5-5 覚悟

「私はニムと呼ばれている。千春ちゃんの言葉を借りれば変食さん。食べるものは夢。クティのことは弟のように思っているわ」

「弟……」


 弟という言葉がクティにあまりにも似合わず、千春は目を瞬かせた。そんな千春を、ニムは楽しそうに見つめている。


「ニムがお姉ちゃんなんだ」


 トキアも驚いた様子で目を見開く。メモリアはどこかで聞いたことがあったのか、表情に変化はない。


「生まれたばかりのクティは弱くて、怖がりで、泣き虫だったから。小さい頃はよく慰めたのよ。いつのまにか可愛げがなくなって、ふてぶてしくなっちゃったけど」


 残念というようにメモリアは頬に手を当て、ため息をついた。千春は弱くて、怖がりで、泣き虫なクティを想像しようとしたが、うまく出来なかった。千春の知っているクティの姿から、ニムがいう過去を想像するのはあまりにも難しい。


「まー、強くならなきゃ生き残れないよねぇ。クティさんの能力はぁ、私たちの中でも断トツでめんどうだしぃ? むしろぉ、生き残れたのが奇跡みたいな?」


 メモリアがクッキーを口に運びながら呟いた。「なにこれ、うまっ」という声を聞きながら、千春は必死に情報を飲み込もうとする。


「リンさんに気に入られなかったら、私もクティも生き残れなかったでしょうね」

「リンさん?」


 聞いたことのない名前に千春は首を傾げた。その名を聞いた途端、トキアがあからさまに嫌そうに顔をしかめ、メモリアは苦いものでも食べたような顔をする。その反応から見て、良い人でなさそうだ。


「外レ者の中では頂点に近い存在。クティの生き方や考え方に、大きな影響を与えた……育ての親っていってもいいかも。二人とも否定するだろうけど」

「あんな、最低、最悪のクズ野郎に育てられたなんて、クティも運がないよね」


 ニムの言葉を受けたトキアは苛立たしげにそういうと、乱暴にティースプーンで紅茶をかき混ぜた。今まで一切の音がしなかったのに、ガチャガチャという、聞いていて心配になる音が響く。それはトキアの心を音にしたようだった。


「クティさんは、リンって人にいじめられたんですか?」


 千春の口から出た声はやけに低かった。今、目の前にその人がいたら文句をいうのに。そんな気持ちが現れた声と表情に、トキアたち三人は目を丸くし、同時に笑い出す。


「いいねぇ、その反応。リンに見せてやりたい」

「千春ちゃんは本当にクティが好きね」

「リン様にその態度って、君、大物になりそぉ」


 楽しそうに笑う三人を見て千春は目を丸くする。三人の反応の意味が分からない。結局どういう人なんだろうと首を傾げていると、ニムがまっすぐに千春を見つめた。瞳は一切見えないのに、ニムが自分を見ていることは分かる。不思議なものだと思いながら、千春もまた見えないはずの目を見つめ返した。


「クティはね、いろんなものを捨ててきたの。生き残るためには捨てなきゃいけなかった。優しさも弱さも、生き残るためには邪魔だった」


 そういうニムは寂しそうだった。千春はニムがいう弱虫で泣き虫だったクティを想像して、今のクティを思い出して、その違いに唇を噛む。


「私たちは人間の無意識の集合体。私は悪い夢を忘れたい、消してほしいという想いから生まれた。メモリアは記憶を忘れたいって想いから」


 ニムの説明を聞いたメモリアは目を伏せた。明るい表情が消え失せると、メモリアはとたんに大人びて見える。見た目がどれほど若々しくても、積み重ねられた空気が、生きてきた長い年月を感じさせた。


「クティさんは……」

「やり直したいっていう人の想いから。だから私たちは自分の元になった想いを無視できないし、人間から離れることもできない。生みの親のようなものだから」

「厄介だよねぇ。向こうはメモちゃんたちのこと産んだなんて意識ないしぃ? 嫌なこと忘れさせてくれる、便利なものか、化物としか思ってないのにさぁ」


 メモリアはそこまでいうと言葉を区切って、背もたれに背を預けると青い空を見上げた。口元は弧を描いているが、表情は投げやりだ。悲しみと諦めが混ざり合った表情を浮かべて自嘲する。


