珈琲探偵の華麗なる推理

珈琲中毒

珈琲探偵の華麗なる推理

 ルーティーン。それは日々を過ごす中で、決まってこなすちょっとした動作や仕事、あるいは手順のこと。

 人は誰しも大なり小なりルーティーンを持っている。

 例えば朝起きたらまずカーテンを開けて朝日を浴びるだとか、週一の銭湯だとか、家事の取り組む順番だとか。

 その内容は人によってそれぞれだろう。だが共通して言えるのは、その人にとって決して欠かすことのできない行為であるということだ。

 青山郁高(あおやま ふみたか)もまたそんなルーティーンを持つ人間の一人だった。

 都内某社経理課に勤める三十五歳。長すぎも短すぎもしない髪は自然にまとめられ、ぱりっとしたスーツに身を包むその姿は洗練されている。勤務中は途切れることなくキーボードを叩き、時に切れ長の目を眇め部下に的確な指示を下す様は非常に頼もしい。

 彼のルーティーンは他でもない、一杯のコーヒーである。

 昼休憩になると食事を手早く済ませ、自社ビルを出て道路を挟んだ向かいのビルの地下一階へと向かう。

 そこに純喫茶「斉田珈琲」はある。

 長く使い込まれた木のテーブルと革張りのソファが立ち並ぶ店内。赤い色ガラスのランプが放つ光にほんやりと照らされた空間は、異国めいた雰囲気だ。都会の雑踏でも会議の紛糾でもない、まろやかなざわめきが漂っている。

 さまざまな思惑渦巻くオフィス街におけるオアシス。そこでマスターが一杯ずつ丁寧に立てる、オリジナルブレンドのコーヒーは、砂漠のような都会で渇いた心を癒やす生命の水にも値する。

 ソファに身を預け、これを啜る至福の二十分間。青山はこのルーティーンによって心身を回復させる。そして午後の仕事を迅速かつ適切に処理し、定時退社を勝ち取ることができるのである。

 たったコーヒー一杯。

 だがそんなささやかなルーティーンが今、崩されようとしていた。


「殺人事件!?」

 部下がどんなミスをしようとも怒りの一片すら見せたことのない青山が、珍しく声を荒げた。

 「しーっ、しーっ」と声を潜めるよう促すのは、この店のアルバイト・真柴さんだ。小柄でどこか小動物のような仕草を見せる彼女は、常連客から「豆柴ちゃん」の愛称で親しまれている。

 さて、いつも通り昼食後に現れた青山は、都会の喧噪とは無縁のはずの静かな店が、不自然にざわついていることに気がついた。

 店を出入りしているのは眼光鋭い制服の男達、つまりは警察である。店外に追いやられて所在なさげにしていた真柴さんが常連の筆頭である青山を見つけて、嬉々として事の顛末を教えてくれた。

「そうなんです。カップルのお客の男性の方が、突然苦しみ出して、ばたーんと床に倒れて。それから救急車を呼んだり警察を呼んだり。他のお客様にも謝って帰っていただくことになっちゃって。もうさんざんですよぉ」

「殺人と言っていたが……急に倒れたんだったら病気じゃないのか?」

「コーヒーを飲んでしばらくしてから苦しみ出したんです。実際、鑑識の人がコーヒーカップから毒を検出したみたい。だからコーヒーを淹れたマスターも、運んだ私も容疑者なんです」

「毒殺か……穏やかじゃないな」

 私もマスターもお客をわざわざ自分の店で殺すわけないのに、とぷんすか怒っている真柴さんに適当に相づちを打ちながら、店内を覗き込む。するとカウンターの所で居心地悪そうに立っていたマスター、斉田氏と目が合った。

