影法師だけが知っている
望月くらげ
影法師だけが知っている
放課後、心臓が嫌な音を立てて鳴り響く。一秒でも早く教室を出なくては。そう思って立ち上がるよりも早く、その声は聞こえた。
「
瞬間、教室の中がざわついたのがわかった。「早くしろよ」と、言う
廊下を歩く大上の後ろを歩く。賑やかだった廊下が一気に静まり返る。通り過ぎたところからヒソヒソと何かを話す声が聞こえて、私は誰の姿も視界に入れないように俯いたまま足早に廊下を歩いた。
私、
幸せいっぱいの父にまさか「湊人が嫌だから再婚は反対だ」なんて言えるわけもなく。入籍から一週間経った昨日、ついに百合恵さんと大上が私とお父さんの住む家に引っ越して来てしまった。今日の朝は用事があるからと早く家を出たのだけれど……。
私は一歩前を歩く大上の姿をこっそりと見上げる。同じ中二とは思えない身長差。百五十五センチの私よりゆうに十五センチは高く思える。他の男子達が短く髪を切りそろえているのに対して、大上は首筋にかかるぐらいまで髪を伸ばしていた。後ろからは見えないけれど目つきは非常に悪くて、睨まれた子どもが泣いていた、なんて話も聞いたことがある。
こんなことがなければ絶対に一緒になんて帰らないし話すこともない存在だった。
「やっべ」
昇降口を出た辺りで、ポケットから取り出したスマホを見て大上は小さく呟いた。そもそも学校にスマホを持ってきてはいけないはずなのだけれど、そんなことは特に気にしていないようだ。
「めんどくせえ。……なあ」
「へ?」
話しかけられると思ってもみなくて、振り返った大上の姿に間の抜けた声を出してしまう。
「なんだよ、へって。今日の夜、うちの母親がごちそう作るって張り切ってんだけどさ、生クリーム買うの忘れたんだと」
「はぁ」
ごちそう、というのは私たち親子と大上親子が一緒に暮らすようになったお祝い、だろうか。再婚のお祝いは先日、入籍した日にイタリアンを食べに行ったからきっとそうなのだろう。別にそんなことしなくてもいいのに、と思うけれどそんなこと口が裂けても言えない。
「でさ、スーパーってどこがある?」
「どこって、家の近くに……」
「俺、小学校の校区こっちじゃないからわかんねえんだよ」
うちの中学校は西小と東小校区が合わさってできている。私は西小、大上は東小出身だ。私とお父さんの住む家に引っ越して来たので、校区の違う大上は私の家の近くについてまだ詳しくなかった。
嫌な予感しかしない。どうにか一人で行ってくれないかと、私は俯きながら考える。
「そうなんだ、えっとじゃあ場所を……」
「そんな面倒くさいことしなくても、連れて行ってくれたらいいだろ」
反射的に嫌だと言いそうになったのを必死に飲み込んだ。気持ち的にはどう考えても断りたい。でも、大上の言うことを断るなんてそんな怖いことできない。
「……わかった」
頷く私に「ありがとな」と大上は言う。その言葉に思わず顔を上げた。お礼なんて、言うんだ。そんな失礼なことを思ったのが伝わったのか、大上が眉をひそめた。
「なんだよ」
「な、なんでもないよ」
「あっそ」
そのまま前を向いて歩き出す大上にホッと息を吐く。これからどうなってしまうのか、私には不安しかなかった。
自宅から徒歩五分のところにあるスーパーに大上と二人で向かった。そもそも生クリームなら私一人が買って帰ればいいのではと思ったけれど、率先して歩く大上に向かって口にすることはできなかった。
結局、二人並んで陳列棚にあった生クリームを買い物カゴに入れる。
「なあ」
「え?」
「アイスキャンディとアイスクリームならどっちが好き?」
あとはレジへと向かうだけのはずが、大上はレジ近くのアイスコーナーで立ち止まっていた。
「なんか無性に食べたくなるときない?」
「ある、けど」
「だろ? で、どっちが好き?」
私は久しぶりにアイスコーナーを覗き込む。小学生の頃、お父さんと買い物に来ていたときは駄々をこねて買ってもらったこともあったけれど、大きくなってからは久しく買っていなかった。
アイスキャンディとアイスクリーム、そう尋ねられたけれど私は――。
「これ」
指差したのは二本セットになったチューブ型のアイスだった。昔よくお父さんとこれを分け合って食べた。甘くてほろ苦くて、二人で食べるのが大好きだった。
「わかる、これ美味しいよな」
そう言ったかと思うと、大上はチューブ型のアイスの袋を一つカゴに入れてレジへと持っていく。
「ちょ、ちょっと」
「なに?」
「や、別に欲しいなんて言ってないし、どうせ買うなら大上が食べたいのを買った方が……」
「俺もこれ食べたいって思ってたから」
それだけ言うと大上はもう私の言葉なんて聞こえていないかのようにレジへと向かい、買い物カゴの中身を店員さんへと渡した。
支払いが終わった大上は、カバンの中から何かを取り出した。
