恋降る放課後

おおきたつぐみ

恋降る放課後

 中学二年になって一ヶ月が過ぎた、五月なかばの月曜日の放課後。

 私は担任である国語の教師、牧本先生からひとり居残りを命じられていた。

 五十問のまとめ漢字テストに前週の金曜に続いて不合格だったのは私だけだった。後三十分したら先生がやってきて三回目のテストが始まる。それに合格しなければ……かなりまずい。

 小学校時代から漢字は苦手だ。点とか払いとか止めとか私にはどうでもいい些細なことで、覚えられないのだ。だって将来働く時だってメールも資料もデジタルだし、わざわざ手書きで細かいところまで覚える必要はないはずだ。

 でも牧本先生は、神は細部に宿ると言って少しでも違うと容赦なくバツをつける。先週の金曜に一度目のテスト結果が返された時は、クラスの大半が五十点以下、つまり不合格で、厳しすぎる! とみんなで憤慨したけれど、なんだかんだ言いながらもみんなは週末にちゃんと勉強していて、二度も不合格だったのはなんと私だけだった。なんとかなるだろうと高をくくっていた自分が情けない。


 ふてくされながら漢字練習をしていた私は、ふと雨の匂いを感じて顔を上げた。

 開け放された窓からさあっと風が入り、白いカーテンがふわりと揺れる。

 立ち上がって窓の外を見ると、学校の上空は黒い雨雲がどんどん侵食し、雨が降り始めたところだった。ポツポツと落ちた雨粒がグラウンドの乾いた砂にしみ込み、かすかな土煙と共に雨の匂いを風に乗せていた。雨の勢いは見る間に強くなり、練習していた野球部の部員たちが慌てて後片付けをして校舎へと急いでいる。小さな水たまりは雨粒の波紋を重ねながら、次第に隣の水たまりと繋がって大きなものへと形を変えていた。


 その時、ガラリと戸が開く音がして私はびっくりして振り向いた。

 牧本先生が来たのかと思ったけれど、入り口に立っていたのは稲葉桃佳いなばももかだった。

「桃佳……まだ残っていたの? 忘れ物?」

「うん、図書館にいたんだけどね……傘、忘れちゃったの」

「ああ、雨降ってきたもんね」

由良ゆらは漢字テストだよね。順調?」 

 桃佳は心配そうに私を見た。さっきまで真面目に練習していたのに、よりによって窓の外を眺めていた瞬間を見られてしまったのだ。

 私はさもこのために立ったのだと言い訳するように窓を閉めると、慌てて自分の席に戻ってシャープペンシルを握った。その間に彼女は教室の一番後ろにあるロッカーから折りたたみ傘を手にすると、そのまま帰らずに私の前の席に横向きに座った。

 桃佳は可愛い。肩までの髪はふんわりしたくせっ毛。メイクもしていないのに頬も唇もつやつやしたピンク色。甘い顔立ちの中で、切れ長でちょっと吊り上がった大きな瞳が神秘的に光っている。背はそんなに高くないけれど、すらっとして膝下が長いからモデルみたいだ。入学したその日から彼女の可愛さは学校中で話題になった。一年の時はクラスも別で話したこともなかったけれど、二年になって同じクラスになったら、友だちの絵美が桃佳と同じ小学校出身だったので一緒のグループになった。桃佳は可愛いだけではなく、勉強も運動もできるし優しくて友だち思いの、まさに完璧な子だった。

 グループで一緒にいるのは慣れたけれど、それでもふとした時に見惚れてしまう。最近ますます可愛くなったと思うのは、もはやファン心理なのかも知れない。だから私は桃佳と一対一で向き合うと緊張してうまく話せない。


