【1章完】 救世の使命は、忘却のカナタ ~記憶喪失だけど異世界救えって女神様が~

ネリ村 根利蔵

第0話 忘却の彷徨に

 悲しい 悲しい 悲しい

 どこかで、誰かが、すすり泣く声が聞こえる。


 どす黒い水の中に、沈んでいるような感覚。

 朦朧もうろうとした意識は、水中にぽとりと落ちた絵具の様に、溶け出て広がっている。

 もはや、どこまでが自分で、どこまでが自分じゃないのか、あやふやで不確かだ。


(泣いてるのは、誰だ?)


 ひどく遠いようで、とても近い。

 誰のものかも分からない泣き声に、集中する。

 すると、四方八方を漂っていた意識が、凝縮するように一つに集まってくる。

 自我が形作るようにまとまってくると、少しずつ思考が出来るようになってきた。


(泣き声は…上から?近くに居るのか。)


 暗闇に響く悲痛な嗚咽おえつは、自分のすぐそばから聞こえた。

 流れた涙が、こちらに降りかかるほどに、声の主は近くに居たようだ。


 仄かにチラつく光を感じて、ひどく重たい目蓋を開けてみる。

 真っ白な視界に目をしかめるが、徐々に目が慣れてきたと思えば、真黒な闇が頭上に広がっていた。

 薄暗い部屋の中、黒く煤けた天井と、目の前に掲げられた白く華奢きゃしゃな腕が見えた。


(…誰の腕だ?これ)


 まったく、身に覚えのない場所。

 意識が覚醒すると同時に、四肢にも感覚が戻ってくる。

 徐々に感じられたのは、末梢から湧き上がる強烈な倦怠感だった。


(体中が重たい…。一体誰だ…泣いているのは。)


 掲げられている真っ白な腕の主を見ようと、首を上の方にもたげようとして


(いっ…痛ぁ!!!)


 全身を貫く衝撃で、顔をしかめた。


 体中を強く打ち付けたように、あちこちが軋むように痛む。

 さっきから感じている倦怠感も相まって、ろくに動けそうにもなかった。


(どんな顔を見たいけど…痛みとだるさでそれどころじゃないんですけど!)


 身体を襲う刺激から遠ざかるように、目を細め、乱れる呼吸を整える。

 気を抜くと、叫び声になりそうなほど荒い息は、一向に収まりそうになかった。


 すると、ふと、目の前に広がる光が、徐々にその強さを増していることに気付いた。

 どうやら、かたわらの誰かが手のひらを掲げると、そこを中心にその光が広がっているらしい。


 いつの間にか、すすり泣く声は止んでいた。

 部屋は静寂に包まれ、放たれるまばゆい光が、闇に隠れていた部屋の隅まで照らしている。


 目の前に広がるまぶしさから逸らすように顔を背けると、傍らに立つ人が見えた。

 フードに隠れて顔は見えなかったが、白いローブに身を包んだ人物は、どうやら長い金髪の少女のようだった。


 色は白く、手足は細く、フードからこぼれる金髪はきめ細やかだが、汚れくすんでいる。

 一見したところ、可憐そうな見た目の少女だったが、よく見ると、彼女の状態は穏やかなものではなかった。


(この子…ボロボロじゃないか)


 元は、真っ白であっただろうローブは、所々ところどころが擦り切れて、黒く汚れてしまっている。

 横腹には、ローブごとえぐるような大きな穴が開いており、そこにあったはずの腹部は、青く透けて、薄暗い部屋の向こう側が見えていた。


(血が…流れていない?

 というかまず、なんで手のひらが光ってるんだ?

 めちゃくちゃまぶしいし…なんなんだこの子は一体。)


 今、自分が置かれている状況について、理解できることはさほど多くなかった。

 しかし、一つだけ、なんとなくわかることがあった。

 隣の少女は、おそらく


 時折、苦悶の声を上げ、咳き込む少女の身体は、薄く光を帯び輝いている。

 すくなくとも、光を纏った人間を自分は知らなかった。


 そう思うと、自分が置かれた状況が胡乱うろんなものに感じられてきた。


(これ…やっぱり夢なん…やっぱ痛ぇ!!!)


 しかし、身体に訴え続ける鮮烈な痛みが、現実に無理やり引き戻し、この状況が現実だと主張し続けていた。


(やっぱり、俺は死んだ…のか?)


 ふと、あの世、という言葉が脳裏をよぎった。

 この身体を貫く痛みは、死んだときに負った傷が原因なのかもしれない。

 では、この子は死神か、天使か、死後の使者なのだろうか。


 様々な憶測おくそくが浮かんでは消えていく中、はっきりと澄んだ声が、薄暗い部屋の中に響いた。


「”応えよ、応えよ”」


 身体の輪郭が、後光のごとく青白く輝きだす。

 少女が手をまっすぐと掲げ、背筋を伸ばし、絞り出すように言葉を唱え始めた。

 次第に、彼女の声に合わせるようにして、手のひらに光が集まり始めた。


「”汝、呼び声を拝聴はいちょうせし、子神ししんの使徒なれば、

 我がいのりに、我が宿願しゅくがんに応えよ。”」


 彼女が掲げた右腕から、光の輪が現れて広がり始める。

 薄暗かった部屋が、彼女を中心に、徐々に明るみを帯びていく。


「”常世を脅かせし、魔の歪みを祓い、

 その意志をもって、世の安寧を守らんとすれば、

 我が力、汝の道行みちゆきを照らし、使徒たる汝に、加護と祝福を与えん。”」


 何かの呪文のようなものを唱え始めた彼女の周りに、四角く光る透明な液晶のようなものが、少女を囲むようにいくつも現れ始めた。

 周囲を回っていた光輪は、2つ3つと数を増し、さらに分裂し、薄暗かった部屋を光で満たす様に、縦横無尽に広がる。

 それらは風を巻き起こし、土ぼこりを巻き上げて、さらに速度を上げていく。


 「”応えよ…応えよ…

  我が祷りに、宿願しゅくがんに…応えよ。”」

 

