[エピローグ] 空を見上げて

「結衣、もう行くの? まだ学校、開いてないんじゃない?」

「うん。学校行く前にちょっと寄り道するの。悠くんも一緒」

「悠ちゃんも?」

 玄関で、あたしの背中にちょっと不思議そうに声を掛けたお母さん。

 トントンとローファーのつま先を鳴らしながらドアを開けると、真っ白なカッターシャツの優しい笑顔がふわりと覗いた。

「あ、悠くん、おはよう! ごめんね、待たせちゃった」

「おはよう。いや、いま出て来たばかりだよ? あ、おばさん、おはようございます」

 お迎えに行こうと思ったのに、悠くんのほうが先に来ちゃった。

 ちょっと目を丸くしたお母さんが、あたしの両肩に手を掛けて背伸びする。

「おおー、悠ちゃんのほうが迎えに来るなんて、いままであったかな。ものすごく礼儀正しいし、記憶が戻ったのに、なんだか別人みたい」

「いえいえ、長幼の序ですので」

「うわ、結衣が焦るはずね。悠ちゃんがあまりに急に大人になったもんだから、結衣ったらここ最近、すっごくいい子なのよ? 今朝だって、すごく早起きして朝ご飯作ってくれて――」

「もうっ、お母さんっ! 悠くん、行こっ。バスが来ちゃう」

 あの出来事から、もう三週間。

 なんだか、いまでも信じられない。

 秋次郎さんのこと、四月からあの日までのこと、なんだかぜんぶ夢だったんじゃないかって、そんなふうに感じてしまう。

 神社の石畳の上で目を覚まして、そっとあたしの頬に手を伸ばして名前を呼んでくれた彼は、あたしが良く知っている幼馴染みに戻ってくれていた。

 ううん、ちょっと違うね。

 優しくて、スポーツが得意で、コーヒーが苦手なところは、あたしが良く知っている彼と同じ。

 小さいときに、一緒にお父さんお母さんごっこをしてたこともちゃんと覚えてくれているんだけど、でも、ちょっとだけ違う。

 そして、やっぱり秋次郎さんは居なくなってしまっていた。

 悠くんが教えてくれた。

 秋次郎さんが、あたしと二瀬くんに会えてよかったって、本当にありがとうって、そう言っていたって。

 ときどき、悠くんと話していると、この悠くんは本当は秋次郎さんなんじゃないかって思ってしまうことがある。とっても大人の、とっても逞しい、とってもあたしを大切にしてくれるその悠くんが、あたしと同じ歳に見えないことがある。

