影の功労
「あたしは智子の作品をずっと読んできた」葵が改まった口調で言った。
「だから思う。智子の作品が本になって、書店に並ぶところを見たいって。
智子はさっき、素人の本なんて買う人いないって言ったけど、そんなことわかんないよね? 誰かがたまたま智子の本を書店で見かけて、興味持って買ってくれる可能性だってあるじゃん? で、その人が作品を気に入って口コミで評判広がったら、本当に作家としてデビューできるかもしれないよね?
あたしは智子に作家になってほしいし、自費出版でその可能性が広がるなら、試してみてもいいと思うんだ。もちろんお金出すのはあたしじゃないから、無理にはとは言えないけどさ」
「葵……」
智子は感じ入ったように呟いた。葵は本気で自分を応援してくれている。悩みに寄り添うだけでなく、一人のファンとして、自分が作家になることを心から願ってくれている。これほどできた友人がいるだろうか。
「ね、智子自身の気持ちはどうなの? 自分の本、出してみたいって気持ちはないの?」
葵が問いかけた。智子は視線を落として考え込んだ。どうなのだろう。最初に自費出版の案内を受けたとき、高揚感を覚えたのは事実だ。自分の作品に表紙や帯が付いて、手に取れる形でこの世に生まれる。たとえ店の片隅であったとしても、プロの本と同じように書店に並び、人目に触れる機会を持てる。それは確かに抗いがたい魅力ではあった。
「そりゃ出したい気持ちはあるよ。実際、自費出版がきっかけでデビューした作家も何人かいるし。でもあたし、自分がその中の一人になれるとは思わないんだよね」
「どうして?」
「だって都合よすぎるじゃん? 自分の出した本が売れて有名になるなんて、ただの夢物語としか思えないし、出版社の口車に乗せられてるだけじゃないかって気がする」
「まぁ、確かに向こうは商売だけど……。でも、声かけられたってことは、出版する価値があるって認めてもらえた証拠じゃないの? せっかく出すなら向こうも売りたいだろうし、誰にでも声かけてるわけじゃないと思うけど」
「うーん、でもそれなら何で選考に落ちたんだろ? 本当に出版したいって思ってるんだったら、最初から選考に通すはずだよね? それが落選したってことは、出しても売れないって判断されたんだと思うんだけど」
「どうなんだろ。あたしも賞のことはよくわかんないけど、単に編集者の好みに合わなかった可能性もあるんじゃない? 落選したからって、智子の作品が面白くなかったとは限らないと思うんだ。実際、サイトでも読んでくれてる人はいるんだからさ、そこまで自分否定することないんじゃない?」
智子は何だか胸が熱くなってきた。葵は言葉を尽くして自分の作品に価値があることを伝えようとしてくれている。これだけ熱心に応援してくれている友人――いや読者がいるのだから、その期待に応えたいという気持ちはある。
だがその一方で、どうしても躊躇する気持ちがあるのも事実だった。単に金額の問題ではない。もし自費出版をして、読者に直に作品を届ける機会を得て、それでも全く売れないという現実を目の当たりにしたら、自分には作家としての資質がないという現実を突きつけられる気がしたからだ。
「……そうだね。ありがとう、いっぱい励ましてくれて」智子が目を細めて言った。
「葵があたしのこと応援してくれるのは本当に嬉しいし、あたし自身、可能性を試してみたいって気持ちもある。でも、やっぱりもうちょっと考えさせてもらってもいいかな? 人生の一大イベントみたいなものだし、簡単には結論出せなくて」
「もちろん」葵はあっさりと頷いた。
「あたしは部外者だから好き勝手なこと言えるだけで、最終的にお金出すのは智子だもんね。100万円ってやっぱり大きいし、迷うのは当然だと思う。
だからあたしだけじゃなくて、いろんな人の意見聞いて決めればいいよ。どっちを選んでも間違いじゃないし、智子が後悔しないことが一番大事だからね」
そう言って微笑む葵を見て、智子は何だか泣きそうになってきた。自分の意見を押しつけるのではなく、智子の迷いも葛藤も全て理解した上で、それでも最後まで味方でいてくれる。智子は改めて、自分がいかにこの友人に支えられてきたかを知った。
「……ありがとう。あたし、葵が友達で本当によかった」
智子は泣き笑いを浮かべて囁いた。葵も照れたような笑みを返す。雑多なお喋りの飛び交う店内で、二人の座るテーブルだけが、心地よい理解と優しい沈黙に包まれている。
葵は自分には過ぎた友人だ。慈愛と真心を持って自分に寄り添い、献身と誠意を持って自分を後押ししてくれている。もし、葵がこの先深刻な悩みを抱えることがあったら、今度は自分が力になろうと智子は決意した。
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