 途中、彼女は大きくグラついたが、咄嗟に膝に手をついて体を支えた。

 傷だらけの身体は、こちらが思う以上に消耗しているようだった。

 それでも、必死に何かを祈り続ける彼女を眺めながら、かすかに動く首以外は身動きが取れない中、彼女が唱えていた言葉をわかる範囲で反芻する。

 

(常世を脅かす魔の歪み

 なんだろう…脅威って言ったら、強大な魔王とか?)


 彼女の言葉を想像すると、彼女の世界は何かしらの外敵におびやかされて、助けを必要としているようだった。


 (何かの物語見たいだけど…自分でいいなら、力になりたいけど。)


 激痛にむしばまれた身体は、ピクリともせず、首から下の感覚はまったく存在していない。もはや、寒いのか暑いのかももはや分からなかった。

 しかし、傍らの彼女からはほんのりと温かさを感じられる。

 その光は、心なしか身体の負担を和らげてくれているような気がしていた。


(何かが出来るわけじゃないけれど、チリ紙程度の力でも良ければ…)


 ただ一人、真摯しんしに祈り続ける彼女を眺めていると、自分でよければ何か助けになれればという気持ちが湧いてきた。


 やがて、呪文が止まり、周囲を回っていた光輪が徐々に収縮して、彼女の手に収まっていく。


 それと同時に部屋の明かりは徐々に消えてゆき、元の仄暗さを取り戻していく。

 やがて、泣き声すら聞こえなくなった静寂に包まれた。


 隣に立つ少女の手がゆっくりと、開いていく。

 彼女の右手に収まったはずの光輪は、金色の砂となって舞っていった。


 落胆らくたんする風でもなく、ゆっくりと掲げた手をおろすと、彼女は脱力するようにへたり込んでしまった。


 「あなたは…」


 ひどく底冷えがする声がする。

 乱れた前髪で隠れて表情は分からなかったが、

 口元は固く結ばれ、悔しさを滲ませているように感じる。


 (あれ…ちょっと待って、なんか雲行きが…)


 唐突に訪れた剣呑けんのんな雰囲気に困惑して、なんと声をかけようか迷っていると、彼女は怒りに肩を震わせて、

 さっきまで金色の砂が握られていたの右手を大きく大きく


(ちょっと…!!)


 静まり返った部屋に、乾いた音が響く。

 身動きが取れない横っ面に、強烈な平手が突き刺さった。

 

 その実、彼女が放った平手は力なく弱々しいものだった。

 しかし、元より衰弱していた身体と、意識を、刈り取るには、十二分の威力であった。


 再び、暗闇に落とされ、薄れゆく意識の中。

 傍らに座り込む彼女がうわごとのように、何かを呟いているのが聞こえた。


 「貴方は、もう何も…」


(な…なんで?)


 「…必要はないんですから。」


(俺、何かした…?)

 

 真っ暗な闇の中に落ちていくさなか、

 走馬灯のように掠れた映像が思い浮かべられた。


 ----------


〈空いっぱいに広がる真っ黒な雨雲。〉

〈周囲で煙を上げる車たちの群れ。〉

〈反響する大人たちの怒号と救急車のサイレン。〉

〈倒れる自分の傍らで、こちらを呼びかける友人。〉


〈黒々とした雲から降り注ぐ冷たい雨が

 目にたまっては粒となって零れ落ちていく。〉


〈徐々に冷たくなっていく身体から

 とめどなく何かが水溜まりに流れていく

 自分の身体にとって大切だった何か。〉


〈自分の頬を濡らす雨の感覚まで、ありありと思い出せた。〉


(あぁ、そうか俺は…)


 世界が暗転する。



 ----------


 遠くから聞こえる獣達の鳴き声が、周囲を反響している。


 「うおぉ!」


 後頭部にゆっくりと侵食する地面の湿り気と、

 肘辺りにごつごつと当たる石の痛みで飛び起きた。


 上半身を起こして、自分の身体をぺたぺたと触る。

 手、足、身体、顔。

 どうやら五感に問題は無いようだった。

 しかし、確かに目を開けているはずだが、周りには何もない。

 あたりは真っ暗なままだった。


 ふと、かすかな明かりを感じで空を見上げると、

 空を埋め尽く影の向こうで光る何かが見える。


 「月…?」


 しばらくして、暗さに目が慣れて、周りの風景が徐々に分かってきた。


 ここは、真夜中の森。


 背高い木々の葉が、空を覆い月を遮ったことで、

 周囲一面をより一層暗くしているらしい。


 今、いる場所はわかった。

 しかし、ふと気づく。


「…なんで、ここにいるんだっけ。」


 ここで目を覚ます以前の記憶が全くない。

 それに…何かを忘れている気がした。

 大事な大事な何かを。


「僕は…誰だっけ?」


 少年は、あの部屋で記憶を取り上げられて、見知らぬ土地へと送られた。

 月の光すら満足に届かない深い森の中、少年は立ち上がって当てもなくゆっくりと歩き出した。

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