[4-5] 彼方の光へ
体が軽い。
風を感じる。
じわりと目を開けると砂埃が舞う平原が見えて、どこともなくかすかに油の匂いがした。
ものの数秒、次第に正確な像が視界の中に結ばれると、平原の向こうに数機の飛行機が並んでいるのが見えた。
滑走路だ。
すぐ横には、握り飯のような屋根の格納庫が並んでいるのが見える。
懐かしい。
発動機の音が聞こえている。
「本気で行くのかっ? 貴様、空戦なんてできねぇだろっ」
「あの街には幼馴染みが疎開しています。行って護りたいんですっ!」
ハッと気が付くと、私はもうその声のすぐ横に居た。
格納庫のすぐ脇、飛行服の男に本気で行くのかと尋ねているのは、私の同期の小林上等整備兵曹だ。細身の長身、愛嬌のある四角い黒縁眼鏡は見紛わん。
そして、その手前……、見付けたぞ。
小林に出撃させろと食らいついているのは、そう……、彼だ。
川島上等飛行兵曹、昭和二〇年を生きる、横田悠真だ。
「壊してもいい戦闘機を、僕にくださいっ!」
「馬鹿野郎っ! そんなものはねえっ! 川島っ、だいたい貴様は搭乗員から外れとるだろうがっ」
「それでもっ、行きたいんですっ!」
「もう、陸軍の航空隊もわんさか上がっとる。貴様ひとり行ってもかえって――」
「僕はどうしてもっ、どうしてもあの街を、彼女を護りたいんですっ!」
鳴り響く轟音。
背後の滑走路では、おんぼろ零戦や練習機の白菊など、なけなしの部隊が次々に飛び立っている。
「お願いしますっ!」
「くそっ、ああもう分かったっ! 解隊になった
「ありがとうございますっ!」
「よしっ! すぐ出せるようにするっ。しかし貴様……、マフラーがだらしないぞっ。今生最後の出撃になるかも知れんというのに。便所へ行って、もうちょっとピシッと巻き直して来いっ!」
「はいっ!」
駆けてゆく、川島上等飛行兵曹の悠真くんの背中。
そして、便所へ駆け込んだ彼は、洗面流しの鏡の前に立って、ばたばたとマフラーを解き始めた。
白いマフラーは、戦闘機乗りの誇りだ。
一点の迷いもない、勇気と使命感の象徴だ。
次の瞬間、彼が突然、手を止めた。
鏡に向かって、大きく目を見開いている。
さっと後ろを振り返った彼はぎょっとして小さく肩を震わせると、それからしっかりと目を瞑り、そして再び鏡のほうを向いておずおずとその目を開いた。
「鏡の中には見える……。僕の顔……、僕の幽霊? いや……、もしかして、川島……上飛曹……?」
鏡の中の彼の視線が、彼の後ろに居る私をしっかりと捉えている。
『私が……、見えるのか?』
「川島上飛曹っ! どうしてここにっ?」
鏡にへばり付くようにして、彼が私を呼んだ。
『悠真くん、結衣さんを置いて行くつもりか? 約束どおり、私は戻って来た。君は現代へと帰るのだ』
「帰る? 嫌です。もう洞海湾は火の海です。いますぐ行かなければ、志保さんが――」
だめだ。
彼の心には、もう既に迷いがない。
婆さまが言っていた。
人が死しても、その魂が魂の通り道へ辿り着かずに、とある場所に留まってしまうことがあると。遂げられなかった迷わぬ思いや、誰かを心から憂う気持ちが、魂の通り道を見えなくしてしまうことがあると。
彼を魂の通り道へと導き、その強い思いが足かせとならぬようにするためには……。
『分かった。それでは、私も共に行こう』
「……え?」
『私も君と共に在り、戦闘機を駆って志保を護る空戦に臨む。その代わり――』
鏡の中の彼が、さらに大きく目を見開く。
『その代わり、志保を護ったあと、君は名前を呼ばれたら必ず振り向くのだ。これは男の約束だぞ』
そのとき、突然、壁の向こうでドドドと激しい発動機の爆音が聞こえた。
榮二一型発動機の、軽快な轟音。
「川島ーっ! なにぼやぼやしてやがるっ! さっさと乗らないかっ!」
小林の声だ。
見ると、ずいぶんとくたびれた古参の零戦が、ガタガタと胴を揺らしながらプロペラを回している。
私は鏡の中の彼に活を入れた。
『よし、カカレッ!』
「はいっ!」
走り出す彼。
