1-5 不思議な人
冷たい青年の声に千春は言葉が出なかった。
考えてみれば当たり前だ。千春は青年のことを知らない。会った記憶がない。千春が妙な親近感を覚えているのは一方的なもので、青年からすれば見知らぬ少女に突然話しかけられただけ。そうわかっているはずなのに、身を裂かれるような痛みに体が動かない。
動かない千春を青年はいぶかしげに見つめた。不機嫌そうにつり上がった眉。こちらをジロジロと値踏みするような好意的とはいえない視線に血の気が失せていく。
「藤堂さん、どうしたの」
そういって駆け寄ってきたのは千波と瀬川だった。瀬川が青い顔をしている千春を支えるように肩に手を回す。千波は千春を守るように青年の前に立ち塞がった。
「この子になんの用ですか?」
「そのガキが馴れ馴れしく声かけてきたんだろ。逆ナンか? 中学生にしてはませてんな」
青年はバカにした顔で笑う。瀬川と千波の空気が固くなったのが分かった。千春の心臓も大きく音を立てる。青年がいらついた言葉を発するたびに胸が痛む。
しかし青年の言っていることは間違っていない。知らない相手に馴れ馴れしく駆け寄ったのは千春の方だ。青年が不機嫌になるのだっておかしなことではない。
「ちょっと間違っただけで、そんな言い方しなくたって。藤堂さんがあんたみたいな人に逆ナンするわけないだろ!」
瀬川の大声に周囲の視線が集まった。派手な見た目の青年が中学生三人に囲まれているのは奇妙だろう。そのうち二人は女子となれば見た目からして怪しい青年は分が悪い。不審な目が青年に集まるのを感じた。違うと訂正しようにも千春はなんといえばいいのか分からない。
青年をにらみつける瀬川と千波を見つめて、周囲を見渡して、青年は舌打ちをする。ただここに座っていただけでなにも悪いことはしていないのに、青年は頭の後ろをガシガシとかくとおっくうそうに立ち上がった。そのまま千春には一瞥もくれずに歩き去ろうとする。
その姿を見て千春は駄目だと思った。ここで帰してしまったら青年には一生会えない。そんな予感に体が震えた。
けれど、なんと言えばいいのだろうか。引き留めて自分はなにがしたいのか。
ぐるぐると思考が回る。頭を使えば使うほど頭がぼーっとして目がくらむ。
そのとき、ぐうぅという大きなお腹の音がなったのは千春の体質としては当然だった。考えることはエネルギーを使う。燃費の悪い千春は運動したり物を考えたりすればするほどお腹が減る。マイペースな千春は日頃悩んだり物を考えることはそれほどなかったが、今は青年を引き留めようと頭を高速回転させている。その結果、ただでさえ減っていたエネルギーが一気に消費されたのだ。
これには周囲の人間も驚いた。あまりに大きな音にお腹の音だとは気づかず、キョロキョロとあたりを見回す人が何人もいた。千波と瀬川はエネルギー不足で青い顔をした千春を見てぎょっとしている。そこには午後だって休み時間に食べていたのにという驚愕が透けて見えた。
「お腹すいた……」
耐えきれなくなって千春はへたり込む。瀬川が慌ててなにか食べ物がないかとポケットやら鞄やらをあさるが、食べ物を常備している中学生など稀だろう。千波の方が瀬川よりも冷静で、周囲に食事出来るところがないか探し始めている。
慌てる二人に千春は申し訳ない気持ちになった。せっかく一緒に帰って、おいしいスイーツを食べる予定だったのに気をつかわせて慌てさせてしまった。空腹でもうろうとする頭で、千春は二人を見上げる。ごめんと言おうとしたところで、千春の視界に入ったのはとっくにいなくなってしまっていると思った青年だった。
青年はへたり込む千春をじっと見つめていた。信じられない。そんな気持ちが伝わってくる。回らない頭では青年がなにをそんなに驚いているのか分からず、千春はただぼぉっと青年を見上げた。
「お腹すいてるのか?」
青年は先ほどの冷たい声が嘘みたいに震える、弱々しい声でそうつぶやいて千春の元に近づいてきた。慌てている瀬川はどうしていいか分からなかったらしいが、千波は青年に不審な目を向け、守るように千春を抱きしめる。
そんな二人に見向きもせず、青年はしゃがみ込むとじっと千春を見つめた。
「お腹すいてるのか?」
否定してくれ。そんな懇願が聞こえてきそうな悲しそうな、泣きそうな顔で青年は千春にもう一度きいた。なんでそんなに悲しそうな顔をしているのか千春には分からない。分からないまま千春は素直に頷いた。
「お腹すきました」
青年は千春の返答に顔をくしゃりとゆがめた。今にも泣きそうな顔に警戒していた千波と慌てていた瀬川が驚き、固まる。そんな二人は相変わらず眼中にないらしく、青年は千春をじっと見つめて息を吐き出した。
「飯、たらふく食わせてやる」
「えっ……」
「お腹すいて動けないんだろ。近くに知り合いの店があるからそこ連れてってやる。お前ら二人もついでに奢ってやるからついて来い」
青年はそこでやっと瀬川と千波に視線を向けた。先ほどまでの泣きそうな顔が消えさり、眉間にしわがよっている。不機嫌だと隠しもしない表情。それなのに奢るという言葉がつながらず、千春は目を瞬かせる。