「いらっしゃい、青山さん」

 と笑顔を浮かべるが、その顔はすっかりやつれている。無理もない、自分の店で殺人事件が起こったのだから。

 警察達は床に倒れた男の周りであれこれ話し合っている。

 男はくたびれたパーカーに、これといった特徴の無いシャツとジーンズを履いていた。ぴくりとも動かぬ指の先には画面の割れたスマートフォン。おそらく毒が効いてきて苦しみ悶えているときに、床に落としたのだろう。

 桐間次郎(きりま じろう)、二十六歳、会社員、という情報が彼を取り巻く声の内から拾い聞くことができた。

 さらに彼の足元の所で、茶髪をゆるく巻いた女性が嗚咽を漏らしている。年の頃は豆柴ちゃんと同じくらいか。

「ひどい……誰が次郎くんを……」

 彼女が被害者の恋人であるらしい。名前は家見茂香(いえみ もか)。今の流行と思われる小綺麗なワンピース姿はデートのために用意したと思われる。相手の男の冴えない格好とは対極にあった。

 曰く、普段仕事で忙しい彼がようやく休みをとることができ、久々に会っていた。

 丸テーブルで向かい合わせに座って、彼の方は当店自慢のブレンドコーヒー、そして彼女はオレンジジュース。一啜りしかしていないだろうコーヒーはすっかり冷め、半分ほど減ったジュースの方は氷が溶けて水っぽくなっている。

 マスターは現場保存のため片付けることのできないテーブルを一瞥し、

「そういうわけで青山さん。今日はコーヒーを出すことができそうもない」

と言った。

 その言葉に青山は目を剥いた。

「何ですって」

 それは困る。本当に困る。

 青山の業務ははっきり言って激務である。始業十五分前に職場に着いたその瞬間から、落ち着く暇も無くエンジン全開で取りかかる必要がある。その間休憩など無く、トイレに立つ間も無い。手元の書類を処理する傍ら、部下の質問に応え、かかってくる電話の相手をし、的外れなことを言う上司を適当にいなし、打ち合わせに赴かなければならない。

 密度がとんでもない午前と午後、その間の一時間の昼休憩は唯一彼が休める時間。そしてその時間を利用して飲む一杯のコーヒーこそが、目まぐるしく襲いかかる仕事をこなすためのエリクシル。絶対不可欠のルーティーンであった。

 青山は黙考すること一秒、

「犯人が見つかって警察が引き上げたら、コーヒーを頂くことができるんですね?」

とマスターに尋ねた。

 マスターは怪訝そうな顔をする。

「そりゃあそうだけど、今日中にはとても解決しそうには……」

 それ以上は聞かずに青山は腕時計を見た。

 現在、十二時三十五分。

 何を思ってか昼休憩三分前に掛けてきた電話の対応で、昼食を食べ始めたのは十二時二分から。少しペースを速めて食べ終えたのが十二時十五分。いつもなら五分で「斉田珈琲」に着き十二時二十分からコーヒーを飲み始められるが、今日はエレベーターの混雑で十二時二十七分に到着。そこで事件に遭遇。マスターや真柴さんから話を聞いて、この時間である。

 ここから職場まで戻るためにかかる時間は五分。せめて十五分はコーヒーを味わう時間が欲しい。そうするためには残り五分。五分で全てを解決する必要がある。

 青山は覚悟を決めた。

「失礼」

 大股でこの場におけるボスとおぼしき一際厳つい男、大橋警部に歩み寄る。

「何ですかね」

 鋭い目が青山に向けられる。一般市民相手なので口調こそ丁寧だが、威圧感が凄まじい。

 だが青山は意に介した様子もなく、

「私、隣のビルで働く青山郁高と申します。犯人がわかりましたので、お伝えに参りました」

と宣った。

「は……」

と言ったきり、大橋警部は固まった。

 彼にはまったく意味がわからなかった。殺人事件の調査をしていたら、突然現れた一般人に「犯人がわかったので教えます」と言われる、その状況が。

 青山の言葉には前後関係の説明が皆無だった。

 彼としてはコーヒーが飲みたい、だがコーヒーを飲むためにはこの店で起こった殺人事件を解決しなければマスターがコーヒーを淹れられない。ならば自分がこの事件を解決してコーヒーを淹れてもらおうと考えた。そう、彼の中では筋が通っているのである。

