5-12 最後のチャンス

「千春ちゃんはそれでいいの?」


 トキアが千春を見つめた。感情の乗らない声と表情に、千春の身がすくむ。記憶を見る前は絶対にクティと共に生きると決めていたのに、今は何が正解なのか分からない。

 こんな中途半端で、すぐ嫌なことから逃げ出したくなるような自分、クティが好いてくれるとは思えない。

 親を殺しておいて、全て忘れて、のうのうと生きていた薄情な子に好かれたって、クティが喜ぶはずがない。

 忘れると言うべきだ。今度こそクティとの接点をなくすべきだ。そう分かっているのに、言葉が喉につっかえて出てこない。


 何も言わない千春にしびれを切らしたのか、クティがゆっくり近づいてきた。メモリアがクティに道を開けるように千春から距離をとる。ニムとトキアの視線が突き刺さる。

 それでも千春は顔を上げられず、スカートを握りしめ、唇を噛みしめた。自分が悪いのに、涙がこぼれそうになる。泣いたらクティが困った顔をするのを知っているのに。


「千春」


 優しい声がして、頭に温かい手の感触がした。恐る恐る顔を上げると、クティと目が合う。人とは違う、独特の光彩を放つ、綺麗な瞳。千春と目線を合わせてしゃがんでくれているから、表情がよく見える。


「病気も治って、学校に通えるようになったし、会いたがってた両親にも会えただろ?」


 クティの問いかけに千春は頷いた。

 普通の子供のように学校に通いたいといってクティを困らせたことがある。いなくなった両親を探しに行こうとして、クティに止められたこともあった。思えば、クティは千春が両親を殺してしまったこと。それを忘れていることも知っていたのだろう。

 今、両親は生きている。家に帰ったら家族三人、食卓を並んでご飯を食べられる。昨日まで当たり前だった日常が、どれだけ貴重なことなのか千春は知っている。


「友達だって出来ただろ。学校帰りに買い食いしたり、休日一緒に遊びに行きたいって言ってたのも、叶ったじゃねえか」


 千波と瀬川の顔が頭に浮かぶ。三人で帰った帰り道や、出かけた商店街のイベント。二人と話すようになって学校はさらに楽しくなった。


「ご飯だっていっぱい食べられる。もっと大きくなれる。友達と一緒に生きられる。千春にとって良い事ばかりだろ?」


 クティはそういって柔らかく笑うと、千春の頭を優しくなでてくれる。その表情、声、手つきがあまりにも優しくて千春は泣きそうになった。


「大丈夫。千春は幸せになれる。お前が不幸になる分岐は、全部俺が食べてやる。お前が死ぬまで、見守るから、安心して幸せになれ」


 クティはスカートを握りしめていた千春の手にそっと触れた。優しい手つきで、スカートに張り付いていた千春の指をゆっくり剥がして、両手で握りしめた。それは祈りであり、誓いだった。


「俺はもう、お前の前には現れない。でも、死に際に一度だけ会いに行かせてくれ。その時、俺に名前をつけてくれ」

「……急に来られても、私、いい名前……つけられません」


 気を抜くとこぼれ落ちそうになる涙を堪えているせいで、声は不格好で、途切れ途切れだった。ひどい顔をしていると思うのに、クティは相変わらず穏やかに笑っている。その笑顔に胸が苦しくなった。


「なんでもいい。お前がつけてくれるなら。ポチでもタマでも」

「そこまで、センス、悪くないです」


 ついにこぼれ落ちてきた涙を拭いたいのに、クティが両手を握りしめているので拭えない。涙が頬をつたう。ぽたりと落ちた雫が、クティの手の上に落ちた。クティは嬉しそうに笑うと千春の頭をなでる。

 これでお別れなんだと分かった。


「メモリア、千春の記憶消してくれ」

「クティさん、本当にいいの?」


 メモリアの声は震えている。千春は顔を上げられず、ボロボロとこぼれる涙が地面にシミを作るのを眺めていた。こんなに悲しいのに、こんなに悲しかったことすら忘れてしまうのだろう。


「いいも何も、俺たちが出会ったのが間違いだったんだよ」


 そんなことはない。そう言いたいのに言葉が出ない。もしかしたら、間違いだったんじゃないか。出会わない方が良かったんじゃないか。そんな不安が胸を支配する。自分の存在はクティを苦しませるだけで、これで最後にした方がクティは幸せになれるのではないか。

