第7話

いつもと変わらぬ航行であった。誰も彼もが緊張を解き、油断と言うのが正しいだろうか。それは刹那の出来事であった。船底を酷く押し上げる力。二十トン近くある鉄の塊が、いとも容易く持ち上がってくる。

「おい!今、今何人か海に落ちた!このままやったら死ぬぞ!」

「誰か!誰か!」

甲板はすぐに阿鼻叫喚へと引きずり込まれた。それもそのはず。ライフジャケットも何も無いまま、この大海へと人が落ちたのだ。死に至るまでは秒読みである。

「被害の状況を確認せい!落ちたのは何人!?船底は!?」

船員が一人、運転席から声を張って聞く。しかし、

「分からん!沈んだんやないか?もう姿も見えんぞ!」

野次馬からの返答は無情。皆の顔から絶望が伝う。その時であった。ザーッと無線の砂嵐の後、

「聞こえるか!聞こえとったら応答を!」

掠れた無線が耳元を走る。

「こちら白波!乗客の何人かが海に落ちた!至急海上保安庁に連絡を!」

「分かりました!こちらからも応援に向かいます。」

暗雲の中でか細い光を手繰り寄せていく。船尾の方では既に救助が開始されていた。浮やロープが水面めがけて投げ込まれて行く。

「ブヲォオン!!!」

それが耳へと届いた瞬間、汽笛かの様な低音であった。

「また来る・・・!」

脳裏を最初の恐怖が劈く。そして、鉄板を叩く轟音と共に、船は大きく左へ傾く。正真正銘、一瞬であった。海水はまるで生物の様に、腕を伸ばして船体を掴む。


西暦2003年7月17日。この事故は後に”玄海の鯨”そう名をつけられ、世間を揺るがす一大事となる。死者55名、生存したのはたった一人の赤子だけだった。




「おい・・・何やこれ・・・。」

「・・・。」

事故発生から十数分程。現場へと着いた、島津と光は言葉を失う。そこにあったのは腹を向け浮かぶ旅客船一つ。無数の凹みや擦る様な傷が生々しかった。

「人は・・・、おい!みんなどこや!返事しろ!」

叫ぶ声には返答などない。自分はきっと騙されただけだ。心は自然と逃避してゆく。すると、

「やめろ。もう全員死んどる。仮にも海で働く者ならならそのくらい理解せんか・・・。」

光が俯き、呟きを溢す。常時海に出る仕事だからこそ、それは正確に理解してしまう。そもそもの話、水へ落ちるのと飛び込むのとでは雲泥以上の差異があるのだ。パニックへ堕ちて身体はみるみる引き込まれて行く。

「適当言うな・・・。そんな訳ないやろ。俺たちは誰かに担がれとるだけで・・・。」

島津はそう言うとすぐに、甲板上へと膝から崩れる。無理もないだろう。空気は次第に灰色へ変わり、質量は今も増し続けていた。

「おい、何か聞こえんか?」

生気が溢れた隣に対して、光は落ち着き耳に手を当てる。

「はぁ・・・?」

島津も遅れてそれに続いた。

「ギャゥ・・・アウゥ・・・。」

微かではあれど確かに聞こえる。小さくも高い声の様な音。

「船ん中にまだ少し空気が残っとるんかも・・・。」

「おい、待て!」

咄嗟に島津は目の前の足を懸命に掴む。

「何や、離せや。」

「お前、行く気か?何でや?」

”俺は別に海に潜ってまで助けたりせんぞ?”道中に聞いた言葉がどうにも頭に浮かんだ。だがしかし、

「邪魔すんな!」

力任せに手を振り払われ、彼はそのまま海へと飛び込む。

「おい!おい!何でや!何でお前が行くんや!戻ってこい!おかしいやろ!」

島津は船の鋒まで来て、慌てた様子で声を張っていた。夏真っ只中、水は冷えている。光は息を目一杯溜めて、その深い青へ潜り込んでゆく。




五メートルほど潜った海中。真上には船の表側がある。船室も全て水が占めていて、人の気配など感じられない。だが、

「ん?」

それが見えたのは偶然か否か。乗客部分の扉のその先、操舵室内に空間が見えた。空気がある。瞬時にそれを理解した後に、光は近くの窓を蹴り外す。目指すは先頭。残った命へ塩水を掻いた。