思わず笑みが出た。
無意識に言った『カカレ』であったが、これは海軍の日常的な号令だ。それを発せられ、なんのためらいもなく体を動かした彼の姿が、とても頼もしく、そして勇ましく思えたのだ。
「川島っ! この零戦はお前にやるっ! 思う存分やってこいっ! 絶対俺も後から行くからなっ。靖国で会おうっ!」
「はいっ!」
小林に敬礼した、川島秋次郎姿の彼。
古参零戦の左翼付け根の後方でくるりと踵を返すと、彼は引き出し棒に手を掛け、『フムナ』と書かれたフラップの横に慎重に足を乗せて操縦席に乗り込んだ。
その零戦は、いつか資料館で見た、あの三二型。
操縦席に座る彼の後ろに付くと、いつしか私の視界は彼のそれと重なっていた。
まるで、私は幽霊のようだ。
彼の目には、鏡を通してしか見えなかった、私の姿。
きっとこれが、お化けだの、妖怪だのという逸話の元なのだろうと、なぜか突然そう思った。
普遍的に重なった、魂の通り道の中から覗く、別次元の存在。
じわりと手に感覚が戻る。
右手は操縦桿を握っている。
両足は方向舵を踏んでいる。
間違いなく、私はいま、この零戦に搭乗している。
そして感じるのだ。
暑さも、匂いも、重さも、そして風も。
おそらく、全く同じものを悠真くんも感じているはずだ。
いま、私たちふたりは、この昭和二〇年の空の下で同じ体を共有し、共に大切な人を護らんと戦地へ赴こうとしている。
左手でスロットルレバーをゆっくりと押し、車輪のブレーキを外した。
すうっと地面を滑り始めた零戦。
そして滑走路の端まで辿り着いたところで、私たちの目は進路を見定めた。
『悠真くん、行こう』
「はい、上飛曹」
全開。
零戦は砂埃を巻き上げながら疾走する。
車輪から伝わるできの悪い滑走路のごつごつという振動が、機体の速度がどんどん増していることを私に知らせた。そして、ゆっくりと操縦桿を手前に引くと、その振動がすうっと消えて、機体がふわりと宙に浮く。
踊るように、大空へと舞い上がった零戦。
目指すのは、いままさにB-29の大編隊から爆撃を受けている、志保が住むあの街だ。そこへ到達するには十五分もかからない。
聞けば、陸軍の基地からも数多くの迎撃隊が舞い上がったらしい。
そして、故郷の街の上空を通り過ぎたとき、その忌々しい光景が我々の前に湧き上がった。
立ち昇る黒煙。
その先に、太陽の光をきらきらと反射する、夥しい数の銀色の巨体が浮いているのが見えた。
二〇〇機を超えるB-29の大編隊。そして、その護衛に就いているずんぐりとした多数の戦闘爆撃機P-47。
ここからはまだ小石のようだが、Bー29は直近に寄れば生唾を飲むような巨大爆撃機だ。
下は火の海。
湾の手前の工場地帯からは濛々と真っ黒い煙が上がり、地上の至るところで深紅の炎が噴き狂っている。
B-29が垂れ流す爆弾の雨を縫うように、陸軍、海軍の混成迎撃隊が護衛のP-47に果敢に戦いを挑んでいるのが見えた。
あの湾を渡った先の田舎町には宮町の本家があり、そのすぐ近くには志保とその両親が住んでいる。志保は、あの降り注ぐ焼夷弾の雨の下、貧弱な防空壕の中で両親と身を寄せ合って恐怖に震えているに違いない。
許せん。
スロットルレバーを全開まで押した。しっかりと操縦桿を握り、照準器の向こうに見える空に目を凝らす。
その瞬間、ばりばりばりと左後方から機関銃の音がした。即座に操縦桿を右に倒し、方向舵を蹴り飛ばして機体を右によじる。
それと同時に、左の翼の下を黄色い曳光弾の軌跡が鋭く通り過ぎるのが見えた。
撃たれた弾が翼の下をかすめて、前方の雲の中に消える。
P-47だ。
左前方に舵をとり、水平を取り戻して背後を見ると、右後ろに群れからはぐれた一機がいやらしく食らい付いていた。
こんな奴を相手にしている暇はない。
回避運動を繰り返す。
悠真くんは必死に歯を食いしばっている。
私は、馬力では絶対に敵わない奴をひっぺがそうと真っ直ぐ縦に上昇し、その頂点で逆舵を切って機体を捻った。
