5-9 不安

 ソファの真ん中に座っているのはアモルで、アモルを挟む形で千春と愛子が座っていた。愛子はアモルの体を抱き寄せて頭を、過去の千春は震えるアモルの背をゆっくりとなでている。そんな三人をマーゴは気遣わしげに、クティは両腕を組んで不機嫌そうに見つめていた。

 誰かの葬式の後だ。そう千春は直感的に理解した。過去の千春の横顔からは丸みが消え、成人した大人の女性へ成長していた。駅前でアイスを食べていた時から、ずいぶん時間がたったことがうかがえた。


「恋くん……」


 アモルが涙で濡れた声で呟いた。その一言で、誰の葬式が行われたのか分かってしまった。ついこの間、家にお邪魔した愛澤の姿が頭に浮かんで、千春は胸をぎゅっと握りしめる。


『アモルちゃん、そんなに人間に興味ないよ』

 そう、自分に言い聞かせるように、苦しそうに笑った愛澤を思い出す。


「興味……ありましたよ」


 聞こえないと分かっていながら、千春はスカートの裾を握りしめて呟いた。隣のメモリアはチラリと千春を見たが、何も言わなかった。愛澤と千春が知り合いであることを、マーゴから聞いていたのかもしれない。


「アモル、めそめそすんな。分かってたことだろ」


 いつまでたっても泣き止まないアモルにしびれを切らしたらしく、クティは不機嫌そうにそう言った。愛子が非難の目をクティに向けるが、クティは一切ひるまなかった。過去の千春はどうしたらいいか分からないという顔で、クティと愛子を見比べ、最後に泣き続けるアモルに視線を戻す。


「俺たちと人間じゃ、生きる時間が違う。ずっと言ってきただろ。関わり過ぎると辛いのはお前だって」


 クティの声は苦かった。感情を押し殺したような声に、隣に立っていたマーゴが視線を落とす。愛子もクティの言いたいことが分かったのか、クティを睨むのをやめてアモルの頭をゆっくりとなでた。

 しばし、部屋の中にアモルの嗚咽だけが響く。誰も、何も言わなかった。千春とメモリアも言葉を発する気になれず、部屋の中には重たい沈黙が広がっていく。


「あ……もる、わか……って、まシタ」


 静かな部屋の中に、アモルの嗚咽混じりの声が響いた。かすれて聞き取りにくい声なのに、胸に刺さるような悲痛さがあった。泣きすぎて、上手くしゃべれないのに、それでも何かを伝えたいと必死なアモルの気持ちが、短い言葉に乗っていた。


「い、つ……か、恋くん、しんじゃ……うって、わか……って、……まシタ。でも……っ!」


 アモルは勢いよく顔を上げるとクティを睨み付ける。アモルが本気で怒ったところなど見たことがなかった。千春だけでなく周囲も驚いたようで、クティですら目を見開いて、アモルを凝視した。


「わかって、ても! 一緒に、いたっ……かったん、デス! あ、もる! 恋くん、好き、でシタ! 大好き……だった、のに!」


 そこまで言うのが限界だったのだろう。アモルの瞳からボロボロと涙がこぼれて、感情が決壊したようにワンワンと声をあげて泣き始めた。慰めようと手を伸ばした愛子に抱きついて、アモルは「恋くん、恋くん」と言いながら泣き続ける。

 メモリアが辛そうに目をそらす。千春は自分も泣きそうになるのを必死に堪えて、スカートの裾を握りしめていた。


 この世界で何が起こったのか、千春の記憶はおぼろげだ。今の世界ほど恋とは、関わりが深くなかったような気がする。それでも、楽しそうに恋の話をするアモルは見てきたのだ。

 過去の千春が唇を噛みしめるのが見えた。マーゴは痛ましげに顔を伏せ、クティは何かを耐えるように宙をにらみつけていた。


「人の一生は短い」

 黙っていたメモリアが呟く。


「あなたたち人間はあっさり死ぬ。これだけ世界中にいて、世界は自分たちのものみたいな顔してるくせに、気づいたら死んでるの。笑えるよねぇ」

 メモリアは口の端をあげ、笑みを作ろうとしたのだろうが、上手く笑えていなかった。


「私は人が嫌い。私のことほだしておいて、あっさり置いてくとこが嫌い。そのくせ、人の記憶ってすごく美味しいの。嬉しいも、悲しいも、楽しいも、みんなとっても美味しい。だから忘れられなくて近づいて、今度はほだされないぞって思うのに、またほだされて、置いてかれて。その繰り返し。だから私は人が嫌い」


 メモリアはそういって笑った。悲しそうなその笑みは、言葉とは裏腹に大好きだと言っているようだった。だからこそ絶対に、好きだとは認めないのだろう。好きなものに何度も、何度も置いて行かれるのは辛いから。あんな奴ら嫌いだと呟いて、泣きそうな気持ちに蓋をする。そうしてメモリアは生きてきたのだ。


 では、クティは?

