最終話 あなたになれた

 無感情に動く長いエスカレーターを、光は無我夢中で駆け上がった。

 赤ちゃんはどこ? あの人が攫ったの? 

 くだりのエスカレーターに乗った、寄り添った家族とすれ違った。夫と、つばの広い帽子を被った『光』と、『光』に抱っこされた赤ちゃん。

 

「あ!」

 

 振り向いて、エスカレーターをくだろうとした。が、上がり続けるよう設定されている機械に、融通などきくはずもない。

 

「待って!」

 

 死にものぐるいで叫ぶが、夫は気づかない。ただ、夫の隣の『光』が、光を振り仰いだ。帽子の下の顔も、赤ちゃんをあやすしぐさも、鏡を見ているようだ。

 でも、あれは違う人。違う人なのに。

 光はスマホを取り出し、夫の番号にかけた。下の階に到着した夫が、スマホを耳に当てる。

 

「はい」

「私よ。上見て」

 

 夫がこっちを仰ぎ見た。

 光のフリをした別人が、赤ちゃんを抱いたまま、サッと走った。

 

 

 

 その日から、家から愛が消えた。

 

 

 布のかたまりを大事に大事に抱え、精一杯あやす。

 

「よしよし。おねむかな」

 

 布の下の赤ちゃんが、キャアッと笑った気がした。笑顔を返してやる。

 夫が気味悪そうに、

 

「やめろ。あの子はいないんだ」

「誰のせい?」

 

 わざと声を低め、恨みを叩きつけた。

 夫はたじろいだようだ。

 

「警察に被害届けと捜索願いは出しただろ。あとは任せるしかないよ」

「あんなのにだまされるなんて、普通ありえない」

 

 夫は憮然とする。

 

「ほんとに光と似てたんだ。仕方ないだろ」

「ばかじゃないの? あんたのせいで」

 

 赤ちゃんに二度と会えないかもしれない。布の塊を抱きしめて泣いた。

 夫は不機嫌に、爪先で床を叩いている。

 

「光が遊んでないでもっと早く帰ってればよかったんだ。勝手にいじけてろ」

 

 夫はバタンとドアを閉め、自室に篭った。

 光は涙が止まらなかった。

 

 

 

 砂場や遊具で遊んでいる子供たちや母親を、ブランコを揺しながら、寂しく眺めた。

 あれからしばらく経つが、赤ちゃんも影子も行方がつかめない。夫との仲も険悪になる一方。夫を責めてしまう自分が嫌になる。

 周囲のママは、幸せそうに子供を抱っこしている。赤ちゃんのことが思い出されて、胸がズキズキ痛み、涙が止まらない。なぜあのとき、赤ちゃんから片時も離れなかったのだろう。

 影子さんもこんな気持ちだったのかもしれないと、初めて気づいた。

 とんとんと、軽く肩を叩かれる。

 振り向くとママ友がいた。

 

「やっぱり光ちゃんだ。まだ公園にいたの?」

「え?」

「あの子と土手をお散歩してくるって言ってたじゃない」

 

 光は目を剥いた。

 

「見たの?」

「見たっていうか、抱っこしてたじゃない。光ちゃんが。『赤ちゃんが戻ってきた』って大喜びしながら」

 

 

 

 川べりの土手を、光は走った。

 

「どこ?」

 

 おしゃべりしている知り合いのママ集団とすれ違う。

 

「え? 光ちゃん」

 

 目を点にしている。

 

「私を見たの?」

「向こうのスーパーに行ったんじゃないの?」

 

 スーパー。そこにわが子と、赤ちゃんが。

 

 

 走る光の背中を眺め、ママ友たちはうわさする。

 

「あれほんとに光ちゃん? なんかやつれてたし、影子さんじゃない?」

「そうかも。影子さん整形してから光ちゃんと見分けつかないもんね」

 

 

 スーパーを探し回ったが、結局目当ての人物は見つからなかった。

 光は街中を駆けずりまわった。

 

「私と似た女の人と赤ちゃんを見ませんでした?」

 

 いろんな人に聞いてまわった。

 みんなあそこに行ってたんじゃないのか、そこにいたんじゃないのかと、教えてはくれた。けれど瞳には、隠しもしないような訝しみを潜めている。

 

 

 

 見つからないまま、結局夜になった。

 疲れ果てた光は、ほうぼうのていで、家の前まで戻った。

 

「どこにいるの?」

 

 赤ちゃんが心配で、心はすっかりすりきれた。夫に縋りたい。

 ドアノブに手をかけようとした。地面に落ちた、つばの広い帽子を、いつの間にか踏んづけている。

 

「これって……」

 

 見覚えのある帽子。

 家からかすかに赤ちゃんの声が聞こえた。

 あの子が戻っている? 警察が捕まえてくれた?

 希望を持ってドアを開けようとした。

 ドアが開かない。鍵がかかっている。

 自分の荷物を探るが、鍵がない。持ってくるのを忘れた。

 光はインターホンを鳴らし、夫を呼んだ。

 

「あなた、いるんでしょ。開けて」

 

 インターホン越しに、ガサガサと、夫の声がした。

 

『開けるわけないだろ。このストーカー』

 

 赤の他人を突き放すような声音。

 

「なんで? 私だよ。光だよ」

『光はここにいる。うちの子をあんたから取り戻してな』

 

 インターホンの音に、赤ちゃんの泣く声が混じっている。誰かの声も。

 

『影子さん。私に付き纏うのはもうやめてください』

 

 あの女だ。

 

「ふざけないで。影子はあんたでしょ」

『早く帰らないと警察呼ぶぞ』

 

 通話は無情に切られた。

 

「そんな。開けてよ」

 

 光はドアを叩くが、開かない。

 

「開けて開けて開けて。開けてってば」

 

 ドアの前で崩れ落ち、光は泣きじゃくった。

 潰されたつばの広い帽子が風に飛ばされ、夜陰に消え去った。

 

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