捻られた機体は上空でふわりと速度を落とし、あっという間に奴の後方に付ける。
『
「撃ちますっ!」
次の瞬間、悠真くんが左手で二〇ミリ機銃の引き金を引いた。
世界で類を見なかった強力な機関銃の戦闘機への搭載。零戦に搭載された二〇ミリ機銃の弾丸は、一発でも当たれば戦闘機が粉々になる化け物のような機関銃であった。いま、まさに火を吹いた二〇ミリ機銃が前方のP-47を捉える。
パンッと乾いた音がして、奴は翼の根元から黒煙を吐き出した。
通常なら、撃墜を見届けて隊にモールス信号で報告するが、いまの我々にはその後がどうなったかはどうでもよかった。
すぐに機首を起こして、前方上空で悠々と爆弾を落としているB-29に意識を集中する。
見える。見えるぞ。
全天を覆うかのごとく我が物顔で街を蹂躙するB-29の大編隊の中で、その一機だけが私の目には全く違う機体に見えた。
機体の周りに蝶の鱗粉のごとき鮮やかな光の帯をまとい、さらにその光の帯は天女の羽衣のごとく長く長く機体の後ろに尾を引いている。
こいつだ。
こいつが、志保の命を奪うに違いない。
『悠真くんっ。あいつを墜とすぞっ』
「はいっ!」
『いいかっ、奴を機銃で墜とすのは不可能だっ。手段はたったひとつ』
「覚悟はできていますっ!」
『正面から突っ込み、相対する奴の速度によってその破壊力を倍増させるっ』
スロットルレバーを押し込んだ。
発動機がぜえぜえと息つく。
びりびりと翼が鳴り、我々の零戦は大きく弧を描いて、鱗粉をまき散らす異様なその巨大爆撃機の正面へと躍り出た。
回避するB-29。
しかし、逃さん。
『いいかっ、悠真くんっ! この時間線における川島秋次郎の肉体が消え去れば、私も君もここでの居場所を失うっ。君は魂の通り道へと入った瞬間、呼ばれた名に振り向くのだっ!』
「いえっ! 靖国までお供しますっ!」
『君の本当の肉体は、いま、結衣さんと二瀬と共に君の帰りを待っているっ! いまの君なら、結衣さんを一生護って幸せにすることができるはずだっ!』
B-29から放たれた機銃の弾丸が、何発も何発も命中している。
それでも私は、照準器の向こうの奴から目を逸らさない。
「散るのは恐くありませんっ!」
『そうではないっ! 散って護るは勇気、生きて護るはさらなる勇気だっ! 結衣さんのためにっ、君は帰るのだっ!』
「上飛曹……」
『これは私の願いだっ! 彼女は……、結衣さんは私が、この川島秋次郎が心の底から護りたいと願った女だっ! 現代の世で、現代の娘らしい天真爛漫さで人を思いやり、慈しみ、そして心を尽くすことができる、私が本当に心から護りたいと願った、大輪の華だっ!』
B-29が眼前に迫る。
一発の弾丸が機体を貫通し、炎が勢いよく噴いた。
風防ガラスが割れて、右のこめかみをざっくり引き裂く。
『志保を、大切に思ってくれてありがとう。戻ったら、結衣さんと二瀬に伝えてくれ。会えてよかったと。本当にありがとう……と』
「上飛曹っ! 僕はっ」
見ると、翼の上に蛍のような光が舞っている。
その向こうに、目の覚めるような蒼天がどこまでも続いているのが見えた。
そうか。
皆、私と共に行ってくれるのか。
眼前に迫る鱗粉をまとうB-29が、断末魔の一斉掃射を放った。
何発も何発も、私の零戦に機銃の弾丸が命中している。
発動機はまだ回っている。
焼夷弾は、未だ奴の腹から垂れ流されている。
まだだ。まだ落ちるわけにはいかない。
そのとき、背後から声が聞こえた。
『秋次郎さん!』
ああ、この声を聞き違うことはない。
耳の奥に響いたのは、私の名を呼ぶ結衣さんの愛らしい声音。
思わず胸が高ぶった。
しかし、私は振り向かない。
視界いっぱいになったB-29。
次の瞬間、目を覆わんばかりの金色の光が足元から噴き上がり、一瞬にして私を飲み込んだ。
零戦の翼が見える。
その下に、石畳に横たわる横田悠真の体を揺さぶりながら、なにかを叫んでいる結衣さんと二瀬が見えた。
志保の鏡が割れている。
