『細胞』前編

 ……仕事中、私の婚約者のお母さんから電話がかかった。


『……佳奈かなさん……稜平りょうへいの容態が急変して……先生が、家族を集めて……って……』


 ……消え入りそうな声だ。


 覚悟はしていたが……ついにこの日が来てしまった。


 ……稜平は半年前の交通事故で昏睡状態になり、命の灯火ともしびが消えるのも時間の問題と言われていた。


 毎日のようにお見舞いをし、奇跡が起きるのを祈り続けていたが……。


 私は店長にその事を伝え、タクシーで病院に向かった。



 ……病室からは慟哭が聞こえる。 稜平のご両親と妹の声だ。


 今は……私がしっかりしないと……。


 深呼吸してから病室に入った。


 

 ……しっかりしよう……と思っていたのに……


 血の気の引いた稜平の顔を見たら……もう……これでお別れだと思ったら……


「お願いーっ! 稜平! 目を開けてーっ!」


 自分が抑えられず、稜平にしがみついて哭き叫んだ。



 ……稜平は私には勿体ない、素敵な男性ひとだった。


 稜平と過ごした時間は、恐ろしいくらい幸せで『こんな日だけは絶対に来ないで』といつも心から念じていたのに、運命は私が一番望まない方向に向かってかじを切った。


 凌平の血圧が、急な斜面を転がり落ちるように下がり……心拍が消え……


 医師が彼の死を告げた……。



 ……それから一週間後……


 初七日の法要を終え彼と過ごした部屋にひとり戻ると、いよいよ本当に、この世に彼が居ないという現実が胸を締め付け、立っていられない程だった……


 私は這うようにして窓際に向かい、おいてある小皿に目をやった。


 そこには薄赤色の液体に浸かったハンカチに……多肉植物の葉が1枚乗っていた。


 このハンカチは、凌平が事故に遭って病院に運ばれてすぐ、私が遼平の頬に残っていた血液を拭き取ったものだ。  


 私の手元に遺された、彼の大切な一部……。


 罪の意識にさいなまれつつも、どうしても洗い落とす事ができなかった。


 そこにそっと載せたのは、私が凌平と一緒に行った縁日で買った『月の王子』という観葉植物の『子葉』だ。


 ……ハンカチに遺った凌平の血液は

いつか必ず風化し、消えてしまうだろう。


 でも、凌平の血を栄養にして『月の王子』が成長するなら、私はずっと凌平のそばに居られる。


 月の王子は、たった1枚の子葉からでも、成株になれるそうだ。


 ……数日後……


 子葉の端から、細いけど確実に『根』が伸び始めた!


 消えた筈の凌平の命が再びともったような気がして、私はこの上ない喜びに打ち震えた。


 誰にも迷惑をかけず凌平のもとに向かう方法だけを考えていた私に、もう一度、生きる希望が芽生えた瞬間だった。


(続きます)

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