「……エコバッグ?」
「そ。うち母親が働いてるから俺が学校帰りに買い物することも多くて。いつもカバンの中に入れてるんだよ。まあ今日は一個だからカバンに直接入れてもいいんだけど、教科書とか濡れたら嫌だろ」
エコバッグを持っていることも、教科書が濡れてしまうのを気にするのも意外だった。
スーパーの外に出ると、先程買ったアイスの半分を大上は私に手渡した。
「付き合ってくれてありがとな」
「……別に」
先っぽの部分をパキッと割って、そっとアイスに口づける。子どもの頃に感じたほろ苦さは消えて、口の中に甘さだけが広がっていった。
大上湊人と一緒に暮らすようになって二週間が経った。学校で噂されたり怖がられたりしているほど悪い人ではないのかもしれない、そんなふうに大上――湊人の印象が変わるまで、そう時間はかからなかった。
「栞奈。体操服、忘れてる」
「あ、湊人。ありがと!」
玄関を出ようとしたところで、リビングのドアから半分だけ身体をこちらに出した湊人が、私に向かって体操服袋を放り投げた。私はそれを華麗にキャッチ――できず、頭に当たる。
「下手くそー」
「私が!? 湊人がノーコンなんでしょ」
「誰がノーコンだって?」
「湊人だよー」
何か言おうとする湊人の言葉を無視すると、私は家を飛び出した。
学校ではほとんど人と会話することのない湊人だけれど、自宅では意外とよく喋る。好きな漫画の話とか、よく聴く音楽の話とか。話すだけじゃなくて、聞き上手で私が好きなアニメやアイドルの話なんかも聞いてくれるし、なんなら歌番組を見ていて私が好きなアーティストが出てくると声を掛けてくれたり録画してくれたりすることもあった。
とはいえ、学校での湊人は未だに『怖くて』『何を考えているかわからなくて』『すぐに睨みつけてくる』人で。私たち二人が親の再婚で家族になったことを聞いたクラスメイトたちからは「大丈夫!?」「虐められてない!?」と心配され続けている。
そのたびに「そんなに怖い人でも嫌な人でもないよ」と言うのだけれど、私がどれだけ否定したところでクラスメイトや友人たちは湊人のことを庇っている、もしくは脅されているとしか思わないようで、ますます心配されることとなった。
だから今はもう否定することをやめた。どうせ信じてもらえないし、それに……湊人のいいところを知っているのは私だけ、そう思うとなぜか胸がドキドキすることに気づいたから。
この気持ちの正体に少しずつ気づいていた。湊人と一緒にいると楽しい。話ができると嬉しい。それは家族に向ける感情とは少し違っていた。義理の弟とは言っても私にとって湊人はクラスメイトの男子という感覚の方が強い。一人の男の子として、湊人に惹かれて行く気持ちを止められなかった。
湊人は私のこと、どう思っているのだろう。少なくとも嫌われてはいない、と思っている。クラスでも私以上に仲のいい女子はいない……と、いうか私以外の女子と必要な会話すら殆ど話さない。だから余計に期待してしまっていた。もしかしたら、って。
でも、そうじゃなかったんだって。全部私の思い上がりだったんだって、すぐに気づかされることになった。
その日の昼休み、先生にプリントを提出するために職員室へと向かった。あと五分で予鈴が鳴る、と小走りに廊下を歩いていると、階段の方から湊人の声が聞こえた。
「み……」
声を掛けようかと思ったけれど、そこにいたのは湊人一人ではなかった。学生服についている学年章で三年の先輩達だとわかった。湊人一人なら話しかけられるけれど、先輩達もいるとなると少し気まずい。一つ向こうの階段から教室に戻ろうと通り過ぎようとしたとき、先輩達との会話が聞こえて来た。
「湊人さ、最近よく一緒に女子といるよな」
「栞奈ですか?」
「そうそう、栞奈ちゃん。お前、あの子にだけなんか優しくない?」
突然聞こえて来た自分の名前に、私は思わず足を止めた。どうやら湊人たちは栞奈が階段下にいることには気づいていないようで話を続ける。
「わかる。なんか妙に可愛がってるっていうか。何? お前、ああいうタイプが好きなの?」
「ち、違いますよ」
「へえ? そうだったんだ」
「だから違うって言ってるじゃないですか」
少し怒ったような声で言うと、湊人がコホンと咳払いをしたのがわかった。
「あれは、家族だからですよ」
「ホントにそれだけかぁ?」
「ホントですよ。……うち、母子家庭だったじゃないですか。だから母親が再婚するってなって毎日幸せそうにいるのがホント嬉しくて。栞奈はそんな母親の再婚相手の――大切な人の娘だから、大事に想ってるだけです」
湊人の言葉に頭の中が一瞬で冷えていくのを感じた。私がお父さんの娘だから。百合子さんの再婚相手の娘だから。だから湊人は私に優しくしてくれただけ。ただそれだけ。それなのに、私は……。
