頭の中の【天使と悪魔】の天使と悪魔

渡貫とゐち

六歳児と天使と悪魔

 お母さんに言われた、「お父さんの分だから、食べたらダメよ」という言葉を思い出し、テーブルの上に置いてあるケーキに伸ばした手を止めた、六歳の少年がいた。


 母親は席をはずしており――、

 彼が、たとえばこのケーキを盗み食いをしたところで、誰にも見られることはない。


 食べてしまった後で、「がまんできなかった……」と伝えれば、きっと母親は怒るだろうけど、食べた結果は元には戻らない。


 美味しいを堪能してしまえば、怒られたことはいくらか自身の中ではマイルドになるのだ。


 かかっているラップフィルムを恐る恐るめくる。見られていないけど、ゆっくりと慎重なのは、盗み食いをする負い目があるからか。


 さっき自分の分を食べている以上、父親の分をゼロにして自分の分を二個にすることが、間違っていることだとは理解しているのだ……、


 だけど仕方がないだろう――だって美味しかったのだから。


 美味しいかどうか分からない中であれば躊躇ったかもしれないが、美味しいことを分かっていると、手は伸びる。

 ――怒られる、というデメリットを許容し、『食べたい』欲望が勝れば手は動くものなのだ。


 ラップフィルムをめくり終え、引き出しからフォークを取り出して、椅子に座る少年。

 白いクリームにフォークを差し込む寸前で、自然と手が止まった……、いいのかな?


 いや、もちろんダメなのだけど、好奇心旺盛な子供の手が届く範囲に、美味しいケーキを置く母親の方にも問題があるのでは?


 しかも、ラップフィルムがかかっているとは言え、簡単に剥がすことができる……、フォークがある引き出しの位置にも手が届く。

 ある程度の高い場所にある引き出しでも、椅子を使って高さを稼げば、彼にだって入手することはできるのだ。


 状況が整い過ぎている。


 これでは『盗み食いをしろ』と言っているようなものだ。


 もしかしたら後ろで母親が見ているかも? とまではさすがに少年は思わなかったらしいが、一度くらいは振り向いて確認してみるべきだったかもしれない――。


 そこに誰かがいるにしろ、いないにしろ、警戒はするべきだ。



『――ダメよ、お母さんに食べたらダメだと言われたでしょう? 君はお父さんが楽しみにしていたケーキを私利私欲で食べて、お父さんを悲しませてもいいと言うの?』


「う、」


 少年の背後に、彼よりは少し背丈が高い、白い羽を持つ金髪の天使が現れた。


 彼女が少年の肩にそっと手を置き、


『食べられなかったならまだしも、君はさっき一個、同じものを食べているんだから、お父さんのために残しておいてあげましょう? お父さんの喜ぶ顔を見るのは、嬉しいでしょう?』


「うん、そうかも……」


『そうかな。このケーキがどこで売られているのか知らないけど、今日までの期間限定商品で、今後、食べる機会がもう残っていなかったらとしたら、どうかな……? 一度味わっただけでは記憶に残りづらい……、このケーキを食べることで記憶に深く刻み込まれるのだとしたら、食べるべきだとアタシは思うけどね……。お父さんの舌に、この甘いケーキが合うとは思えないわ』


 と、天使とは反対側――、日に焼けたような肌の、真っ黒な銀髪の少女が、少年によりかかっている……。黒い小さな羽と、クワガタの顎のような角が特徴的だった。


 悪魔である。


『ちょっとっ、期間限定だって決まったわけじゃないでしょう? 仮にそうだったとしても、同じようなケーキは他にもあると思うの……。もう二度と作れないような商品があると思う? 絵画じゃないのよ。……絵画も、似せて作ることはできるでしょうけど……』


『それは、まあね。「似せて」作ることはできるでしょう。つまり、このケーキの美味しさは二度と味わえないかもしれない……、「かもしれない」って、だけだけどね。

 それに、期間限定でもないのかも。だから別に、この子が目の前のケーキを食べてしまっても、お父さんはまた買い直して食べることもできるわけ。なら、この子がこのケーキをリピートしたって、問題はないわけじゃないの?』


