5-11 後悔

 頬を涙が伝う感触で千春の意識は引き戻された。いつのまにか過去の自分と同調していたらしく、先ほど見た記憶が生々しく頭に思い起こされる。

 あの後、千春は食事が出来なくなった。食べようとすると倒れた女性と両親の姿を思い出し、拒絶反応で吐いてしまうようになった。生き物は食べなければ生きられない。元々大食いの千春には飴では足りなかった。少しずつ弱っていく千春を見かねたクティたちは、千春をクティの能力で戻すことを決めた。もう一度同じ事を繰り返さないようにメモリアに頼んで記憶を消し、千春が外レる要因を徹底的に排除して。


「思い出した?」


 少年と少女の中間、性別を感じさせない声が響く。顔を上げればそこにはトキアとニムの姿があった。ドアを開ける前と変わらず、二人は優雅にティーカップを傾けている。


「千春ちゃんはね、最後まで抵抗してた。自分は立ち直れるから。そのうち元気になるからって。そう言いながらどんどん痩せ細っていった。クティたちはね、そんな君を見ていられなくなったんだ。君が死んでしまうのを恐れたんだ。一度外レた存在は、生まれ変わることも出来ないから」


 トキアはそういうとティーカップをテーブルの上に置いた。ニムは無言で千春を見つめている。思い出した千春を哀れむようでもあり、思い出したことを喜んでいるようにも見えた。


「千春ちゃんは、忘れたくないと強く願った。もう一度クティに会いたいってね。僕にはクティの野郎を好きになる理由がわかんないけどさ、僕は願うものの味方だから、できる限りのことはした」

「だから私の記憶は完全に消えなかった」


 トキアは頷いて、千春の隣に立っているメモリアを見つめた。申し訳ないことにメモリアの存在を忘れていた。千春は慌ててメモリアの表情を見る。その顔は、痛々しいほどに歪んでいた。


「今気づいたんだけど、メモリア、君も細工したんじゃない? 千春ちゃんの一番深い場所にある記憶は消さなかった。何かの切っ掛けがあれば、千春ちゃんが思い出せるように」

「……たぶん、そう。覚えてないけど、私ならやりそう」


 トキアの問いにメモリアはそう答えながら前髪をかきあげた。その表情には余裕がない。トキアの前だというのに素で話しているのを見ても、動揺しているのだと分かった。


「寿命……寿命か……それはきついよ。元々人間だったなら尚更」


 メモリアは自分のことのように苦しそうにそう言って、深く息を吐き出した。

 千春は自分が何を食べるのか語ったときの愛子を思い出し、目を伏せる。愛子は千春も自分と近いものを食べるだろうと予想していたが、それは悲しくも当たってしまった。愛子が病気にならない人間の幸福をほしがったように、千春は生き続ける人間の寿命をほしがった。

 なんとも卑しい人間だろう。自分自身が嫌になる。そんな身でクティの隣に居続けようとした傲慢さに、あまつさえ、名前を与えて幸せになろうとした身勝手さに。


「その様子だと、思い出したことを後悔してる?」


 下を向くのは許さないとばかりにトキアの声が響く。無理矢理ひっぱり上げられるように千春の顔は動き、気づけばトキアと目を合わせていた。深海を思わせる深い青色は千春を断罪しようとしてるようで、ただ恐ろしい。記憶を思い出す前はあんなにも頼もしく思えたのに。


「なんか興ざめだな。クティも報われないね。君が人として生きられるように必死に立ち回って、せっかく幸せな舞台を用意したのに。君は舞台から飛び降りた。そのくせ、舞台の下は辛いからまた舞台に戻りたいっていう」


 トキアはため息交じりにそういうと、ティーカップに入ったスプーンをクルクル回す。つまらなそうな顔は、千春に対する興味や親愛を失ってしまったようで、千春は体を縮こまらせた。


「君のクティへの思いって、そんなもんだったんだね」


 その一言が胸に突き刺さる。軽い気持ちじゃないつもりでいた。どんな結果が待っていようと立ち向かうつもりだった。けれど、自分では足りていると思った決意は思ったよりも薄っぺらくて、軽かったのだと突きつけられた。


 千春は拳を握りしめる。違うって叫びたいのに声が出ない。そんなものだったのかもしれないと、もう諦めてもいいんじゃないかと心の中の千春がいう。だって、苦しんだ。頑張った。それに何より、身勝手な自分がクティの隣に立って良いという自信が持てない。人の命を踏みにじってまで、隣に立ちたいという度胸がない。


 それなのに、クティを諦めるという選択をするのも嫌だった。今、諦めたら本当に最後。もう一生会えないというのが分かっているから、みっともなく言い訳を探してしまう。

 どうすればいいのか、千春にはもう分からない。


「なにがそんなもんだ。勝手にかき回しておいて! ほんっと碌なことしねぇな」


 聞いたことのない怒気を含んだ低い声。それでもその声が誰のものなのか、千春にはすぐ分かった。諦めた方がいいと思っていたのに、千春はその声に反応してしまう。姿が見たいと体ごと、声の方へ動いてしまう。


 そこには思い出した記憶を含めても、見たことがないほど怒ったクティがいた。隣にいるメモリアが「ひぃっ」と短い悲鳴を上げ、ニムが驚いた様子を見せる。しかし、怒気を真っ正面から食らったトキアは余裕。それどころか面白そうに目を細めて、クティを見つめた。


「どうやって、ここまで来たの?」

「強い願いがあれば、誰だってここに来られる」

「健気だねえ。君が必死に護ろうとしている千春ちゃんは、過去を思い出して後悔してるのに」


 違うと言いたかったのに声が出なかった。絶望的な気持ちでクティを見つめると、クティは一瞬だけ千春に視線を向けただけで、すぐにトキアと向き直る。


「当たり前だろ。あんな記憶、誰が思い出したいと思うか。だから忘れさせたのに、わざわざ思い出させやがって」

「君、僕のこと怖がってたのに、千春ちゃんが絡むと強気だねえ。愛する人が出来ただけで、ずいぶんな変わりよう」

「兄を救いたいって気持ちだけで、外レるどころか神にまで登りつめた粘着質野郎がそれをいうか。お前が誰よりも知ってるだろ。誰かを思う気持ちは人を、いや、俺たちみたいな化物だって変える」


 面白そうにクティを見つめていたトキアの表情が変わる。笑みが消えると、整いすぎた顔立ちは人間味がなく恐ろしい。上から押しつぶすような威圧感に千春の身は縮み、メモリアが後ずさった。しかしクティはトキアを睨み付ける。


「トキア様なら、よく分かるでしょう。人間が外レる苦しみが。苦しみながら生き続けるつらさが。あなたは誰よりも味わってきたはずだ」

「僕にどうしろって? 神みたいな扱いされたところで、知っての通り神も万能じゃない。僕らは皆ルールに縛られてる。出来ないことの方が多い」


 トキアは肩をすくめた。トキアの言っていることは嘘ではないのだろう。全て思いのままのように振る舞えているのは、ここが夢の世界だからだ。現実では自由には振るまえない。だからこそトキアは夢の中にいる。


「貴方の言霊の効果は強い。千春がもう思い出さないように、縛ってほしい」

「クティさん!」


 メモリアが悲痛な声を上げた。千春は何も言えない。

 一瞬でも思い出さなければ良かったと思ってしまった。辛い記憶よりも幸せな記憶の方が多かったのに、全てを忘れたいと思ってしまった。その気持ちが千春の口を重くする。千春を可愛がってくれた彼らを裏切ってしまった罪悪感で、どうしたらいいか分からない。

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