「ここ、違うよ」

 桃佳が私が書いた「携」という字を指差した。

「<きへん>じゃなくて<てへん>だよ」

 私は恥ずかしさで突っ伏したくなりながら、消しゴムでぐいぐいと消した。

「私、桃佳と違ってバカだから細かいところまで覚えられないんだ」

「由良はバカじゃない、私が知らないいろんなこと知ってるもん」

「いろんなこと?」

「うん、本当に役立つこと。日焼け止めはどのメーカーがいいとか、日焼けした後のスキンケア方法とか、可愛いヘアアレンジとか」

「そ、そう……? そう言われると照れるけれど、四歳上の姉が美容オタクだから受け売りしているだけだよ」

 謙遜してみたけれど、天使みたいな桃佳に褒められて嬉しくないはずはない。思わず頬が緩んでしまう。

「あのね、漢字テスト前に悪いけれど、由良に聞きたいことがあるの」

「えっ、何? もう漢字テストとかどうでもいいんだけど」

 くすくすと桃佳が笑う。はい、可愛い。

「どうでもよくないよ」

「いや、ほぼ復習し終わったから大丈夫大丈夫」

 さっき間違いを指摘されたばかりだけれど。でも練習したのは確かだし、五十点取ればいいのだから、なんとかなるだろう。

 聞きたいことって何だろう。美容系? 夏に向けて髪型変えたいけれどどんなのが似合うかとか? 姉と見た美容サイトで得た情報をフル回転で頭に蘇らせていると、桃佳がとても真剣な表情で話し出した。


「あのね……恋ってどんな気持ちか、教えて欲しいの」

 あまりにも予想外の言葉に、私はぽかんとした。

「恋……?」

「うん。よくみんなが誰が好きとか、恋しちゃったとか言うじゃない? それってどうして恋だとわかるの?」

「えっと……」

 戸惑って口ごもると、由良は両手を握り合わせ、熱っぽく続けた。

「由良って大人っぽくって、みんなが恋バナしてキャーキャー騒いでいても、ひとり落ち着いてアドバイスしたりしているじゃない。もう誰かと付き合ったこと、あるんでしょ?」

 期待に満ちた桃佳の瞳から、私はそっと視線を外した。

 背が高いからか、姉が美容院で買ったシャンプー・トリートメントを無断で使っているからか、姉が機嫌がいい時に眉を整えてくれるからか、私はよく大人っぽいと言われる。でも実際は中二になるのに、初恋もまだだ。だからみんなが恋バナしていても、聞き役になるしかないのだ。

 それに姉は美容オタクであると同時に恋愛体質でもあって、13歳で初彼ができて以来、18歳になる今まで恋人が途切れたことがない。頼みもしないのに恋愛のウキウキも愚痴も私に全部聞かせるから、経験していなくてもなんとなく知っているだけだ。


 そして。誰かを特別に思うことに、すでに私はトラウマがある。

 保育園に通っていた頃、すごく仲良しの女の子がいた。私はその子といつだってふたりきりで遊びたかったけれど、その子は他の子とも遊びたくなり、別の子と遊ぼうとすると私は泣いて怒った。最初はその子も私を慰めてくれたけれど、だんだんと私の強すぎる思いが負担になっていったようで、ある日先生に呼ばれて「お友だちを独り占めするのは良くない、みんなで仲良くすることが大切」と諭された。その子が困って先生に言ったのだろう。恥ずかしくてたまらず、私は結局大好きなその子を避けるようになってしまった。それ以来、誰かに執着しないように気をつけている。みんなで仲良く、それが大切。


 私も誰のことも好きになったことないからわからないよ、そう正直に言おうと思ったけれど、せっかく桃佳が聞いてくれた思いに応えたい。それが友だちってものだ。だから、姉が言っていた恋愛的にいい言葉を頭の中でなんとか思い出す。 