 悠くんのお母さんも言っていた。記憶が戻って、やっぱりあの悠真はどこかへ行ってしまったって。でもいまの悠真も、なんだかまた別人みたいに感じることがあるんだって。

 そのわけを、あたしは知っている。

 たぶん、誰に話しても信じてもらえないだろうけど、いいの。あたしと悠くんと、そして二瀬くんの、三人だけの秘密。


 良く晴れた空。

 そして、この神社は、あのときのまま。

「おはよう! 悠真くん、柏森さん。たった三週間しか経ってないのに、なんだかずいぶん久しぶりに来たように感じるね」

「おはよう、ハルくん。ごめんね。こんなに早く来させちゃって」

「ううん。学校の敷地に入る前にお参りしたほうがいいかなって思ってたから、ちょうどよかった」

 本当は、あたしはこの神社へ来る勇気がなかった。

 ここへ来たら、秋次郎さんのことすごく思い出してしまいそうで。

「ハルくん、実は、ちょっと見てもらいたいものがあるんだ」

「うん? なにそれ……、手紙?」

 志保さんの鏡は、石畳の上で粉々に割れていた。

 あの鏡が魂の通り道と繋がって、秋次郎さんと悠くんを元に戻したって二瀬くんが言っていたから、これでもう二度と秋次郎さんには会えないんだなって、そう思った。

「鏡の裏板の中にあったんだ。また新しい鏡を入れてもらおうって思って家具屋さんに持って行ったら、枠を外すときに職人さんが小さな繋ぎ目を見付けて」

 鏡の裏板の中に、隠すように入れられていた手紙。

 元は白い紙だったんだろうけど、コーヒーで濡らしたみたいに茶色くなってた。

「悠真くん、柏森さん、あのときみたいに座ろうよ」

「ハルくん、あのときって?」

「あ、悠真くんは分からないよね。悠真くんが帰って来てくれた、あの日のことだよ。この石畳に三人で座ったんだ。僕が左、柏森さんが右」

「じゃ、僕は真ん中だね」

 あのとき、いつの間にか気を失ってしまって、秋次郎さんにちゃんとさよならが言えなかった。

 気が付いた二瀬くんと一緒に、気を失ったままの秋次郎さんを何度も揺さぶって名前を呼んだ。

 そして、突然、悠くんの名前を呼んであげてって、秋次郎さんの声が聞こえた。

「うわぁ、すごくキレイな字だ。志保さんが書いた手紙なんだね」

 悠くんが鞄から取り出した手紙を、左から二瀬くんが覗き込んだ。

 あたしも右から覗く。

 とってもキレイで、優しい字。

 あたしの曾お婆ちゃんが書いた、誰の目にも触れることのないはずだった、秘密の手紙。

 書き出しは、『秋次郎さん』ってなっていた。


『秋次郎さん

 きっとどこかで聞き及びと思いますが、ご報告いたします。

 この度、宮町家に嫁ぐこととなりました。図らずも、あの大空襲と同じ日の今日、宮町のご両親にご挨拶をさせて頂き、正式に決まりました。実は何度も丁重にお断りしたのですが、勲さんがこれは男の約束だからどうしてもとおっしゃるので、熟考のうえお受けいたしました。

 勲さんには、私は幼馴染みの川島秋次郎を未だ慕っているとお話ししました。そして、いまもこうしてその帰りを待っていると。しかし、勲さんは笑ってそれで良いのだと仰られ、当然に秋次郎をずっと待っていて良い、帰ってくるまで私がその代役を勤めるだけだと、そのように慰めてくださいました。

 貴方の戦死の報をにわかに信じ得ず、戦後すぐ隊の方を訪ね回り、貴方が私を護ると言って戦闘機を駆り、故郷の空で散華なさったことを聞き及びました。

 貴方はいま、何処に居られるのですか。

 私はもう一度貴方に会いたい。会って、きちんとこの気持ちをお伝えしたいのです。

 本当に、本当に、私のことを大切に思ってくれてありがとう。

 もう、私は大丈夫です。

 幼馴染みの川島秋次郎は、きっといま、どこかで私を待ってくれていることでしょう。私も早くその場所を見付けられれば良いのですが。

 この手紙が誰かの目に触れることはきっと無いと思いますが、どうしてもこの気持ちを貴方にお伝えしたくて、ここに書き記しました。

 本当にありがとう。

  もうひとりの秋次郎さんへ  

         昭和二十五年八月八日            志保』


「悠真くん、これって」

「うん。これ、僕に宛てた手紙だよね。すごくびっくりした」

「志保さんも、秋次郎さんが悠真くんになってたこと、知ってたの?」

「それがね、僕は一度も、僕が横田悠真だって志保さんに話したことは無かったんだ」

 きっと、志保さんは知っていたんだと思う。

 この手紙を見て、志保さんは悠くんのことが好きだったんだなって、すぐ分かった。

 でも、そのことを悠くんに話したら、『この時代の好きっていうのは、いまとちょっと違うんだよ?』って笑っていた。

 いま思えば、きっとあたしが秋次郎さんを大切に思っていたあの気持ちも、この時代の『好き』だったのかもしれない。

「でも、悠真くん、そうするとあの昭和二〇年は、いまの僕らの世界と繋がった、同じ時間線の世界だったってことになるね」

「そう思って調べたんだ。そしたら、あの大空襲で飛来した二〇〇機を超えるB-29のうち、一機だけが撃墜されたって記録があってさ……。上飛曹の目を通して僕にも見えた、あの異様な姿の一機が、たぶんこの記録の一機だと思う」

「なるほど。秋次郎さんが『あれを墜とす』って言った一機のことだね? もしかしたらその一機って、志保さんの命を奪って違う時間線への分岐を作るトリガーになっていたのかも」