「それでも、私たちは人を求めちゃう」

 その言葉はとても重く、千春の胸がぎゅっと締め付けられる。

 

「クティさんも?」

 かすれた千春の問いにニムは頷く。


「クティは認めないけど、これは私たちの本能のようなもの。私たちは不安定な自分を安定させてくれる誰かがほしい。自分で名乗るのではなく、誰かに名前をつけてもらいたい。認めてほしい」


 名前がもらえたと喜んでいたマーゴを思い出す。外レ者に名前をつけてはいけないと言っていた愛澤を思い出す。

 人の無意識によって生み出されたのに、恐ろしいから、怖いからと、目の前にいる彼女らは名前すら与えられずに生きてきた。そう急に理解して、息が詰まる。


「私は夢の中でいろんな名前をもらったわ。みんな、私との出会いを夢だと思っているけど、私は満足してる」


 ニムはそういうと胸に手を当てて微笑んだ。その表情は満ち足りたもので、嘘偽りない、本音なのだと伝わってきた。それに千春はほっとした。


「でも、クティは満足してない。いや、出来ない。あの子は寂しがり屋の怖がりだから、曖昧なものじゃなくて確かなものが欲しいのよ。千春ちゃんみたいな」

「……私?」


 自分の名前が出てくると思っていなかった千春は、信じられずに聞き返す。ニムは静かに頷いた。瞼で隠れた瞳がじっと千春を見ているのを感じた。


「クティはたくさん失ってきたから、怖くてあなたを手放した。失うくらいなら、最初からなかった方がいいって、あなたとの関係をなかったことにした。名前をつけてほしいって頼むくらい夢中だったのにね」

「く、クティさんが!?」


 黙って話を聞いていたメモリアが素っ頓狂な声を上げる。ニムと千春を交互に見て、信じられないとばかりに口をパクパク動かす姿は金魚のようだ。


「僕らもびっくり。性格もずいぶん丸くなって、恋は人どころか僕らみたいな、人でなしも変えるんだなってびっくりしたよ」


 ティーカップを優雅に口に運びながらトキアは楽しげに笑っている。

 千春はニムとトキアがいうことが信じられずに固まった。


「……名前って、変食さんにとって重要なんですよね? それを私に?」

「そう。人間で言えばプロポーズみたいなものよ」

「あのクティさんが……? 一体何があったの……」


 優雅なトキアとニムとは対象的に、メモリアは頭を抱えてうなり始める。頭こそ抱えてないが、千春も同じ気持ちだ。


「つまり、クティさんはプロポーズまでしたのに、私の記憶消して、何もなかったとにしたっていうことですか?」

「なにそれ、サイテーすぎない?」


 千春とメモリアは真顔で顔を見合わせた。言葉にはしなかったが気持ちは同じだとわかる。クティに一言、いや、数え切れないくらい言いたいことがある。


「クティにとっても苦渋の決断だったのよ。責めないであげて」

「覚悟が足りないって、存分に罵ってやるといいよ」


 ニムとトキアが間逆なことをそれぞれ言い、あれ? という顔をして顔を見合わせた。気が合うのか、合わないのか、わからないやり取りを見ていたら熱しかけた熱が急激に冷めていく。冷静になろうと息を吐き出し、千春は目の前に置かれた紅茶を口にする。

 優しい味わいに心が少し落ち着く。ここに来てから聞いた様々な言葉が頭の中で回り、置いてきぼりにされていた感情がやっと追いついてきた。


「ニムさんは、クティさんが私の記憶を消して、過去に戻した理由を知ってるんですよね」

「えぇ」


 ニムの返事は肯定だけ。同じく知っているであろうトキアに視線を向けたが、トキアは千春の視線を軽く無視してケーキを口に運んでいる。二人とも教えてくれるつもりはないのだ。


