくなる。
それはゆっくりとこちらに、覆いかぶさるように近づいて来る。
後ずさりながら距離を放そうとするが、立ち上がれなくなった身体では思うように逃げることは出来ない。
なんだこいつは、俺が何かしたのか。
【忘却の彷徨に、その答えがあると知れ。】
後退しようとするその身体を何かが押し止め、後ろを振り向くと、大きな木の幹が聳え立っていた。
横に避けて逃げようとしたが、既に黒い靄の何かは、ゆく手を遮るように、こちらへと覆いかぶさってきた。
もう逃げられないことを悟ったのか、黒い靄から触手の様に、真っ黒な手が伸びてきた。
その手はこちらの首筋へとゆっくりと向かっている。
嫌だ。止めろ。
こっちに来るな。
触手が首筋に触れる直前で、
聞きたくもない声が確かに、地響きの様に聞こえてきた。
【カナ…タ】
黒い靄に覆いかぶさられる瞬間、張り付いたままの喉で、声にならない悲鳴を上げた。
---------------
目を覚ますと真っ暗な部屋の中、寝床の上に寝かされていた。
近くに何があるかも分からないほどの暗闇の中で、自分が気絶するように倒れたことをぼんやりと思い出した。
熱があるらしく、身体を動かすと、節々が軋むように痛む。
気絶している間に泥まみれだった服を脱がされていたようで、薄手の服へと着替えさせられていた。
しかし、寝ている間も汗をかいていたせいか、身体がべたついて気持ちが悪かった。だが、熱がこもった毛布を捲るために、身じろぎすることすら億劫に感じて、ただ茫然と知らない部屋の天井を見つめ続けていた。
寝床の木枠が軋む音で、こちらが目覚めたことに気が付いたのか、部屋の外で誰かが動くような気配を感じた。
部屋の主が中へ入ってくるかと身構えるが、部屋のドアは開かず、木の床が軋む音は次第に遠くへと行ってしまった。
(行った…のか?)
すると、緊張で強張った身体が、脱力で思い出したように、痛みと怠さを訴えてきた。
身体をなだめるように大きく息を吸って、暗い天井をぼんやりと見つめなが、らこれまでのことを思い返した。
熱もあってか、朧げな記憶を何とか思い出そうとする。
どうやら自分は、あの部屋で気を失ったあと、村の外へ放り出されることは免れたらしい。
恐らく、最後に居た誰かの家で寝かされているようだった。
気絶する直前の記憶が正しければ、握手を交わした彼らとの関係は、最悪なものではなかったはずだった。
(でも、言葉は通じないんだろうな…)
彼らの会話を思い返すが、その言葉には一切の聞き覚えがなかった。
何かを伝えようとして、意思の疎通ができないことを理解した彼らの、困った表情が思い浮かんだ。
(もし、このまま、会話が出来ないままだと外に放り出されるんだろうか…)
夢で見た真っ暗な森の中を思い出し、身体が震えた。
体調がすぐれないと気持ちも引きずられて、良くない方に考えてしまうようだ。
倦怠感とともに身体を覆う悲観的な考えをそらすように、部屋の方へ身体を傾けた。
寝床の横に付けられた窓枠は、閉じられて外の状況は分からなかった。しかし、隙間よりか細く月明りが差し込んでいるようだった。
次第に、暗闇に目が慣れ、部屋全体を薄っすらと見渡すことが出来るようになってきた。
木枠の寝台と、作業机と椅子、無骨な衣装箱。
寝かされている部屋は、辛うじて牢ではないらしい。
部屋の壁には絵画や装飾は見当たらず、飾り気を感じさせない質素な部屋に寝かされているようだった。
暗がりの中をボーっと眺めていると、遠くから床が軋む音が聞こえてきた。
誰かが部屋に近づいて来る気配と共に、扉の隙間から明かり漏れ出ている。
そして何か重いものがどかされるような音が聞こえたかと思うと、明かりが部屋の中に差し込んできた。
淡い光を放つ燭台を片手に、香りがする何かをお盆に乗せて人影が部屋の中に入ってくる。
枕元の作業机にお盆を置くと、燭台の明かりを分けるように部屋を照らし始めた。
入ってきた人物は部屋着に着替えてこそいたが、まぎれもなく、自分を拘束していたあの外套の女性だった。
どうやら、熱を出して倒れた自分の様子を、わざわざ見に来たらしい。
部屋の明かりをつけている間に、話しかけてくれているようだったが、言葉の意味は一向に分からないままだった。
椅子を持って近づいてきた女性は、枕元に立つとこちらの額に手を置いた。
ひんやりと冷たく気持ちがよかったので、しばらく置いておいて欲しかったが、女性は表情を険しくするとお盆が置かれた作業机へと向き直ってしまった。
(なんか熱が上がってるがする。)
症状は次第に進行しているようで、鼓動が耳の横で鳴り響くような感覚が強まっているようだった。
朦朧として来た意識の中で、机の上で何かを混ぜている女性を眺めていると、突然彼女から起き上がる様に促された。
助けを受けて上体を起こすと、女性はお盆に乗せられていた何かをこちらに差し出してきた。
差し出されるがままに両手で受け取ると、小さな木杯の中には、とろみがついた液体が入れられていた。
(鈍ってる嗅覚でもわかる。これかなり匂いがキツイな……)
熱のせいか、嗅覚は鈍くなっていたが、立ち込める湯気からは、皮を剥いだ生木の何倍も濃ゆくしたような、えも言えない香りが漂っていた。
(もしかしてこれ薬?え。これ、飲むの?)