 だがそのへんの説明は完全に省いた。なぜなら時間が惜しかったから。

 とはいえ説明したところで、大橋警部もその部下達もやはり意味がわからなかっただろう。彼らは口をぱくぱくとさせたが、結局何を言えば良いのか思いつかなかった。全く違う常識で生きる人間を前にしたとき、人は言葉を失うものなのだ。

 構わず青山は一歩踏み出し、まっすぐに人差し指を向けた。

「犯人は家見茂香さん、貴方だ」

 指差された彼女は真っ赤に泣きはらした目を見開いた。いきなりクライマックスである。

「な……っ。次郎君は私の恋人なのよ。何で私が彼を殺さないといけないのよっ」

 涙を拭いていたハンカチを強く握りしめる。

「第一、次郎君は私の真向かいに座っていたのよ。どうして彼に気づかれずに彼のカップに毒を入れられるっていうの?次郎君がトイレに立つ時があったならともかく……そんなこと無かったわよね!?」

 突然水を向けられた真柴さんは、

「は、はい。私はお客様が席を外している姿は見ていません」

と、記憶をたぐり寄せつつ震える声で答えた。

「ほらね。見当違いも甚だしいわ」

 元々は気の強い性格なのだろう。先程までの弱々しく涙する姿とは打って変わって、ふん、と鼻を鳴らす仕草が実に堂に入っている。

 そんな彼女に青山は低い声で一言。

「猫舌」

「!」

「彼は猫舌だった」

 家見嬢の顔色が瞬時に変わる。

「桐間氏はコーヒーを好んでいたが、ある程度冷ましてからでないと飲むことができなかった。それで待つ間にいつもスマホゲームをしていた。制限時間五分間のパズルゲーム。それが彼のルーティーンだった」

 自然と皆の視線が、遺体の手元に落ちているスマートフォンに集まる。

「ゲームをやっている間は、彼の意識は小さな画面に集中する。そのタイミングを狙って、コーヒーに毒を入れた」

「……確かに!桐間さんは週に一度お店に来ますが、いつもコーヒーになかなか手をつけません。席に着いた途端スマホを触り出すので、コーヒーが冷めちゃってもったいないなあって、いつも思っていました」

 真柴さんが手を叩く。

「貴方の言うように、まさか真正面に座った人間が毒を盛ることができるとは誰も思わない。それで容疑者からも外れられる、というわけです」

 畳み掛ける青山に、家見嬢はヒステリックにハンカチを床に叩きつけた。

「見てきたように……全部想像じゃないっ。貴方、別に彼の知り合いでも何でもないでしょ。何でそんなことわかるのよっ」

「仕方がない。これだけは言いたくなかったんですが」

 仕方ない、時間短縮のためだ。青山は溜め息を吐いて再び彼女を見据えた。


「私はコーヒーの妖精が見えるんです」


「は?」

 この声は家見嬢のものだった。だがその場にいるもれなく全員の心の声は全く同じだった。

「一杯のコーヒーには一体の妖精が宿るんです。大きさはカップに収まるくらい。彼らは人間が美味しく飲み干せば笑って光となって空気に解け、残したりすればぼろぼろと土塊のように崩れて死んでしまうのです。桐間さんのコーヒーに宿った妖精が全てを教えてくれました」

「な、な、何言ってるのよ」

「今も見えています。コーヒーカップの縁に腰掛けた彼女の姿が。貴方の入れた毒によって損なわれたのです。髪はぼさぼさに傷み、茶色のドレスは青黒い色で汚れてしまっています。彼女は貴方を見て泣いています。