「うん。だから、魂の通り道の中から干渉している上飛曹の目には、その異様さを感じることができたのかもしれない。亡くなってしまったアメリカ兵の人たちには申し訳ないけど」

 二瀬くんが少し考えて、ちょっと満足げに笑った。

「悠真くん、この手紙を見て、ようやく分かったよ。志保さん、ずっと待ってたんだね。魂の通り道に行かないで」

「そうだね。志保さんの幼馴染みの秋次郎さんは、一度も死んでいないから」 

 そうだ。

 飛行機で飛んでいた秋次郎さんは、あの事故で魂の通り道に巻き込まれて、悠くんと入れ替わってしまった。そして、悠くんの魂を宿したまま、秋次郎さんの肉体はこの世から消えてしまった。

 だから、死んでもいない、どこに行ってしまったのかも分からない本当の秋次郎さんの帰りを、志保さんは亡くなってしまってからも、ずっと待ち続けていたんだと思う。

 心から、秋次郎さんのことを大切に思いながら。

「悠真くん、もしかしたら、その志保さんが秋次郎さんを大切に思う気持ちが、短絡点を作り出していたのかもしれないね」

「そうだとしたら、そのおかげで僕は帰って来られたってことか……」

 二瀬くんが、ちょっと遠くを見た。 

 青い空。

 ゆらりと風に揺れている木たちのおかげで、下へ続く石段がとっても涼しそうにしている。

「ねぇ、悠真くん。もしかしたら、短絡を作り出したのは志保さんの思いだけじゃないかもね」

「そうか……、そうだね。たくさんの人たちの、大切な人を思う心だ」

「うん。秋次郎さんと志保さんが、お互いにお互いを大切に思っていたのと同じ、みんなの心だね」

 二瀬くんがそう言うと、悠くんも遠くへ目をやった。

 なんか素敵。

 ふたりが話した、『人が人を大切に思う心』。それがお互いを引き合わせたって、すごく素敵だなって思った。私もそんなふうに人を大切に思えたらいいなって、志保さんみたいになれたらいいなって、すごくすごく思った。

「結衣、お参りしようか」

 悠くんが立ち上がる。

 二瀬くんと一緒にあたしも立ち上がると、本殿の奥にちらりとご神体の丸い鏡が見えた。

 静かに、三人で手を合わせる。

 秋次郎さん……、志保さんと会えたかな。

 そんなことを思いながらずっと手を合わせていると、すぐ耳元で声がした。

「結衣、どうした?」

 顔を上げると、そこにあったのは悠くんの優しい瞳。

 二瀬くんと一緒に先に顔を上げた悠くんが、ちょっと心配そうにあたしの顔を覗き込んでいた。

「ううん。なんでもない」

「そう?」

「あはは。なんかね? ぜーんぶ夢だったんじゃないかなぁって、なんか急に思っただけ」

 くすりと笑った悠くんが、それからポケットに手を入れると、ちょっと腰を落としてあたしを覗き見上げた。

「夢じゃないって思うよ? ほら」

 悠くんが、なにかをポケットから取り出した。

 なんだろうと思って見ると、それは見覚えのある、あの箱。

「あ……」

 不意に、目の前がゆらゆらとした。

 悠くんが、あたしの前にその箱を差し出して、それからそっとその蓋を開ける。

 その箱の中にあったのは、きらりと光る、金色のキーホルダー。

 森の木が映り込んだ金色の板の真ん中に、『AKIJIRO』の文字が見えた。

「悠くん……」

「机の中にあったよ? 箱ごとすごく丁寧にハンカチで包んであった。秋次郎さん、とっても大事にしてたんだと思う。今日、一緒に学校に連れて行ってあげようって思って――」

