第3話 もう少し
光の精神的は崩壊寸前だった。片付けもおろそかになり、散らかった部屋の床に、赤ちゃんと寝そべる。
赤ちゃんが泣きだしても、気分が悪くて動けない。
帰宅した夫が、気遣わしげに赤ちゃんを抱っこした。
「俺がめんどう見るから外出なよ。引きこもりっぱなしじゃますます滅入るよ」
外こそ滅入るのに。
「……外に出たらあの人がつけてくるから」
「例の光の真似してくる人? 光がうらやましくてちょっと真似してくるだけだろ。さすがに考えすぎだよ」
イラっとした。能天気すぎる。なにもわかっていない。所詮、他人事、対岸の火事なんだ。
「あの人整形までしたんだよ? ちょっとどころじゃない。どうしてわかってくれないの?」
捲し立てたら、夫は目を逸らした。
「育児疲れとかホルモンバランスの乱れとかはわかるけどさー。俺だって仕事で疲れてるんだけど」
なんの話をしてるの? 適当にごまかそうとして。
つい強い口調で、
「そういうことじゃない!」
夫はため息をつき、赤ちゃんを抱っこしたまま、寝室へ入った。
角ばった背中が視界から消えると、じわじわ涙があふれた。
心配してくれたのに、関係を悪くしてしまった。もとはといえばあの人のせいだ。どうしてあんな人のために。
自分も言いすぎた。篭ってばかりで気が滅入っていたんだ。このままじゃいけない。夫の言ったとおり、外へ出よう。
赤ちゃんと夫、それから暇のあったママ友とその子供で、県外のデパートまで遊びに行った。
赤ちゃんと友達の子は、夫が子供スペースで見てくれると申し出てくれた。
「じゃあよろしくね」
「うん、楽しんできて」
久々に子供なしで遊ぶ。ママ友は笑顔で、
「光ちゃんの旦那さん本当に優しいよね。うちの旦那なんて絶対1人で子供の面倒なんて見てくれないよ」
「えへへ。おかげでこういうとこ、久しぶりに買い物できる」
「ね。楽しもう」
県外なら、流石に『あの人』も来ないだろうし。
上の階から、つばの広い帽子を深々と被った女が、子供スペースをのぞいている。
デパートの売り場を見てまわり、友達とショッピングを楽しんだ。服やアクセサリーがいっぱい。こんなにキラキラしたものをじっくり見るのも久しぶり。
「あ、あの服光ちゃんに似合いそうじゃない?」
友達に手を引かれ、あるアパレルショップへ入った。
いい雰囲気の服を友達が見つけてくれて、試着室へ入った。ピッタリ似合ったその服を着、お会計をすませる。
友達は満足げに、
「やっぱり絶対似合うと思ったもん」
「ありがとう。まみちゃんも似合ってるよ」
機嫌よくいられるよう褒め合いながら、ショップから出た。
入れ違いで、帽子の女が来たのには気づかず。
「さっきの人と同じ服、まだありますか?」
コスメ売り場にも行った。
アイシャドウだのリップだのチークだの、さまざまなコスメを試した。さっき買ったばかりの新しい服は、滑らかで着心地が最高だ。
「これかわいい。これにしようよ」
「いいね。コスメ買うなんて何年ぶりだろ」
光たちがコスメ売り場から出ていくと、すかさず帽子の女が商品を漁った。片っ端から試し、店員が白い目を向ける。
ケーキ専門店のカフェにも行った。
ちょっとお茶をしてから、夫用におみやげのケーキも買う。
お会計は、いつの間にかレジに行った友達が済ませていた。おごりになってしまう。
「悪いよ。私も出すから」
「いいって。いつもお世話になってるし」
友達は口の開いた財布に、お釣りを押し込んだ。レシートは除外して。
「レシートいらないや。旦那に見つかったら悪者扱いされるもん。主婦のくせに贅沢してるって」
「ひどくない? たまにくらいいいじゃん」
「だよね。ケチなんだよねー」
光の受け答えに同調しながら、友達は縦長の紙っぺらをクシャクシャっと丸め、レジの回収ボックスに放りこんだ。
レシートには、注文時間と品物が、しっかり印字されている。
しばらくして、帽子の女が店に入った。
「いらっしゃいませ。1名さまですか?」
店員が愛想よく接するが、女は無言で、レシート回収ボックスを漁る。
面食らった店員は、顎が外れたようにポカンと口を開いている。
「時間的にこれかな」
クシャクシャに丸められたレシートをつまみ出すと、女は上機嫌で店から出て行った。
子供スペースにいる夫は、ぎこちない手で赤ちゃんをあやす。赤ちゃんの小さな顔に、ギュゥっと力が入る。泣き出しそうだ。
「よしよし。ミルクかな?」
赤ちゃんを置き、荷物から、用意していた哺乳瓶を取り出そうとする。妻の友人の子はおもちゃに夢中だ。
すると横から、細い手がスッと、荷物の口を塞いだ。
「これはミルクじゃないよ。おしめ。泣き声でわかるでしょ?」
顔をあげたら、新品の服に、華やかなメイクをした、見慣れた顔がある。
「光、戻ってきたの? 新しい服買ったんだ」
『光』は赤ちゃんの両足を上げて、おしめを変え始めた。
「うん。変かな」
「似合うよ。でもなんでその帽子買ったの? 似たようなの捨ててなかった?」
「捨てたの?」
「え? うん」
妙な尋ね方をしてから、妻は顎をさする。
「……そう。あ、まみちゃんこのあと用事ができたからすぐ帰るって」
「そうなの?」
まみちゃんは、妻の友人のことだ。
「デパートにおいしそうなケーキ専門店があったから、これから行かない?」
「子供たちは?」
「まみちゃんの子はママがもうすぐ迎えに来るから、預けておけば?」
友達と子供のスペースまで戻ると、友達の子が一人で遊んでいた。夫と赤ちゃんはいない。
「あれ? パパはどこ行ったの」
「わかんない」
トイレ?
「私探してくる。先に帰ってて。旦那さんうるさいんでしょ」
「うん。ありがとう。またね。ほら行くよ」
友達は娘の手を引き、帰っていった。
光は子供スペースで夫をしばらく待った。待っても待っても、夫も赤ちゃんも帰ってこない。
心配になり、スマホを取り出す。
電話はすぐに繋がった。
「もしもし? 今どこ?」
夫の声が聞けるだろうと予想していた。が。
『もしもし? 今どこ?』
自分とまったく同じ声音に、同じ口調。
びっくりして、返す言葉が見つからなかった。電話の向こうから、赤ちゃんの泣き声がしている。
『誰から?』
夫の声も。
「ねえ? あなたどこにいるの?」
電話の人たちは、勝手に会話をしている。
『いたずら電話みたい。それよりここのコーヒーミルクレープおいしいでしょ』
『うん。甘すぎなくてちょうどいいよ』
通話が切られた。
「コーヒーミルクレープ……?」
さっき友達と食べたケーキじゃないか。
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