割れた鏡の破片がそこかしこに散乱して、まるで砂金のようにきらきらと輝いている。
『結衣さん、二瀬、彼の名を……、悠真くんの名を呼んでやってくれ』
喉の奥で呟いた、その言葉。
それが金色の輝きの中で響くと、突然、その光は輝度を上げ、眩い純白の波となって、音もなく私の視力を奪った。
『悠くん!』
『悠真くん!』
どれくらいそうしていたのだろう。
我に返ると、私はただ立ち尽くしていた。
耳に届く、さざ波の音。
清涼な潮風が優しく頬を撫で、いつのまにか解けて垂れ下がっていた飛行帽の顎紐を揺らした。
おもむろに、飛行帽を脱ぐ。
じわりと視界が開けると、そこは蒼天の下、ゆらゆらと光の帯を揺らす大海。
その大海を背景に、空母の飛行甲板のごとき真っ直ぐな足元がずっと向こうまで続いていて、そこに立つ私の横には、粉々になったはずの三二型が地に脚を着けて厳然としていた。
発動機は回っていない。
B-29が放った弾丸の痕もなく、まるでついさっき工廠から送られてきたかのごとく、その機体は実に美しい光沢を放っていた。
悠真くんは居ない。
そこにはただ、飛行服姿の私、川島秋次郎上等飛行兵曹がひとり、きらめく海を眺めながら、愛機の傍らに立ち尽くしているだけだった。
遠くで、サクソフォーンが美しい旋律を奏でている。
いつか聴いた、あの四重奏。
その音色が心に浸潤し始めたとき、再び背後で声が聞こえた。
『秋次郎さん』
呼ばれた、私の名。
振り向こうとして、躊躇する。
しかし、すぐにそれが、ひどく懐かしい、そしてなにものよりも大切に思ってきた、彼女の声音であることに気が付いた。
ゆっくりと、振り返る。
『秋次郎さん……』
潮風に揺れる、清楚なセーラー。
あの色褪せた写真から、鮮やかな色彩をまとって抜け出て来たような、その姿。
『志保……』
『はい。やっと会えました』
『もしや、お前が私を呼んでくれたのか?』
『いいえ、秋次郎さんが私を呼んでくれたんですよ? 私はずっと待っていただけ』
『私が呼んだ?』
『はい』
ゆらりとした、懐かしく愛らしい笑顔。
背景の雲ひとつない蒼天。
そのずっと向こうに、数多の輝く光が空を駆けてゆくのが見えた。
それはまるで虹のように、輝きを放ちながら天を渡る帯となった。
『そうか、そういうことか。ずいぶん待たせてしまったな。寂しかったろう?』
『まぁ、ずいぶん優しい言葉。結衣さんのおかげね』
『そうだな。彼女に会えたおかげだ』
『それなら、それはすべてあなたたちのおかげ。あのとき、私を護ってくれたからこそ、結衣さんへ命を繋ぐことができたのだから』
『私は、ちゃんと護れただろうか』
ゆっくりと頷いた志保。
セーラーがふわりと揺れて、志保がそっと私の手を取った。
真っ直ぐで曇りない瞳が、私を見上げる。
『さあ、私たちも行きましょう』
『ああ、みんな、待ってくれているのだろう? あの向こうで』
『はい。あの光の向こうで、みんなみんな』
私は、少々私らしくない笑みを志保へと向け、それから零戦の翼へ飛び乗った。そして、そっと手を伸ばし、しっかりと志保の手を引いて翼の上へと引き上げた。
見ると、翼の下から金色の光の粒が、風に吹かれたように舞い上がっている。
見渡すと、そこは光る平原。
私は、風防を開け放った操縦席へ志保を座らせると、それから、その縁に肘を掛けて翼の上で志保に寄り添った。
握った手は放さない。
『やっと……、みんなのところへ行ける』
『私もです。やっと……』
そのうち、金色の光の粒が私たちを包み尽くすと、零戦はゆらりと浮かび上がった。
まだ、サクソフォーンの旋律は聞こえている。
艶やかなその音色が、私たちを高く高く昇らせてゆく。
目の覚めるような蒼天。
遥か遠い彼方へと続く、長い長い光の帯。
その旋律が、その光の帯が、私たちをそこへと導いたのだ。
勲や、両親や、戦友たちが待つ、その限りなく尊く、限りなく安寧な世界へと……。
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