「クソっ!」

吐きつける様な言葉と同時に甲板を叩く。島津は一人船の上に乗り、自分の無力をただ呪っていた。そもそもこれは自分自身が招き入れた事。「光はどうして。」そう思いを馳せ水面を覗く。

「んっ!?」

光の姿は当然の事で、見える筈は無い。それはそうとして、一瞬何かが海の底を這う。その時島津の頭を最悪が走る。

「まさか・・・。」

戻ってきたのだ。それはもう一度何かを求めて。

「おい!上がって来い!光っ!」




『関係者以外立ち入禁止』操舵室前の文字を横切り、そこに居たのは赤ん坊だった。両親のものか、厳重なまでの衣服に包まれ、小さくも息を吸って吐いている。

「す〜ぐ戻っちゃるけん。」

微かに残った空間の中で、光はその子へ優しさを放つ。もうすでに親は死んだのだろうか。嫌な想像が湧いて暴れ出す。

「スゥーッ。」

肺に目一杯空気を押し込む。出来るだけ早く、上で待つ船に届けなくては。使命感の中、光は水へと一気に没する。いつよりも増してそこは冷たく、そして孤独に満ち溢れていた。




乗って来た船の底が見えた頃、島津の濁った声が耳を刺す。はっきりとはまだ聞き取れない程。しかしどうにも酷く取り乱し危なげな様だ。その時である。ザバンと大きな音を共にして、よもや彼が今海に飛び込んだ。

「ぶっ!」

何事であるか。思わず少量息が吹き出した。そうしてその後も島津は怯む事は無く、光を見つけて大慌てのまま、一心不乱に海を掻き迫る。全くもって理解が出来ない。「まさか!?」

それは一瞬の共鳴であった。島津が言わんとしている何かしらの事、それに光は直感が冴える。直後、振り返り背後。そこに広がる紺碧へ彼はただ目を凝らした。

「帰ってきた・・・。」

浮かび上がるのは黒々と見える巨大な影像。マッコウクジラだ。




誰よりも深く、この海であれば理解出来ている。そう思っていた。体が何故だか嫌に冷たい。太陽の光は徐々に小さく、弱くなるばかり。

「待って!光!ひか・・・ひ・・・かる。」

島津の泣いて喚き散らす声。

「早よ逃げろ言ったやろ・・・クソ。」

どうやら自分は死ぬらしい事がぼんやりと分かる。たかが鯨に小突かれただけで、なんと人間は弱く脆いのか。そんな事だけが光の頭を支配していた。あの瞬間、鯨の体躯が見えるのと同時、光は水面へ死力を尽くした。なんとか助けた小さな命を、先の未来へと届けるが為に。

「多分あいつは船の底を見て襲っとる。俺まで行ったら逃げきれんやろう。」

やっとの思いで船上に登り、赤子を島津に手渡した後で、光は実に堂々と言った。愚かだ。要するに「殿をやろう」そう言うのである。

「は?馬鹿言ってねぇで早く船出すぞ。」

心は決まっていたのであろうか。島津は当然聞く耳を持たず、エンジンのキーを前へと突き出す。だが、

「・・・。」

光はそれを受け取らなかった。それどころか、

「俺を殺すな。さっさ船出せよ。」

謎の言葉を放ると同時に、彼は走り出す。船尾へと向けて猪突猛進。一瞬のことで、そこには迷いも微塵と見えない。ひとつ大きな破裂音だった。島津が追いかけ覗いたそこには、白い泡だけが。まさかここまで呆気も無いとは。

「おい!コラ!光!戻れやぁあ!おい!」

怒りの言葉に返信は皆無。”俺を殺すな。”その言葉だけが脳をぐるぐると反響していた。




その後どれだけの時間が経ったか。気づけば船は港へと戻り、島津は一人蹲っていた。これから自分はどうなるのだろう。光が死んだ。それは事実か。夏だと言うのに震える体が止まることはない。現実を見ても、即座に頭がそれを拒絶する。

「あれ?島津さん?もう帰って来とったと?」

針で風船を割ったかの様な感覚であった。これまで無いほど強く波を打つ、心臓がそれを体現している。声のある時は柴井 岬。島津は何も返す事はせず、手元に転がる鉈を手に取った。




つづく

この度は『この海の底まで第7話』をご愛読いただきまして誠にありがとうございました。もしこの物語が気に入っていただけましたら応援やフォローもよろしくお願いいたします。今度の更新はまだ未定となっております。


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この海の底まで 和田 真央 @Tunas

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