背中を押され

 それから1週間が過ぎた。智子は普段と変わらない生活を送っているように見えたが、その実ずっと心ここに在らずの状態にあった。小説を書いていてもふっと自費出版のことが頭に浮かび、智子に決断の時を迫っているように思えた。


 葵の言葉は、智子にこれ以上ないほどの励ましを送ってくれたが、それでも決断するにはまだ勇気が足りなかった。出したいという気持ちは痛いほどある。だけど、売れなかった時に自分が受けるダメージのことを思うと、どうしても一歩を踏み出すことができなかった。

 

 葵は他の人にも相談すればいいと言ったが、あいにく他の人には自分が作家を目指していることを話していない。実家の両親に打ち明けようかと思ったが、もし反対されて、葵が与えてくれた勇気が挫けてしまうことを思うとそれもためらわれた。他にいないだろうか。葵以外に、自分の背中を押してくれるような誰か――。


 そこでふと、智子の頭にある記憶がよぎった。今から2年前、新人賞への応募をためらっていた時に、ある人から聞いた言葉を思い出したのだ。


 彼女は言った。作家になるために必要なのは、自分の才能を信じて書き続けることだと。いずれ作家になれる可能性を信じ、自分の道を閉ざさないことだと。智子はその言葉に強く背中を押されて新人賞への応募を決意した。もし、あの時自分が彼女の言葉を聞かず、新人賞への応募を諦めていたら、自費出版の話が舞い込んでくることもなかったのだ。


 彼女が自分の立場ならどうするだろう。智子はしばらく考えた後、きっと出版する方を選ぶだろうと思った。彼女は作家を志してから、デビューするまで5年間にわたって作品を書き続けた。それだけの情熱を執筆に傾けていた人が、金額が法外だという理由で、あるいは現実に直面するのが怖いからという理由で、夢を摑めるかもしれないチャンスをふいにするとは思えない。


 智子はしばらく逡巡した後、おもむろにPCを起動した。メール画面を立ち上げ、受信ボックスから名前を検索する。『文栄社 松下史恵まつしたふみえ』――。智子はその宛名を選択すると、震える手で本文を入力した。




 その翌日、智子の携帯電話に一件の着信が入った。帰宅途中で着信に気づいた智子は、表示された名前を見てすぐさま通話ボタンを押した。電話口から明瞭な声が聞こえる。


『田原智子さんですか? 私、株式会社文栄社の松下と申します。今少しお時間よろしいでしょうか?』


「あ……はい。どうぞ」


 智子は人気のない駐車場に移動した。松下と電話で話すのは初めてだ。何となく年配の女性を想像していたが、声が意外と若いので驚いた。


『このたびは出版をご承諾いただきましてありがとうございます。一度お礼とご挨拶を差し上げたいと思いまして御連絡させていただきました。田原様のご英断に添えるよう、弊社としても尽力して参りますので、今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます』


「あ……はい。よろしくお願いします」


 淀みなく話す松下に対し、智子の口調はたどたどしかった。自分が出版社の編集者と直々に話をしているという事実が未だに信じられなかった。これじゃ本当に作家みたいだ。


 その後、松下は今後の流れを一通り説明した。契約書への署名、出版委託金の入金、担当者の決定――。話を聞くたびに自分が本当に出版をするのだという実感がこみ上げてきて、まるで新しい世界が開かれたような高揚感が広がっていく。


『……説明は以上でございます。何かご質問はございますか?』


 松下が尋ねてきた。出版への期待に胸を高鳴らせていた智子は、我に返って慌てて答えた。


「あ、いえ、大丈夫です。もし何かあれば松下さんに連絡すればいいんですよね?」


『はい。私がこのまま担当を務めさせていただきますので、ご不明な点があれば何なりとお申し付けください』


「わかりました。よろしくお願いします」


 智子はそう言って頭を下げた。てっきり松下からも挨拶が返ってくるものと思っていたが、そこで不自然な間が空いた。智子が訝っていると、不意に松下の声が聞こえた。


『……やっとお会いできましたね、田原智子さん』


 突然口調が変わった松下に、智子は当惑を隠せなかった。松下は続けた。


『私……実は以前、あなたが弊社に応募してくださった、[朝焼けを迎えて]という作品を読んでいたんです。とてもいい作品だとは思っていたんですけど、私の力不足で選考に残せなくて、ずっと悔しい思いをしていました。あなたには素晴らしい才能があるのに、それを伝えられないのがもどかしくて……』


 智子は自分の耳を疑った。[朝焼けを迎えて]といえば、智子が新人賞に応募した最初の作品だ。自信があったのに一次落ちし、箸にも棒にも掛からなかったと落ち込んでいた。その作品を、実は編集者が見初めていてくれたというのか。


「何とかしてあなたに講評を伝えたいと思っていたんだけど、その方法が見つからなかった」松下は続けた。

「でも、それからしばらくして、上司の勧めで小説投稿サイトを調べたら、あなたの作品が載っているのを見つけて……私、本当に安心したんです。あなたは落選しても夢を諦めずに、書くことを続けてくれたんだと思って……。だから私も、あなたが夢を叶える手助けをしたいと思って、気づいた点を感想として書かせてもらったんです」


「え、それって……」


 智子は記憶を手繰り寄せた。[朝焼けを迎えて]に感想をくれた数名の中に、まるで講評のような詳細な感想をくれた人が一人いた。


「もしかして……『Fumi』さんって松下さんなんですか!?」


 智子が仰天して尋ねた。『Fumi』は長編小説に丁寧な感想をくれるユーザーだ。感想は的を射た内容ばかりで、まるで編集者のようだと思っていたが、まさか本物だったのか。


『ええ……。編集者としては関われなくても、個人としてあなたを応援したいと思って。だから今回、ようやく正式な編集者としてあなたとお仕事をすることになって、本当に嬉しく思ってるんです』


 そう言った松下の声は優しげで、編集者というより友人のようだった。

 あまりにも衝撃が大きすぎて、智子はなんと返事をすればよいかわからなかった。葵以外にも、自分を陰ながら応援してくれた人がいたというのか。アマチュア作家でしかない自分に期待を懸け、夢を叶えるための力添えをしてくれた――。

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