「一緒にいて楽しい相手は友だちだけれど、相手がいない時に思い出して、寂しいとか、会いたいと思うなら、好きだってこと。それが恋の始まり」

「いない時に……」

 桃佳は思い当たるところがあるような表情で頷いた。黒い雨雲に空が覆われているせいで教室は暗いのに、頬はぽっとピンク色に上気して、瞳は星が光るようにきらめいた。

「その目……」

「えっ?」

「それが、恋している目だと思うよ」

「そうなの? 私、恋しているの……?」

 桃佳が両手を頬に当てる。少女マンガの定番みたいな仕草がリアルにこんなに似合う子っているだろうか。

「思い当たる人がいるんじゃないの?」

 言いながら胸がチクリと痛んだ。きっと、嘘をついているからだろう。私は正直に打ち明けようと思った。

「知ったかぶりしちゃったけれど、実は私、初恋もまだなんだよね」

「誰も好きになったことがないの?」

「保育園の時、大好きな友だちを独り占めしたかったけれど、その子には迷惑だったみたいで。また同じことをしてしまいそうで、誰かを好きになるのもちょっと怖いというか……」

「そっか……ごめんね、勝手に決めつけていて。でも、なんかわかるなあ、その気持ち」

 桃佳は立ち上がると窓辺に向かい、雨を降らし続ける空を見上げた。

「好きって、抜け駆けでもあるじゃない。それまでみんなと仲良くしていても、誰かのことを好きになったら、もうその人だけが気になるでしょ? 絵美も彼氏ができてから、放課後も週末もずっと彼と一緒にいて私たちとは遊ばないし」


 桃佳と絵美は小学校時代にとても仲が良かったらしい。だから桃佳は二年生になって絵美と同じクラスになってとても喜んでいたけれど、絵美は春休みから吹奏楽部の先輩と付き合い始めたばかりで、授業が終わるとすっ飛んで行ってしまうのだ。

「友だちより恋人優先が当然なのかも知れないけれど、ちょっと寂しいなとも思った。みんなに恋人ができたら、私はひとりになっちゃうのかな」

 不安そうにうつむいた桃佳を見て、私は思わず立ち上がって隣に行った。

 暗かった空の向こうに晴れ間が見えてきている。雨はもうすぐ止むだろう。

「恋したことがない私がいるから大丈夫だよ。それに桃佳にはもう、気になる人がいるんでしょう?」

 ちらっと私を見た桃佳の頬が再び桃のように染まる。

「別に悪いことじゃないと思うよ、誰かを好きになるって。自分の中に自然に湧き出てくる感情を誰かと分かち合えるなんて、すごく素敵で奇跡的なことだと思う。絵美だって彼氏ができてからめちゃ可愛くなったしさ」

 弾かれたように桃佳が顔を上げた。

「だ……誰にも言えない恋でも、素敵だと思う?」

 まっすぐ私を見つめる桃佳の目が、雨粒を映したかのように潤んで揺れていた。

「誰にも言えない恋? 先生との恋とか?」

 色々な先生の顔を思い浮かべたけれど、うちの学校の教師は年齢層が高く、若い先生でも四十代のかなりお腹が出た体型だったりするから、とても桃佳が惚れるような人はいないように思えた。

「ううん、私は違うけれど……」

「それじゃ、もう恋人がいる人を好きになったとか?」

 桃佳は無言で首を振る。言いたくないのだろう。

「ごめん。問い詰めるところじゃないよね。でも、どんな恋だって素敵だと思うよ。その人が好き、だから自分もその人にふさわしくなりたい、その人に振り向いてもらいたいって気持ちで自分を磨いたりするじゃない。美容頑張ったりとかさ。うちの姉がまさにそうだけれど」

「うん……わかる。私も最近、パックしたりしているし」

「ああ、それで肌がつやっつやなんだ。可愛い上に努力もしているなんて、いいなあ、桃佳に好かれる人は。きっと桃佳の恋はうまくいくと思うよ」

 心からそう思った。きっと近いうちに、私は桃佳が桃佳の好きな人と笑顔で学校から帰るのを見送ることになるだろう。もうこんなふうにふたりきりで放課後に話すことはないかも知れない。

 ズキン、

 ああ、また。なんで胸が痛くなるんだろう。


「――女の子どうしでも?」

「え?」

「女の子どうしでも、うまくいくと思う?」

 桃佳が私を見ている。喉が一瞬で渇く。女の子……桃佳は女の子を好きなの?

