5-10 忘れたかった記憶
「俺に名前をつけて欲しい」
そうクティに言われたとき、千春の心は歓喜に包まれた。外レ者にとって名前をつけてくれという言葉はプロポーズと同じだ。
クティがそんな冗談を言うとは思えなかったし、照れくさそうに視線をそらしながら、赤い顔で言われたのが良かった。演技であればクティはもっとスマートだ。人間相手には可愛い系ではなく、ミステリアス系で対応していることを知っている。子供っぽい顔を見せるのは、身内だけ。
出会いからずいぶん長い月日が過ぎた。千春と同年代の人間は死んでいる者も多い。それほど長い年月だ。
つい最近、参加した葬式のことを思い出し、浮かれていた千春の心は沈んだ。自分は生きているのに、千春の想い人は生きているのに、アモルの想い人は死んだ。それを思い出したら、胸がチクチクと痛む。
自分が幸せになっていいのだろうか、生きていていいのだろうか。
浮かんだ暗い感情を、千春は両頬を自分の手で叩くことで振り払う。思ったよりもよい音がして、周囲の視線が集まった。千春は目があった人に軽く頭を下げて、へらりと笑う。眼鏡を掛けた女性は不思議そうな顔をしながら、会釈を返してくれた。
千春は棚から持ってきた宝石や花の辞典に向き直る。クティに名前をつけるのだ。適当につけるわけにはいかないと、千春は図書館までやってきた。棚から名付けに使えそうな本を片っ端から引っ張り出して、テーブルの上に積み上げ、メモをとるためのノートまで持参した。
メモリアが見たら「マジすぎてうける」と笑いそうだ。アモルだったら「ラブですネ」と笑ってくれるだろうか。
そこまで思って、未だ塞ぎ込んだままのアモルの姿を思い出す。アモルは恋が死んでから、部屋に引きこもりがちだ。時間が解決してくれるのを待つしかないと愛子は言っていた。アモルが乗り越えるべき問題で、見守ることしか出来ないのだと。
愛子のいうことはもっともだ。いくら千春が隣にいたって恋の代わりにはなれない。アモルになんて声をかけたらいいかも分からない。だって千春の好きな人は、クティは隣にいるのだ。
チクチクと、罪悪感が胸を支配する。考えたらドツボにはまると分かっているのに、気づけば考えてしまう。
こんなんじゃ良い考えが思い浮かぶはずもない。一旦本を片付けて、隣接されたカフェでお茶でもしよう。そう思った千春はぐっと背伸びをして、ノートを閉じ、本を片手に立ち上がった。
持ってきた本を棚に戻しながら、お腹がすいたと思う。これは人間としての食欲ではなく外レ者としての食欲だ。外レたばかりの頃は二つが混ざって、どちらを食べたらいいのか分からなかったが、あれからずいぶん成長した。あと十年も生きれば、千春の年齢は百を超える。
人ではなくなってしまった。そう自覚したらまた胸が締め付けられた。今の生活に不満はないのに。いや、今の生活に不満がないからこそ辛くなる。
こんな気持ちになるのはお腹がすいてるからだ。最近、アモルのことが心配でろくに食べていなかった。クティはことあるごとに「食べられない奴は死ぬだけだ」と言っていた。外レ者は限られたものしか食べられないから、食べられる時に食べられるだけ食べなければいけないと。
本棚の間を歩いていると、先ほど会釈してくれた女性が前から歩いてきた。その手には何冊かの本が抱えられている。ふんわりと美味しそうな匂いが鼻腔をくすぐる。美味しそうと思う人間を食べた方が外レ者は強くなる。そうクティに教わった。
空腹のお腹がきゅぅと鳴く。美味しそうな匂いが近づいてきて、自然と口の中に唾液がたまる。
ご飯を食べるときは慎重に。少しずつ。気づかれない程度にほんの少しだけ。そうクティに教わったが、今日はいつもより、少しだけ多めに貰ってもいいのではないかと千春は思った。あまりにも美味しそうな匂いだから、少しだけが勿体なく思えたのだ。
いつもよりほんのちょっとだけ。貰いすぎなければ大丈夫。そう千春は念じながら、女性の隣を通り過ぎる時、偶然を装って本を抱えた肘を女性の体にぶつけた。いつもよりも少しだけ、多めに貰う。
女性は千春と体がぶつかったことに気づくとこちらを見て、口を開いた。すみませんと謝ろうとしたのかもしれない。しかし、その前に、女性の体は崩れ落ちた。
女性が持っていた本が落ち、鈍い音と紙がこすれる音がする。続いてドサリと人の倒れる音がして、女性の体が本棚にぶつかったことで、いくつかの本が本棚から抜け落ちた。思ったよりも大きな音に、周囲にざわめきが広がる。「なんだ?」という声と共に、誰かが千春と女性のいる通路をのぞき込んで、悲鳴をあげた。
「だ、誰か! 人が倒れてる!」
誰かが叫ぶ。誰かが駆け寄ってきて、倒れる女性の体を揺すった。それでも女性は目覚めず、青白い顔は死んでいるようで……いや、死んでいるのだと千春には分かった。
だって先ほど、千春は食べた。千春の食べ物。
寿命を。
「あなた、何があったんだ!?」
駆け寄ってきた男性が千春に問いかける。その頭上に数字が見えた。男性の頭の上には五十二という数字。倒れる女性の上には零。その数字が残りの寿命を意味するものだと、千春は理解できてしまった。
「えっ……あっ……」
言葉にならない声を発しながら、千春はその場に座り込む。手から持っていた本が滑り落ちた。名付け辞典と書かれたそれが場違い過ぎて、千春は笑い出したくなる。
遠い昔、目の前で倒れる女性と同じ姿を見たことがある。両親だ。千春が外レて人間ではなくなったから、自分を置いてどこかにいってしまった。そうずっと思い込んでいた両親だ。
違う。
そう気づいて、思い出してしまって、千春は自分の頭を抱えた。男性が困惑した様子で千春に声をかけるが、なんと言っているのか聞き取れない。頭の中ではあの日、あの時、空腹のあまり両親に手を伸ばし、根こそぎ寿命を食べ尽くした時の映像が流れている。今まで忘れていた。自分がやってしまったことに気づきたくなくて、なかったことにしたくて忘れていた。自分が悪いのに、両親が自分を捨てたのだと嘘の記憶まで作り上げて。
「クティさん……」
幼い頃、駅でクティに教わったことを思い出す。クティは千春の目をのぞき込んで、真剣な顔で言ったのだ。
『本当に少しだぞ。お前は大食いだから物足りなく感じるだろうが、お前が満足するぐらい食べると、相手は』
「死ぬ……」
その呟きを最後に、千春の意識は遠のいた。男性の声が遠のく。脳裏に浮かんだクティの姿に千春は心の中で呟いた。
私は、貴方と共に生きるのにふさわしくない。
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