木杯から思わず顔を背けると、自然と傍らの女性と目が合った。
彼女が言わんとせんことは、直ぐに理解できた。
彼女は何も言わずに、ただ深くうなずいた。
つべこべ言わず飲めということらしい。
彼女は細身な小刀を取り出し、盆の上に残っていた丸い果物を静かに剥き始めた。
(覚えがあると思ったら、さんざん歩き回った森の匂いだこれ。それを何倍にも濃縮したらこうなるんだろうなぁ。)
記憶に新しい苦難の時間を思い出して、自然と渋い顔になってしまった
しかし、彼女が準備したこの飲み物も、おそらくはこちらを思ってのことなんだろう。
(折角、準備してくれたんだし、……飲むしかないかないか。)
自分に言い聞かせるようにして決心を固める。
息を止めて鼻をつまみ、容器の中身を一気に煽った。
ややどろっとした液体は、幸い喉に引っかからず、塊のまま滑るようにして胃の中へと流れていった。
甘味とも渋みとも表現しづらい後味が触れた舌に残り、液体が流れ込んだ胃の中からは、草木が濃縮されたような香りが広がった。
「の…飲みました。」
「クォム」
横の女性は、こちらが飲み干したのを見届け、満足げに頷くと、皮を剥き終わった果物をこちらに差し出してきた。
先ほどの薬とは打って変わって、みずみずしさを感じる表面からは、優しく甘い香りが漂ってきた。
怠さであまり食欲は湧かなかったが、先ほどからのどが乾燥して、へばりつくような痛みが感じられていた。
「じゃあ遠慮なく、いただきます…。」
おもむろに齧り付くと、やや硬い果実は、咀嚼するたびに果汁があふれ出し、口中に広がった。
さわやかな甘味と一緒に、ほんのりとした酸味も感じられたが、それに気絶してから何も口に入れていなかったせいか、カラカラに乾燥していた喉にはその酸味がむしろありがたく感じられた。
やっと食事にありつけた小動物の様に、夢中で果実を頬張っている間も、女性はただ何も言わずに静かにこちらを眺めていた。
「うっ…ぐす…。」
乾いていた身体に水分が補給されたせいか、気が付かないうちにポロポロと涙があふれ出ていた。
泣いている自分に驚いて、袖で拭うが一向に涙は止まらず、どんどんとあふれ出して来るうちに、心細いような情けないような気持ちが込み上げてきた。
嗚咽が喉から洩れそうになるのを、果実にかぶりついて押し込む。
目を瞑って咀嚼をしても涙は止まらず、何とも言えない申し訳なさは湧き上がる一方で消えなかった。
気が付くと女性に背中をさすられながら慰められていた。
「ドーゥド」
彼女が話す言葉の内容はやっぱり理解できなかったけど、こちらに語り掛ける声は柔らかで優しさが感じられた。
最後に残った欠片ほどの矜持で、声を上げて泣き出すことは堪えたが、しわくちゃになった瞳からは、しばらく涙は止まらなかった。
--------------
あとで気づいたが、どうやら泣くことにも体力を使うらしい。
気持ちが落ち着いた時には、ぼんやりとした眠気に包まれた。
力が奪い取られるように寝台に横たわると、女性がかけ布を被せてくれた。
枕元に持ってきた椅子に座ると、彼女は身振り手振りで何かを伝えようとしていた。
消え入りそうな意識を何とか保って、その意図を読み取ろうとする。
彼女は自分を指すと、何か同じ単語を伝えようとしていた。
「リダフ ポエラ」
(自分の方を指しながら…単語を繰り返してる)
これって、もしかして名前か。
唾を飲み込んで息を吸うと、彼女の方を指して答える。
「ポ…エラ。」
「ヴェフ」
正解だったのだろうか、必死さすら感じられた精悍な顔つきが、緩んだような気がした。
彼女はもう一度、自身を指さしてポエラと呟くと、静かにこちらの胸を指して問いかけてきた。
「バール クァダ」
眠気と疲労で限界の意識を何とか保たせ、言葉の意味を理解しようとする。
(ポエラ…さん。名前。自分のこと。)
さっきまでの流れを考えると、恐らくこちらの名前を聞こうとしているようだった。
自分の名前を彼女に伝えようとして、言葉に詰まってしまった。
(そういえば名前、知らないな?)
