名のない夏が始まる

たぴ岡

名のない夏が始まる

「おい千秋ちあき、なにバカみたいなことしてんだよ」

 隣にいる友人Aが、おれの背中を数回叩きながら爆笑する。反対側にいるBも目に涙を溜めるくらい大笑い。だからおれも笑って、仕方ねえだろ、と返す。


 二年生になってからも、去年とさほど変わらないと思っていた。けどそれは少し違っていて、一学年たった三クラスしかないこの田舎の中学校でも、クラスが変わればつるむ仲間たちも変わる。おれは望んでこいつらと一緒にいる道を選んだし、この会話だって心の底から楽しんでいるんだ。そのはずなんだ。この顔に浮かんでいる笑みが嘘だと気付かれないように、本当は苦い顔だとバレないように。

 今朝のことを思い出す。何か特別なことがあった訳でもないけど、桜太と登校するのが日常になっているのが嬉しくて、いつも人間関係や学校に疲れたときは朝のことを思い出すようにしていた。ふたり並んで何気ない会話をしながら歩いている事実が、それが特別なことなんかじゃなくて当たり前のことになっているのが本当に嬉しくてたまらなかった。


 けど、それだけだった。


「ほら、帰るぞ」右側にいたAがおれの肩を強引に引っ張る。「掃除なんてな、マジメちゃんたちにやらせときゃ大丈夫なんだって」

「あ、あぁ。そうだよな……」

 言った瞬間、視界に少年が入ってきた。酷く穏やかな表情で、難しそうな本を開いて立っている。少し前まで着ていた春を感じるコートはもう脱いでしまって、真っ黒の学ランに身を包んでいる、その少年。

 一瞬、時間が止まる。おれの目は桜太おうたに釘付けで、Bに急かされていることにも気付けないくらい、おれと桜太だけの時間だった。と、桜太が緩慢かんまんな動きで、口を、開く――。


「ん? 千秋、あいつ知り合い?」

「いや」口をついて出たのは、否定。急いで桜太から目を逸らしながら、おれは続ける。「いや、別に……知らないやつ」

 自分を小さくして、逃げるように学校から出ていった。口角を無理やり上げて、AとBに遅れないように足を動かす。

 心臓が縮んだようだった。手は少し震えているし、首はもう固まり切ってしまって振り返ることはできない。ただ、最後におれが見たのは、いつもの柔らかい表情の中に落ちてきた、淡い絶望の色――。

 そこからの記憶はほとんどない。たぶんいつもみたいにAがふざけて、Bが乗っかって、おれが大笑いしていたんだと思う。たぶん今週末の予定を照らし合わせて、どこに遊びに行くか話し合っていたんだと思う。たぶん――。


「おい千秋、話聞いてんのか?」

「顔色悪いな、季節の変わり目で風邪でもひいた?」

 AとBが本気で心配そうに顔を覗き込むから、おれは慌てて現実に帰ってくる。

「全然、そんなことは……」ない、と言いかけて思いつく。わかりやすく苦笑いを浮かべながら言ってみる。「でもちょっと、朝から頭痛いんだよなぁ」

「まじかよ。ごめんな、気付けなくて」

「今日は早く寝ろよ?」

 なんだかんだ言ってこいつらは優しい。おれは合わせるので精一杯だけど、こいつらはひとりひとりをしっかり見てる。それが人との接し方に反映されているかは別として。


「ごめん、ありがとな。じゃ、また明日」

 ふたりは眩しいくらいの笑みを浮かべて、おれに手を振りながら歩いていく。しばらく見送ってから、おれはゆっくりと家の方向へ足を動かす。と、背後に足音を聞いた。目の前に伸びる影がふたつ見えた。おれの分と、それから。

「千秋先輩」ハッとして振り返ると、そこにはさっきと変わらない酷く穏やかな表情の桜太がいた。絶望の色は、ない。「一緒に帰りましょ」


「お、桜太、さっきは――」

「先輩、まだ夏になってもないのにもう学ラン脱いでるんですか?」

 言いかけたごめんを急いで飲み込んで、桜太の言葉を反芻はんすうする。耳から入ってきた桜太の声が意味することを、必死になって理解する。

「……いや、だってもう初夏だろ」

「うーん、確かにお昼は暑くなりますけど、それでも二十度いかないですよ? まだ着てたっていいのに」

「おやおや、桜太くんはおれの学ラン姿が見たいのかな?」

「別に、そんなつもりはないですけど……」

 何ひとつ変わらない下校。何ひとつ変わらない会話。おれも少しふざけるくらい気まずさはなくなったけど、それでも奇妙な感覚が残る。何だろう。

「でもやっぱり千秋先輩も中学生なんだなぁって、学ラン見てたらそう思いますよ」

 怖いくらいにいつも通りで、いつも通りすぎるくらいで――。


 気を使った訳でも何でもなく、気付いたらおれは桜太の家の前まで歩いてきてしまっていた。もっと前の角を曲がらなくちゃいけなかったのに、桜太と話しているのが楽しくて、嬉しくて、無意識にここまで来ていた。

「じゃあまた明日、ですね」

「ん、また明日」

 今来た道の方に身体を向けて、歩き出す。桜太が今おれに向けたあの顔も、やっぱり瞳は笑っていなかった。けど、それでもその表情がニセモノだとは思えない……いつからああなんだろうか。

 ふ、と後ろを見てみれば桜太はさっきと同じ笑みで、小さく手を振っていた。おれは、にっ、と笑って大きく手を振り返す――と、気付いてしまった。


 おれのこの笑顔は、あいつらに向けるのとは、全くの別物――?


 走り出していた。怖くなった。苦しくなった。おれの中の嘘を見つけた。自分らしさを見失った。

「何のために」泣き出しそうになりながら、全力で走り続ける。「何のためにおれは、人に合わせてたくさんのおれを創ってるんだ?」


 そこにおれはいないのに。

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