第1話 もう一回言ってもらっていい?
柔らかな朝日が差し込む森の中、遠くから小鳥のさえずりが聞こえる。
少年が歩く周囲には、下から見上げても天辺がわからないほど、幹が太く、背高い立派な大木が、一定の間隔をあけて、果て無く遠くまでそそり立つ。
遥か高くに広がる枝葉からは、柔らかな木漏れ日が差し込んでおり、それらは森の奥の奥まで続く、光のベールを作り出している。
うっすらと湿り気を帯びた地面には、苔むした木の根と石が一面に広がっている。
深呼吸をすると、森林の木々に特有の精気に満ちた芳香が、肺いっぱいに拡散した。
ここは人の痕跡の欠片すらない、深緑の森。
朝霧が立ち込め、木漏れ日がちらつく、雄大な大自然の中を、
「マジか…」
少年は縄で縛られて連行されていた。
彼は薄手の服と質素な布靴に身を包み、背高い草木こそないが、苔むしてボコボコと起伏に富んだ山道を歩いている。
歳は10になったかぐらいだろうか、ゆるくうねる黒灰色の髪はざっくりと短く、暗がりでは黒かった眠たげな瞳は、木漏れ日が差し込むと薄っすらと青色を帯びている。
手足は細身だが、少年は血色も悪くなく、少しの段差であっても難なく登っていく。
ただし、両腕を拘束された状態で苔むした地面を歩かされているせいか、時折、湿った苔に足を滑らせてはふらついている。
縄は少年のすぐ後ろに伸びており、彼よりも少しだけ背が高い人物がきつく握りしめていた。
小柄だが背は少年よりはやや高く、先ほど外套の頭巾の中から聞こえた声は女性のようだった。
年季が入った外套と固く丈夫そうな革製の靴を身に着けて、少年の速度に合わせて軽快そうに歩いている。
縄で繋がれた二人の前後には、少し距離を置くようにして、同じような外套に身を包んだ男たちがついて歩く。
少年が逃げ出したり不穏な動きを取ったりしてもすぐに確保できるように、つかず離れずの距離を取っていた。
外套に身を包んだ三人は、その風貌と身のこなしから察するに山道での活動に慣れているようで、この森林地帯に暮らす住民のようだった。
彼らには見張りとしての役割があるようで、定期的に少年の方に注意が向けられている。
縄で拘束された少年は何かしらの禁忌を犯したらしく、彼らに話しかけられることもなく、ただひたすらに無言で歩かされていた。
だがしかし、拘束こそしているが、頭巾から覗くその眼は、狼藉を働いた下手人に対する冷ややかなものというよりは、どこか気の毒なものを見るような同情に満ちた目だった。
「あぶな!!滑る!!」
両手を拘束されているとはいえ、少しの段差を乗り越えるたびにもたつく少年を見て毒気を抜かれたようで、前を歩く男は今にも転びそうな彼をちらちらと見ては心配そうにしていた。
外套を着た3人と、ふらつく薄着の少年。
奇妙な組み合わせの4人が、ひたすらに森の中を歩いていた。
お互いの間に会話はなく、ただ黙々と森の中を進んでいく。
頭上からの木漏れ日が、まっすぐと地面に差し込むほど歩いた頃、4人は巨木が連なる森を抜けた。
森を抜けた先からは、まばゆい光と突風が飛び込んできて、少年は思わず拘束されたままの手で顔を遮った。
風が落ち着き、恐る恐る少年が目を開けると、彼は切り立った崖の上に立っていた。眼前には、遥か先まで青々とした木々が続く、巨大な森が広がっていた。
左右に目をやると切り立った崖は、所どころ岩肌がむき出しになった斜面になっており、眼下の森林の周囲をぐるりと囲むようにつながっているようで、盆地の様になっているようだった。
しかし一点、今までの森とは違って、異なったモノがそこには見られた。
雲一つない青空の下、眼前に広がる森林の上、そのちょうど中間に、寄る辺なく宙に浮く岩石の群れが見えた。
少年の数倍は優にありそうな巨大な岩も浮いており、いくつかの細かい岩々は、蔦状の草木でつながっては中空を漂っている。
ちょうどよい休息場になっているのだろうか、小さな鳥たちが群れを成しては留まっている。
壮大な景色の中、俊敏に動く影を見つけてよく目を凝らすと、岩々の間を滑空している4つ足の獣達の群れが見えた。
小柄にも見えるが、浮いている岩との距離感が分かりにくいため、もう少し大きいかもしれない。
緩慢に浮遊している岩々の向こう側、真っ白な綿雲がまばらに浮く青空に、青白い月が浮かんでいた。
しかし、月にしてはやや大きい。
そして、その傍らにもう1つ小ぶりな衛星が見て取れた。
そういうものだと思ってしまえば、呑み込めてしまいそうだが、心なしか違和感が頭にちらついた。
少年が呆然と崖の外を眺めていると、縄を握っていた女が近寄って話しかけてきた。
『なぁ、君。何故、こんな山奥に一人でいたのか、そろそろ答えてくれないか?』