寝ている間も一向に記憶が戻る気配はなく、自分が何者か分からないままだったことを今思い出した。
記憶がなくて分からないと、彼女にどう伝えようか。
もしくは思いついた名前を答えてしまおうか。
(どうしよう…)
疲れで限界に達した脳では答えば出ず、同じようなことをぐるぐると考えてしまうだけだった。
こちらが答えに窮しているのを察したのか、彼女は少し悲しそうに笑うと席を立とうとした。
(マズい、行ってしまう。)
目が覚めてから改めて答える方法もあったが、焦りと混乱で答えも決まらないまま消え入るような声が漏れだしてしまった。
「ワ…ワカラン」
(そう、分からん。名前は別にあって…)
お盆を抱えたポエラが気付いてこちらを振り向いた。
こちらに近づくと満足そうに微笑んで、眠気で朦朧としているこちらのおでこを優しく撫でた。
「リ ヴェウ ワカラン」
(…いや、違うのよ。それは名前じゃないのよ)
訂正しようと伸ばした手を、ポエラは優しく握るとシーツの下に入れ込み、毛布を掛けて踵を返した。
「ロッティ シルミィ ワカラン 」
(違うんだって、そりゃ名前は覚えてないけどさ……多分ワカランじゃないと思うんだよ。)
「もう一度、やり直しを…」
慈悲もなく扉を閉まる音と同時に、意識はプッツリと切れてしまった。
この世界に来て、何回目の気絶になるだろうか。
間違いなく身体には悪かったらしく、その後三日三晩、強力な倦怠感と身体の痛みに苦しめられることとなった。
看病のためにその間も、ポエラ以外の人達が代わる代わる来てくれたが、皆が皆こちらのことを”ワカラン”と呼んでいた。
(ワカランはなんか嫌…絶対に嫌だ。)
風邪で体力が奪われたこともあり、訂正する気力はなかなか湧かなかった。
しかし、寝床でうなされていながらも、ワカランだけはどうにかして否定しなければならないという思いだけはしっかりと残っていた。
その影響もあってか、次第に復調の兆しが見えてきた。
そして、献身的な看病のおかげもあって、この世界に来て4日目の朝には、身体を起き上がらせれるようになっていた。
ベッドから降りて部屋の籠っていた空気を入れ替えるために、木製の窓を開けようと試みる。
建付けが悪かったのか、開けるのに少し苦労したが、開け放たれた窓からは、肌寒さを感じさせるさわやかな風と、清々しい朝日が入り込んできた。
差し込む日差しを全身で受けようと、窓枠にかぶさるように身体を寄りかかって、頭上から降ってくる小鳥たちの声を、目をつぶって聴く。
暖かな陽光を感じていると、この世界に来てから落ち込んでいた気分が、徐々に持ち上がってくるような気がした。
(昨夜はちゃんと寝れたし、身体が少し軽くなった気がする。)
体調が戻ってきて精神も安定したのか、最初の夜に見た悪夢はあれからみることはなかった。
(それにしてもあの影は何だったんだろう。)
また夢見が悪くなる気がしたので深く考えることは避けていたが、あの気味の悪い現実的な質感と情景は、綺麗に脳裏にこびりついていた。
(あれも記憶の手がかりだったりするのかな。)
しばらく寝込んで体調は戻ってきても一向に記憶が戻る気配もなく、相変わらず自分の名前はおろか、森で目覚めてから前の記憶すら一切なかった。
「なんとかなるか…って言いたいけれど。」
初日に、村の中を連行されるときに感じた村人たちの余所者をみる冷めた目。
少なくとも、無駄飯食らいを、好意で世話してくれ続けるとは考えられなかった。
言葉も記憶もなく、病み上がりの身体。
「山道のときも違和感があったけど、やっぱりなんか目線とか低い気がする。」
何故かはわからないが、自分はもっと身長は高かったような気がした。
自分の中に残っている感覚との差というのだろうか、今、見えている目線に違和感がある。
(まあ、気のせいか)
気持ち短くなったような気がする腕を、ぐるぐると回して身体を捻ると、体調はまだ万全じゃなかったらしくクラっとふらついた。
(明日からがんばるので、もう少し休ませてもらおうかな…)
もぞもぞと未だ温かさを残す寝台に潜りなおし、毛布にそのまま包まって寝なおそうとしたが、下の階から足音が近づいてきた。
足音が部屋の前で止まると、勢いよく扉が開き、お盆を抱えたポエラが入ってきた。
「ラップス、ワカラン」
名前をワカランと誤解したままのポエラが、様子を見に来てくれた。
(…何とか伝えてみようかな。)
戻った体力を使って、身振り手振りで伝えることに挑戦することにした。
途中、記憶喪失と伝えようと努力したが、俺は頭がおかしいと伝わりそうになり必死に修正をした。
ポエラも最初は不思議そうな顔をしていたが、根気強くこちらの話を聞いてくれた結果、名前がワカランではないことは理解してくれた。
しかし、ポエラは「じゃあ名前はなんなんだ。」と言いたげな顔をしていた。
まあ、分からんのだけど…
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