 そんな疑問が浮かんで千春はクティを見つめた。クティは相変わらずメモリアから視線をそらして、宙をにらみつけている。その顔から感情を読み取るのは難しく、自分に感情を読む力があればいいのにと千春は思った。


 ふいに、過去の自分はどう思っているのだろうと視線を向ければ、過去の千春はじっとクティを見つめていた。その姿は内側に隠した内心を探り出そうとしているようで、客観的に見ると少し怖い。

 自分はクティをこんな目で見ているのかと若干引いていると、過去の自分の感情が流れ込んできた。いや、思い出したというべきだろう。


 このとき、千春は不安を覚えたのだ。お互いを思い合っていながら、一緒には生きられなかった愛澤とアモルを見て、自分とクティもこうなるのではないかと。

 当時の千春は普通の人間であったら老衰するくらいの年月を生きていた。何も考えなかった無邪気な子供時代は、とっくに通り越していた。生まれつき外レているクティたち、人間から変化した自分の感覚が違うことにも気がついていた。


「クティさん……」


 過去の千春が消え入りそうな声で呟く。

 いつまでも自分を子供扱いするクティに、大人になったのだと主張したくて、いつの頃からか大人っぽく喋るようになった。服装だって落ち着いた色合いを選び、大人の女性が似合うようなシルエットの服を着るようになった。

 それでも、クティとの溝は埋まらない。大人になった分、深い溝がよく見えるようになって、あまりの深さに足がすくみそうになっていた。


 小さな過去の千春の呟きに、宙を睨んでいたクティが気付き、千春に視線を合わせる。千春と目があったクティは緩く微笑んだ。「どうした?」と声に出さずに問いかけてくる優しい笑みに、千春の胸はいっぱいになる。

 許されてると思う。特別だと思う。クティが優しい顔で笑いかけるのは自分だけだと千春は知っていた。優越感を抱いていた。

 それでも、溝は埋まらない。


「……何でもないです」


 怪訝そうな顔をするクティから過去の千春は目をそらした。愛子に抱きついて泣き続けるアモルを見つめる。このアモルの姿が、未来の自分の姿に思えて仕方がなかった。


「……なんで、不安になっちゃったの」


 メモリアからの問いかけて、過去の自分と同調していた意識が引き戻される。急に地に足がついたような感覚に千春は目を見張り、意識を明確にするために頭を左右に振った。


「あんなに愛されてるのに、なんであんたは不安になっちゃったの」


 記憶を読める能力のためか、女の勘か。メモリアは千春の気持ちを理解したらしく、かすかに眉を寄せて問いかけてきた。千春は思い出した記憶を、頭の中で整理しながら考える。


「……幸せすぎたのかもしれません。愛澤先輩が死ぬまで、人間は死ぬんだって当たり前のことを忘れてました。愛澤先輩が、会うたびに衰えていくのを見ていたのに」


 目をそらしていたのだ。いつかやってくる別れから。それによって突きつけられる、自分が人間ではなくなってしまったという事実から。


「私は人ではなくなってしまったから、その気になれば、ずっとクティさんと一緒にいられる。愛澤先輩とアモルさんみたいな悲しい別れはやってこない。それが分かっていたのに……いや、分かっていたから、罪悪感を覚えたんです」

「罪悪感?」


 メモリアは眉をよせながら千春を見つめた。千春も自分の口からこぼれた言葉に驚いた。

 罪悪感。たしかに感じていた。しかし、なぜ自分がそこまでクティと一緒にいることに罪悪感を覚えたのかが分からない。まだ、全ての記憶を思い出していないからだ。最も重要な、千春が一番忘れたかった記憶を。


「……私が何を食べるのか分かったら、理由も分かると思います」

 

 千春の言葉にメモリアは眉をつり上げ、唇をきゅっと引き結んだ。自分のことじゃないというのに、メモリアの真剣な様子に、千春は少しだけ救われた気持ちになる。

 たった一人で、記憶の世界を彷徨うことにならなくて良かった。そう千春が思っていると、また景色がぐにゃりと変わる。なんとなく、次が最後の記憶な気がした。

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