彼女は握られた縄からは手を放さず、空いている片手で頭巾を払うと、自分が身に着けている厚手の外套と比べて、山に入るには幾分計装な少年の服装をまじまじと眺めた。
『山に入るには流石に薄着過ぎる。君は一体、どこから来たんだ?』
少年は諭すように話しかける彼女に対して、恐る恐る口を開いた。
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先程、抜けた巨木の森から聞こえる獣と鳥の鳴き声以外に、こちらを呼ぶ声が聞こえる。
湿り気を帯びて滑りやすくなっていた山道で、体力を奪われ、ボーっとしていた意識が戻ってきた。
森を抜けるまでに誰一人と喋らなかったが、今どうやら縄を持った女の人から、話しかけられているらしい。
声がする方を振り返ると、彼女は顔を覆っていたフードを脱いで、こちらをじっと見据えていた。
フードを取った素顔は、自分と同じぐらいの年齢に見えるが、精悍な顔つきをしておりもしかしたら年上なのかもしれない。
今までフードで隠れていた髪は、短く無造作に切られており、くすんだ緑がかった白髪だった。
瞳孔は小さく、言ってしまえば目つきのキツイ三白眼だったが、日の光にさらされた瞳は深い碧色をしていた。
そして、さらさらとなびく白髪から何か尖ったものが突き出ていた。
(これは耳…?)
くすんだ緑の髪をかき分けるように少し突き出た耳の先には、ふさふさとした毛が生えており模様なのか先端が黒く色づいている。
周囲の音を拾っているのか小刻みに動いているのがわかる。
(細かく動いてる。初めて見たな。)
森の中で目覚めた時には、自分のことを含めて、それまでのことが思い出せそうになかった。
自分がどこから来たのか、何者なのか。
なんで、ぬかるんで滑りやすい悪路に、こんな薄着で放り出されているのか。
まだ寝ぼけているのか、一向に思い出せそうな雰囲気はない。
何も出てこないような頭でも、彼女を見ているとふと思い浮かぶこともあった。
(こんな風に尖った耳をした人に会うのは初めてだな。)
なぜかそんな気がしていた。
彼女の表情はやや険しかったが、どこかこちらを憂いているような雰囲気が感じられた。
森の中で目が覚めた時には身体を縛り上げられおり、森の中を連行されたが、誰も決して暴力を振るってくることはなかった。
もしかしたら、自分のことを心配をしてくれているのだろうか。
しっかりと目が合うと、彼女は口を開いた。
『ルセズム ブロクス ブノキ?』
「え?」
『ロキジクツ?』
「…もう一回言ってもらっていい?」
『グダソウ…』
聞き覚えのない言葉だった。
首を振ってわからないと伝えると、渋い顔をして彼女はうめくような声をあげた。
彼女は残念そうに肩を落とすと、崖の方を向いて話し合っていた男たちに合流してしまった。
1人で放置されてしまったので逃げることも出来たが、あてがある訳もなく、疲れて手近にあった岩に腰を掛けた。
背丈の何十倍もの高さの大木が無数に生える森林と、空を寄る辺なく浮かぶ岩々。
青空に浮かぶ白い双子の月と、毛が生えた長い耳をした女性。
「ここは、この世界は。」
(果たして、一体どこなんだろうか。)
まったく身に覚えがない場所。
ここは自分が知らない世界。
「僕は誰なんだろう?」
今までの記憶どころか、自分の名前すら分からない。
目が覚めたより以前の記憶が、もやがかかったように全く思い出せない。
現状分かっていることは、拘束こそされているが、彼女たちに保護されなければ、薄暗い山道で今もさまよっていたこと。
(それに、村どころか人がいる気配がしない。)
崖から見下ろした範囲でも集落らしいものは見えず、ただ似たような木々が一面に広がっているだけ。
連れていかれる先に不安はもちろんあったが、少なくとも人の気配一つしない樹海に放置された方がよっぽど危険なことはわかる。
おとなしく拘束されて付いていく以外の選択肢は、今のところなかった。
「なんで、こんなところにいるんだろ。」
丸い岩に反るように寝そべると、真っ青な空が見えた。
何一つない青空を見ていると、過酷な山道でささくれていた気持ちが落ち着いてきた。
この空も、もしかしたら記憶を失う前は慣れ親しんだものだったのかもしれない。
そう思うと、ただの空にも親近感が湧いてきたが、当たり前だが、青空が答えてくれることはなかった。
「あぁキレイ。空キレイだ。」
湧き上がってきた不安をかき消すように、今はただ、無心で空を眺める他なかった。
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