 これが正しい選択なのだと冷静な千春はいうのに、嫌だと、心の奥底で本心が叫んでいる。だけど、またクティを苦しませるのはもっと嫌だ。


「せっかちな男は嫌われるよ。千春ちゃんボロボロだし、ちょっと待ってあげなよ」


 そういいながらトキアがハンカチを持って近づいてきた。クティは一瞬嫌そうな顔をしたが、トキアがいうことももっともだと思ったのか、そっと千春の手を離す。トキアが追い払うように手を動かすと、渋々といった様子でニムの方へと歩いて行った。


 行かないでと言いたいのに、出てくるのは嗚咽だけ。言葉にならなかった。そうこうしている間にクティは行ってしまい、代わりにメモリアがやってくる。

 トキアが優しい手つきで千春の涙を拭ってくれた。さっきはあんなに怖かったのが嘘みたいだ。


「さて、千春ちゃん。本当に、これが最後のチャンスだよ」


 トキアが千春の涙を拭いながら小声で囁いた。驚きで目を見張ると、唇に人差し指を立て、意味ありげにクティを見る。チラリと見たクティはニムと話していて、トキアと千春の様子に気づいていない。状況を理解したメモリアが、千春をクティから隠す位置に移動して身を寄せた。


「クティはあの通り頑固者だからさ、君がいくら言っても聞かないと思う。だから君は証明しないといけない。自分の一番の望みはクティと共にいることで、それが一番の幸せだって」

「でも……クティさんは私と一緒にいたくないんじゃ……」

「バカね。あのクティさんがこれだけ手間かけてんのよ。苦手なトキア様の領域に乗り込んできて、噛みつくまでやってのけたんだから。あんたのことが大切なのは間違いない」


 メモリアは小声で叱るという器用な真似をしながら、千春の胸を人差し指でつく。前にやられたときよりもずいぶん強く、千春は後ろに倒れそうになったが、なんとか踏みとどまった。


「クティさんは失うことにも、諦めることにも慣れすぎてる。だから、あなたが諦めちゃダメ。絶対に諦めないって、あなたが証明しなきゃダメ。じゃなきゃ、あなたの記憶を消さずに残した私が報われない」


 メモリアは千春の手をぎゅっと握りしめた。クティとは違う、細くて小さい、女の人の手だ。だけど、とても力強く感じる。そして既視感がある。

 こちらを睨み付けるように見つめてくるメモリアを見て、千春は思い出した。そうだ。前の時も、最後の最後、メモリアは千春に言ったのだ。


『一番大事な記憶は残してあげる。だから、思い出しなさい。恋する女は強いって、あの朴念仁に証明してあげなさい』


 前と今、メモリアの言葉が重なった。トキアに拭ってもらった涙がまたあふれそうになる。不幸じゃなかった。前も今も、沢山の人に助けられている。両親を殺して、忘れてしまうような酷い人間なのに、クティも変食さんたちも千春を幻滅したりしなかった。

 泣くのを必死に堪える千春の頭をトキアがポンポンとなでる。クティに比べると子供をあやすような軽い動作だ。その手つきの差が、クティが千春を大事にしているのだと伝えてくれる。


「僕の言霊は強いから、すごく効果があるけど、強すぎて呪いになりえる。魂に刻みつけるから、忘れたって無意味だよ。僕のいった言葉に君は死ぬまで縛り付けられる。それでもいい?」


 千春は大きく頷いた。決意を鈍らせないために、睨み付けるようにトキアを見つめる。トキアはそんな千春の視線を受けて、満足そうに微笑んだ。


「千春、また会おうね」


 トキアとメモリアが千春の体を抱きしめた。これが最後なのだと分かる。瞼が急に重たくなって、意識が遠のいていく。大事な何かが体から抜けていく感覚がした。


 一目みたいと、閉じそうになる瞼に抗って、クティを探した。クティは千春を見つめている。その表情は置いていかれる子どものようだった。


 千春は置いていかれて寂しかった。仲よくなった人がどんどん自分を追い越して死んでいく。それは寂しいことだった。生まれつき人でなかったとしても、クティだって寂しかったはずだ。

 それに気づいた千春は望んだ。もう、クティを一人にしない。置いていかない。絶対、二人で幸せになる。そのために自分はもっと強くなりたい。


 そんな決意を最後に、千春の意識はプツンと切れた。

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