 私はその相手の女の子に瞬間的に嫉妬していた。私と同じ女の子。なぜ自分ではなくて、その子なんだろう。桃佳はその子の、どこがいいんだろう。

 でもそんな嫉妬、私がする権利はない。

<自然と湧き出てくる感情を誰かと分かち合えるなんてすごく素敵で奇跡的なこと>

 さっき、自分で言ったばかりのその言葉を頭の中で響かせる。

 恋なんて、しようとしてできるものじゃない。桃佳は自然にその子を好きだという感情が湧き出てきたんだ。そしてその子は桃佳に好かれるような、何かがあったのだ。

 それに比べて、私はただの平凡な、可愛くもなければ恋もしたことがない女子中学生。

「……女の子どうしだって、うまくいくと思う。桃佳に好かれたら、誰だって嬉しくなるよ」

 桃佳が好きなのは誰なんだろう。絵美? 菜々子? 若葉? どうしても出てくる嫉妬や敗北感に打ちのめされそうになる。

「……由良なんだ」

「え?」

「私が好きなのって、由良なんだ。さっきわかった」

「……わ、私?」

 うん、と強く頷く桃佳。心臓が大きく跳ねた後、すごい速さで鳴った。

「由良と一緒にいる時はすごく楽しくてドキドキするし、いないとみんなと話していても、由良ならなんて言うかなあなんてつい考える。パックするのも由良がスキンケアは大事って言ったから。夜眠る前に由良はもう寝たかなって思うし、週末に家族と買い物に出かけても、もしかして由良にすれ違うかもって探したりする。一緒にいてもいなくても由良のこといつも考えている。この気持ちが恋なんだ。私は由良が、好き」

 真っ赤になって早口で言う桃佳。繰り返すまばたきのたびに星のかけらが生まれるようにきらきらしている。

 雨のように桃佳の言葉が私に染みこんでいく。誰にも渡したくない――そう思った。


「同じグループの中で由良が好き、なんてやっぱりダメかな……」

 桃佳が目を伏せると、まつげが不安そうに頬に影を落とした。

 その不安を今すぐ払いのけたかった。

「誰にも言わなければいいよ。私も桃佳が好き」

「ほんと……?」

「桃佳が誰かと一緒にいるのを想像したら胸が痛くなった。女の子が好きなら、どうして私じゃないんだろうって思った。好きって言われてわかったの、桃佳を誰にも渡したくないって。それが私にとって好きってことだって」

 桃佳が星の海のようにきらめく瞳で私を見つめるから、吸い込まれそうになる。

「私、桃佳を独占したくなっちゃってる」

「由良に独占されたいよ」

 手足の指先まで、髪の毛の一本一本まで、桃佳からこぼれる星のかけらに満たされていく。こんなに可愛い桃佳が私を好きだなんて。両想いだなんて。桃佳の大きな瞳に私が映っている。私の瞳にも桃佳が映っているのかな。とんでもなく甘く幸せなのに、内側からチリチリと痺れるようで、いてもたってもいられない。

 ――これが恋。


 その時、ガラリという音と共に戸が開いて、牧本先生が入ってきた。

「鈴本、ちゃんと勉強したか~? お、稲葉じゃないか」

 私ははーいと返事しながら慌てて席に着いた。背後で桃佳が「傘を忘れたんです」と言っている。

「ちょうど雨が止んだぞ」

 先生が窓の外を指差す。雲の切れ間から、太陽の光がちらちらと見えた。

「ほんとだ。やっぱり傘、置いていこう」

 折りたたみ傘をロッカーにしまうと、由良は私の席の横で立ち止まった。

「テスト頑張って。玄関で待ってるね」

 また心臓が跳ねる。通り過ぎていく桃佳の耳が赤い。

「なんだ、稲葉を待たせるのか。じゃあ一発合格しないとな」

「もちろんですよ」

 強気で言うと、振り向いた桃佳がはにかみながら私に手を振った。


 誰にも言えない恋が、始まる。

                  <終>

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