『問題はそこじゃないの。お母さんの言いつけを破って、お父さんのために残していたケーキを勝手に食べてしまうことが、この子の教育に悪いってことで、』


『本当に教育に悪いの? 他人に従っているだけで、本当に社会を生き抜く術を、充分に身に付けられると思う?』


『……それは、』


『人間、制限があった方がルールの隙間を突いて、利益を得ようとするじゃない。そこに知恵が絞り出される。

 その出てきた知恵は、この子の生き方を、今よりも強かに成長させるでしょうね。

 ズルをする、裏でこそこそと暗躍する、人を騙して利益を得る……、正直な人は損をし、自分なりのルールで行動を一貫していた人の方が得をして生き残ることができる……。

 もちろん、法に触れるようなやり方はNGよ? それは前提として』


 悪魔が天使の耳元で囁く。


『ねえ、天使ちゃん。あなたはこの子をどうしたいの?』


『うぅ、わたしは……』




「あなたは天使よ――天使の役目を忘れたの!? その子が正しい道へ進むようにサポートをするのが、あなたの役目のはずよ。

 悪魔が言うことに、あなたが惑わされてどうするの。惑わされるのはその子で、あなたは自分の意見に太い芯を持って、揺らいではダメ――しっかりして、天使!」


「だけど、どうだろうな? 悪魔の言い分も一理あるっちゃあ、あるぜ。

 確かにバカ正直な人間よりも、少し悪い方が社会を生き抜きやすいってのは分かる。指示待ち人間よりも、自分で答えを出して動く方が、もしも一人きりになったとしても、その場でうずくまる以外のことができるからな」


 おっとりとした十代後半の天使と、


 同じく十代後半の引き締まった体のスレンダーな悪魔が、天使の背後に立っていた。


「その子のためを想うなら、あなたは揺れてはダメ。止めてあげなさい」


「その子のためを想うなら、ここはケーキを食わせてやるんだ。痛い目に遭ってもいいじゃねえか。早い内に転ばせて、自分で立ち上がる経験を積ませておくのも必要だぜ。それとも大人になってから初めて転んで、立ち上がれない甘えん坊に育ってもいいって言うのか?」


『わた、わたし、は――』


「悪魔の言い分に耳を傾けてはダメ。あなたは――天使でしょう!?」


「天使か悪魔なんて関係ねえな。おまえの意見が最優先だ。どうしたい――天使?」



『……この子のためを想うなら――』


 ―― ――


「……あら、もーっ。

 ダメだって言ったのに食べちゃったの? しょうがない子ね」


「んー」


「美味しい? 気に入ったのならまた買ってきてあげるわ。……え、お父さんの分? まあ、大切な一人息子がどうしても食べたいって言ったら、譲ってくれる人だから大丈夫よ。

 だけどそれを食べたなら……、分かってるわね? ルールを破った子が、なんの罰もなく美味しいものだけを味わえると思ったらダメなのよ……。そういうことだから、お勉強の時間よ。ちょっと厳しく教えてあげるから、ケーキの分、頑張りなさいね?」


 ……母親と息子のやり取りを、天使と悪魔が上から見下ろしている。


『ま、ルールを守っても破っても、結局のところ指導は全て母親だよねえ……』


『わたしたちがあの子を誘導しても、こっちから出た言葉に重さなんてないわよね――』


『そりゃそうでしょ。結局のところ、こっちはあの子の頭の中にいる空想上の存在だ。実在する母親の、愛情がある言葉に勝てるわけがないんだから』


『……ねえ悪魔。あなたの中の天使は、なんて言ってるの……?』

『ん? 当然ながら、肯定しかしてこないよ』


『そっか、悪魔の中の天使は、完全な悪魔意見だったんだっ!!』



 ―― おわり ――

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