 嬉しい。

 本当に嬉しい。

 思わず、ちょっとだけうるうるすると、悠くんがちょこんとあたしの頭に手を乗せた。

「さ、そろそろ学校へ行かないと。ね、ハルくん」

「うん。柏森さんが落ち着いたら」

 しばらくして、始業前の予鈴チャイムが、森の向こうの学校から聞こえた。

 三人一緒に、ゆっくりと石段を下る。

 一番前は二瀬くん、次に悠くん、そしてあたし。

 見上げると、両側から迫る木の間は、真っ青な空。

「ねぇ、悠くん、二瀬くん、今日みんなでお昼食べて帰らない?」

 一番後ろからふたりに声を掛けると、悠くんが突然立ち止まって、ちょっとしかめ面をした。

 腕組みをして、なんだか偉そう。

「ああ、昼飯か。よいぞ? 私はコーヒーが旨い店がよいな」

 思わず吹き出す。

「あはは。なにそれ、秋次郎さんのつもり? 似てない。秋次郎さんのほうが全然カッコイイ」

「えー、全然イケてるって思ったんだけど」

 一番前の二瀬くんも噴き出して、それから眉をハの字にしてあたしたちを見上げた。

「ふたりとも、『全然の使い方が間違ってる』って秋次郎さんに叱られるよ?」

「ああー、そうだった。あはは」

 石段の途中の鳥居。

 ふたりに続いてくぐったところで、思わず立ち止まる。

 どうしてだろう。

 ふと、誰かに名前を呼ばれたような気がした。

 振り返って見上げると、その苔むした鳥居は遠くの空を見つめるように静かに立っていた。

 悠くんも立ち止まって、振り返ってあたしを見上げている。

 あたしはハッとして、それから回れ右して鳥居に向かって気をつけした。

「秋次郎さん、志保さん、またいつかね」

 きっと届かないんだろうけど、きちんとお別れを言ってなかったなって思って。

 ちょっと戻って横に並んだ悠くんが、そっとあたしの手を握ってくれた。

 ふたり目が合って、思わずクスッと笑う。

「またね、だな」

「うん。またね、だね」

 あたしがうんうんと頷くと悠くんはにっこり笑って、あたしの手を引いてゆっくりと石段を下りはじめた。

 温かい手。

 とっても安心する。

「ねぇ、悠くん。秋次郎さん、志保さんに会えたかな」

「うん?」

 悠くんがすっと空を見上げて、それから呟くように言った。

「そうだね。きっと会えたよ」

 ゆっくりと下る石段。

 あと少しで終わり。

 そうして、一番下の鳥居のところまで下ったところで、なぜか突然、悠くんがあたしの手をぱっと離して、それから残りの数段を歩道まで一気にジャンプした。

「え?」

 ちょっと意地悪な顔になった悠くん。

「さー、お嬢さん、あとはおひとりでー」

 そう言って舌を出した悠くんは、手を振りながら学校のほうへ走り出した。

「ええー? ちょっと待ってよー!」

 突然、一番下の鳥居の前でひとり取り残されたあたし。

 慌ててあたしも残りの石段を駆け下りると、木の陰が切れて周りがすうっと明るくなった。

 歩道に出たところで立ち止まる。

 ふと車の音が途切れて、どこかずっと遠くで、プロペラ飛行機が飛んでいる音がした。

 見上げると、都市高速道路の上に広がっていたのは、抜けるような真っ青な空。

 ちょっと肩をすくめて、大きく息を吸う。

「秋次郎さんの飛行機、いまどのあたりを飛んでいるのかな」

 無意識に出た独り言にちょっと自分で笑いながら、学校のほうへと視線を戻す。

 すると、歩道の先に見えたのは、彼の姿。

 駆けて行ってしまったと思った悠くんは、二瀬くんと一緒にそこに待っていてくれた。

「結衣、早くおいで」

 すっと手を差し出した、悠くんの笑顔。

 大人っぽくて頼もしい、素敵な素敵な、その笑顔。

 あたしはすぐに思い切り不機嫌な顔を作って、悠くんのそばまで駆け寄った。

「あれ、怒った? 顔が真っ赤」

「もうっ」

 あたしは差し出されていた手をちょっと乱暴に引き寄せて、それからぎゅーっと力を込めた。

 きょとんとする悠くん。

 そしてあたしが投げたのは、あのときと同じ、あの言葉……。

「勝手に居なくならないでくださいね? あたし、許しませんから」

 ちょっとだけ悠くんとは違うほうを向いて、ちょっとだけ上がった口元に気付かれないようにして。


            おわり

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