「トキアさんは、私は人間のままでいた方が良いと思いますか?」

「その方がいいって言ったら、君は諦めるの?」


 フォークを置いたトキアは、ティーカップを両手で持ち上げながら微笑む。中性的な容姿と相まって、愛らしいと思える仕草なのに、底冷えするような恐ろしさに気づけば体が震えていた。

 マーゴが怖い人だといった意味を、ようやく理解する。 


「百人に聞いたら九十人ぐらいは、人でいた方がいいって言うんじゃないかな。人間から外レて良いことなんてないよ。食べ物には苦労するし、化物だって石を投げられる。親しくなった相手はどんどん死ぬ。生まれ変わることも、子孫を残すことだって出来ない」


 トキアはそういうとティーカップをテーブルの上に置く。


「君を止めるのが優しい人間なんだろうけど、あいにく僕は人間じゃない。傲慢で貪欲で、自分の願望を叶えるためなら、いくらでも他人を踏みにじれる最低な存在だ」


 そういって笑ったトキアの瞳は、昔、病室のテレビで見た深海を思わせた。


「だから僕は君を止めない。むしろ歓迎するよ。僕は君みたいに諦めが悪くて、強欲な人間が大好きだから。君のためなんて興ざめな言葉は贈らない。君が望む通りに行動するといい。願うことは自由。その先に待っているのが地獄だろうと、それが願いを叶える唯一の方法なら僕は進む」


 トキアはそこで言葉を区切り、じっと千春を見つめる。君はどうする? と問いかけられている。

 

 今まで、いろんな人に問われてきた。諦めた方がいい、進むべきじゃない。そう何度も選択を迫られてきた。これが本当に最後のチャンスなのだと千春は悟る。トキアの問いに答えたら、千春の運命は決定づけられる。そんな強い力をトキアは持っているように思えた。


 だからこそ、自然と千春は笑っていた。前の自分がトキアに助けを求めた理由が分かった。さすが自分だと知らない自分を誉めたい気持ちになった。助けを求めるのに、これ以上にふさわしい存在を千春は知らない。


「クティさんがいない方が、私にとっては地獄です」

「僕、やっぱり君のこと好き。僕ら似た者同士だね」


 トキアは満足そうにそう言ったが、視界の端でメモリアがすごい顔をした。すごいとしか表現できない、顰め面である。


 そんなメモリアにはお構い無しで、トキアはパチンと指を鳴らす。するとトキアの後ろにドアが現れた。何の支えもなしに直立している、真っ白いドアはあまりにも不自然で、ここが夢の中だということを思い出させるには十分だった。


「メモリアと手を繋いで、思い出したいって強く念じながらドアを開けて。君の奥底にある記憶につながるはずだよ」


 ね? とトキアは表面上は優しく笑いながらメモリアに圧をかける。出来るよな? と言葉なくプレッシャーを与えられたメモリアは、青い顔をしながら勢いよく椅子から立ち上がった。


「だ、大丈夫! め、メモちゃんなら、出来る! 出来るから!!」

「トキアくん、あんまりメモリアを虐めないで」


 震える声で不自然な大声を出したメモリアを見て、ニムが気遣わしげな反応をする。トキアは何も言わず、にっこり笑ったまま。優雅にフォークを動かし、イチゴを口へと運んでいた。


「メモリアさん、行きましょう!」


 千春は震えるメモリアの手を取る。お膳立ては十分すぎるくらいしてもらった。後は千春の気持ち次第だ。じっとメモリアの瞳を見つめると、メモリアは覚悟を決めた様子で歩き出す。


「どんなに嫌な記憶だろうと、もう引き返せないからね」

「引き返すなんて、ありえません」


 千春は迷いなく答えるとメモリアの手を握り、白いドアノブに手をかける。思い出したい。そう強く念じながらドアノブをひねる。

 あっさりと開いたドアの先には、見慣れた景色が広がっていた。

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