 桐間さんはコーヒーが好きだった。彼が生きていれば美味しく飲んでくれるはずだった。それなのに貴方が台無しにしてしまった。

 彼女はこれから塵芥となって消えます。本当ならまた美味しいコーヒーとなって生まれ変わって別の誰かに飲んでもらえたはずなのに」

「ひ……っ」

 家見嬢はぼろぼろの少女がこちらを恨みがましく見つめてくる姿を見たような気がした。今の彼女にはそれが幻影だと言い切れる自信は無かった。

 今までの激しい反論が嘘のように床に崩れ落ちる。

「あの人、私をいつも蔑ろにしてきたのよ。私はこんなに次郎君のために尽くしてるのに、全然私のために時間を作ってくれない。スマホゲームも、土日のジム通いも、猫舌のくせに熱いコーヒーを時間を掛けて飲むのも……全部自分のルーティーンだからって。これをしないと仕事も生活もうまく回らないからって。何がルーティーンよ。そんなのしようがしまいが、次郎君は仕事もプライベートも中途半端なダサい男のくせに……っ」

「いいえ、ルーティーンは大事です」

 青山が静かに諭す。

「それは個人が長年かけて編み出した、その人にとって最も効率的で、日常の幸せを再確認し、生活を豊かにするための手法なのです。誰に文句をつけられるものでもありません。時にはそれが間違っていることもあるでしょう。ですが仮に間違っていたとしても、貴方は彼のルーティーンを覆すだけ愛されてはいなかっただけです」

「……っ」

「貴方は彼のルーティーンが間違っていると感じ、それを指摘したが彼は聞いてくれなかった。なればそんなルーティーンにこだわる男、捨ててやれば良かったのです。そこが貴方の最大の過ちです」

 家見嬢の泣き声が店内に響く。

 青山は腕時計を見た。十二時四十五分。

「しまった。推理は五分だったが、説得の五分を計算に入れていなかった」

 足元でうずくまる女性から完全に関心を失い、カウンターのマスターの元に歩み寄る。

「マスター、ブレンドコーヒーを一杯よろしく」

「え、ええ。承知しました。でももう時間が無いのでは……」

「問題ありません」

 青山はすっと胸ポケットからICカードを取り出す。

「今から一時間休を取ります」

 最初からそうしろよ!

 全員の声なき声もまた、店内に響いた。


 警察が引き上げた「斉田珈琲」はすっかり静まりかえっていた。もう今日は客足は戻らないだろう。図らずも貸し切り状態となった店で青山は優雅にコーヒーを啜る。そんな彼を見ながら、真柴さんは考えていた。

 本当にコーヒーの妖精はいるのだろうか?

 でもいなかったら、五分で解決なんて不可能だ。

 彼女にとって青山はこれまで気心知れた常連であったが、すっかり違って見えるようになってしまった。一方で彼の方はあまりにも普段通りの態度だ。それが腹立たしくつい咎めるように尋ねてしまう。

「本当に仕事は大丈夫なんです?」

「コーヒーを飲まないでフルで働くより、飲んで一時間短く働くなら、僕の場合は後者の方が効率が良いからね。そもそもコーヒーは急かされて飲むものじゃない。

考えてもみたまえ。遠い南の国で採れた豆が海を渡り極東の島国で焙煎され、ビル地下の小さな喫茶店のマスターの手でブレンドされ、一杯のコーヒーとして抽出されるんだ。これは奇跡の一杯なんだよ。大切に味合わずしてどうするんだ」

 などと、もっともらしいことを言う。とはいえコーヒーを味わってもらうのは喫茶店の店員の本望なので、しぶしぶ頷くことにした。

「ふーん。で、そのコーヒーにはどんな妖精さんが宿っているんですか?」

「それは……」

 青山がカップを揺らす。茶色い液体がとぷん、と音を立てた。

「それはもう美しく、気高い女王様だよ」


 青山は揺らめくコーヒーの水面に向けて柔らかく微笑んだ。

 まるでこの世で最も美しいものを目にしているかのように。

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