「湊人、お前ってマザコンだったんだな」
「いいじゃないですか、別に」
けたけたと笑う先輩達の声と拗ねたような湊人の声が、まるでどこか遠くから聞こえてくるようだった。
特別なのかもしれないって、そう思っていた。心のどこかで私にだけ優しくしてくれるのは、構ってくれるのは湊人も同じ気持ちなのかもしれないってそう思っていた。恥ずかしさにこのまま走って家に帰ってベッドに潜り込んでしまいたい気持ちに襲われる。
それと同時に気づく。家族だから優しくしてもらえるということは、芽生え始めたこの気持ちを湊人に伝えて家族以上の、家族ではない関係を望んでしまえば、もう優しくしてもらえることはないのだと。構ってもらえることも笑いかけてもらえることもないの、だと。
「そんなの……やだ……」
それならいっそ、こんな気持ちなくなってしまった方がマシだ。まだ好きなのかもしれないって、少し気になるなって、一緒にいると楽しいなってそう思っていただけで本当に好きかどうかもわかっていなかった。きっと今ならなくせる。押し殺せる。家族に……。
「家族に、なれる……よね」
ポツリと呟いた言葉と一緒に、誰もいない廊下に小さな水滴が弾け落ちた。
五時間目、六時間目は散々だった。授業中もどこか上の空になってしまって、先生に当てられても答えることはできず、何度も怒られた。
そんな私を心配してか、放課後湊人に声を掛けられるより早く飛び出すように教室を出た私に、クラスメイトの
「栞奈、今日どうしたんだ?」
「冬馬……」
冬馬は幼稚園からの付き合いで、お母さんを病気で亡くして泣き続けていたときもずっとそばにいてくれた幼なじみで家族みたいな存在だった。だから私が元気なかったり何かあったりするとすぐに気づいてしまう。
「もしかして大上湊人と何かあったのか?」
その理由すらも。
「ち、違うよ。ちょっと寝不足で」
「嘘つけ。何年一緒にいると思ってるんだ。栞奈が寝不足のときは授業中だろうといびきかいて寝てるだろ」
「そんなことしてないよ!」
いたずらっぽく笑う冬馬に私は「もう!」と頬を膨らませる。そんな私に冬馬が少し安心した表情を浮かべたのがわかった。私のことを心配して少しでも元気づけようと思っての冬馬の言葉だということが伝わってきて申し訳なくなる。
「もう……。でも、ホントなんでもないの。ごめんね、心配掛けちゃって」
こればかりはいくら幼なじみと言っても言うことはできない。それに湊人のことを好きなんて言ったらきっと「やめとけ!」ってもっと心配させてしまう。なんとか笑顔を作ろうとするけれど上手く笑えず、苦笑いのような表情を浮かべてしまう。
そんな私の手を冬馬はギュッと握りしめた。
「冬馬……?」
「……俺、さ。栞奈のことが好きだよ」
「……え?」
それは思ってもみない言葉だった。思わず「冗談だよね」と聞き返そうと口を開こうとしたけれど、目の前に立つ冬馬が耳まで真っ赤にしているのを見て何も言えなくなってしまう。
「ちっちゃな頃からずっと栞奈のことが好きだった。栞奈が俺のことを男として見てないのは知ってる。だから本当はまだ気持ちを伝えるつもりはなかった。でも……大上のそばで笑う栞奈を見てたら……どうしても我慢できなかった」
冬馬は今まで見たことのないような真剣な目で私を見つめていた。
「好きだ」
「冬馬……」
「俺と、付き合って下さい」
湊人のことを好きになってはいけない。この気持ちはなくさなきゃいけない。それなら、いっそ――。
「冬馬、私……」
自宅への帰り道を一人で歩く私の隣に、誰かが並んだのがわかった。
「……よっ」
「……湊人」
「なんで先に帰るんだよ」
「別にいいでしょ」
素っ気ない態度を取る私に湊人は何か言いたそうに頬を掻くと「なあ」と口を開いた。
「……都築に告白されたんだって?」
「なんで知ってるの」
「廊下で話してたら、みんなに知られたってしょうがないだろ」
それもそうか、と納得する気持ちと、どうしてそれを湊人が言ってくるのか、という気持ちが心の中で入り交じる。
「……付き合うのか?」
「湊人に関係ないでしょ」
「……まあ、関係ないな」
突き放すような言葉に胸の奥が痛くなる。そうだ、湊人には関係ない。だって湊人は私のことなんて家族としてしか――。
「……っ」
左手をそっと掴まれる感触に、思わず息を呑む。
「断れよな」
「……断ったよ」
「あっそ」
私の左手を握った湊人の右手に力が込められるのがわかった。
好きだとは言わない。
好きだとも言われていない。
でも、繋いだ手から伝わってくる感情は、きっと同じ。
アスファルトに映る伸びた影。
影法師だけが知っている、二人の秘密。
影法師だけが知っている 望月くらげ @kurage0827
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