あまりの変わり身に先ほどみた表情は幻覚なのかと千春は思った。
「いや、でも……知らない人ですし」
「じゃあ救急車呼ぶか? 空腹で動けないからって理由で」
それはさすがの千春も恥ずかしい。千波と瀬川も微妙な顔をしている。
「その様子じゃ、かなりの量食べないと満足できないだろ。お前らそんなに小遣いあるのか」
青年のさらなる問いに二人は黙った。千春も手持ちを思い浮かべて顔をしかめる。
このお腹のすきようからいって学校で食べた分はなくなったと見ていい。千春のお腹の満腹ゲージはゼロに近い。それを移動出来るところまで回復させるとなると相当な量食べなければいけない。夕食までのつなぎとしか考えていなかった千春はそれほどお金を持っていない。とりあえず動けるようになる分食べて、両親に迎えに来てもらうことも出来なくはないが、日頃からなにかと迷惑をかけ心配をかけている両親にこれ以上迷惑をかけたくはないという気持ちもある。今回のことで放課後一人で出歩くことを禁止されても困る。
千春としては青年の提案は良い案に思えた。一見軽薄そうに見える、あきらかに関わってはいけないタイプの青年になぜだか警戒心がわかない。青年だったら満足できるくらい食べさせてくれるという謎の確信があった。
しかし、そう思ったのは千春だけだったようで千波も瀬川も不審そうな目を青年に向けている。その視線を受け止めた青年は顔をしかめた。
「俺が中学生のガキに興味あるように見えんのかよ。ガキに手出すほど相手に困ってねえわ」
青年の主張は説得力があった。容姿が整っているし、遊び慣れている雰囲気もある。中学生の子供に手を出さなくても引く手あまただろう。そう千春は思って、それに胸がズキリと痛んだ。
「知らない子供に急に食べ物を奢る理由は?」
「人助け以外になにがある。それともなにか? 俺は人助けなんてしない薄情者の最低野郎に見えるのか?」
あ゛あ゛ん? としゃがんだまま千波と瀬川をにらみつける姿はどう見てもチンピラで、まるで言葉に説得力がない。しかしながらそれを正直に言えるほど千波は遠慮のない性格ではなかったらしく、なんともいえない顔で黙り込む。
「そんなに心配なら、すぐ警察に連絡出来るようにしとけよ。スマホ持ってるだろ」
青年の言葉に千波は黙り込んだ。青年の申し出を受けるべきか、受けないべきか悩んでいる。そうしている間に千春のお腹はまたもや空腹を主張してぐぅっと音を立てた。
「ほら、さっさと行くぞ」
いうなり青年はへたり混んでいた千春の両脇に手をいれてひょいっと持ち上げた。同級生と比べても小さい千春だがあまりにもあっさり持ち上がれられたものだから驚く。間近でそれを目撃した千波と瀬川も驚いたようで、瀬川はパクパクと金魚のように口を動かした。
「通報するなら俺に奢られてからにしろ」
そういうと千春を抱えた青年はスタスタと歩き出す。青年に抱えられたまま振り返れば千波が慌てて後を着いてきた。瀬川はどこか羨望のまなざしで青年を見つめている。
この状況はなんだろうと千春は考える。危機感を覚えなければいけないのだろう。知らない男の人に抱えられて運ばれているのだから。小さくて無力な千春が本気で抵抗したって逃げられない。それなのに千春は少しも恐怖を覚えない。千波と瀬川が後を着いてきているからだろうか。
いや、違う。
理由は分からないが青年だから不安ではないのだ。
何度も感じた不思議な感覚に千春は戸惑いながら間近にある青年の顔を見上げた。見れば見るほど整っていると分かる。千春が今まで見てきた男性の中では一番だろう。
そう考えたら荷物のように抱えられていることに羞恥心を覚え始めた。体が密着していることも、顔が近いことも、今更気になってくる。
千春が落ち着かない気持ちになっていると青年が小さな声でつぶやいた。
「いつからお腹すいてるんだ?」
今日という話ではない気がした。いつからお腹がすくようになったのか。そう問いかけられているのだと千春は感じた。
「病気が治ってから」
正直な千春の答えに青年は眉をつり上げた。先ほどと同じどこか悲しそうな表情に戸惑う。
なんでこの人は自分を見て悲しそうな顔をするのだろう。自分のことなど知らない。そう冷たい声で言ったのに。
意味が分からない。頭の中がぐちゃぐちゃで考えても答えが出ない。考えようとすればするほどお腹がすいて、ぐぅぐぅと音を立てる。恥ずかしがってもどうにもならないと開き直ってきたお腹の虫が急に恥ずかしいことに思えて、千春はお腹をおさえた。
「お前軽すぎるからいっぱい食え」
青年は千春に視線を向けずにそういって歩き続ける。青年の後ろには千波と瀬川が微妙な顔で続いていた。奢ってやるといったわりには二人の存在には気にもとめず、青年は千春を抱えたまま店の中に入った。
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