恋の致死量

時無紅音

恋の致死量

 生気のない横顔を指の先でなぞると、ほのかに温もりが伝ってくる。

 この中にはまだ赤い液体が詰まっているのだ。彼が人間である証、或いは人間であった証が。今はもう動かなくなってしまったけれど、確かに彼は生きていたのだ。ほんの数分前まで目も口も手も足も動かすことができた。それを奪ったのは、胸元に刺さった三徳包丁。刺したのは他でもない、わたし。

 すでに彼は呼吸をしていない。あとは緩やかに冷たくなっていき、いずれは灰になり、土に埋められるのだろう。彼の墓には何を添えるべきだろう。花は好きだったはずだが、何の花が好きかを訊いた記憶がない。もっとも、彼は「花ならなんでも好き」と答えるだろうけど。

 殺したのはわたしなのに、にわかには彼の死が信じられなかった。心臓を貫かれたことによる痛みも苦しみも感じさせないほど、彼の死に顔があまりにも綺麗だったから。

 目を開けたまま眠る癖があった彼は、深い眠りに落ちているとき、生きているのか死んでいるのか分からないような人だった。しかし今は、静かに目を閉じている。口許は僅かに綻び、生きているように――死とは無縁の存在にすら思えた。そこにはある種の神々しさすら感じられる。

 鉄の臭いに満ちた部屋の真ん中で、のそりと立ち上がる。手に付いた血を洗い流すが、肉を貫いた感触までは取れなかった。流しには食器が溜まっているけれど、これらはもう使われることもないだろう。

 部屋を見渡す。七畳のワンルーム。家賃二万八千円。彼やわたしが通っている大学から徒歩五分ほどの好立地。近くにはスーパーやドラッグストアもあるから、生活には困らない。

 何度となく訪れた、彼の部屋だ。冷蔵庫とローテーブル、布団、小さな本棚だけが置かれた簡素な空間は、彼によく似合っていた。最低限の部屋。最低限の生活。最低限の人間関係。最低限の中で彼は生きていた。息を吸うことにすら必死にならなければ生きていけないような人だった。

 社会に向かない人だったと思う。人間に向かない人だったとも思う。その目が写すのはいつも自らの足下で、空の色を知っていたかすら怪しい。彼と出会い、恋人となって数年になるが、どれだけ時間を重ねても、どれだけ心を重ねても、どれだけ身体を重ねても、彼と視線を交わした瞬間を数えるのに片手すら必要ない。ただ一度だけだと、瞬時に答えることができるから。

「殺してほしい」

 まっすぐにわたしを見つめて、彼はそう告げた。無口で喋ること自体が苦手だった彼にしては珍しく、少しも言い淀むことなく。

 だから迷わず包丁を手に取ることができた。彼はきっと、たくさん悩んだことだろう。死ぬべきか、死なないべきか。わたしに身を委ねるか、他の方法を選ぶか。そのうえでお願いされたのだから、応えないわけにはいかない。

 冷蔵庫の中を見ると、冷えた空気がたっぷり詰め込まれているだけで、何も入っていない。野菜もビールも卵も、にんにくや生姜のチューブすらなくなっていた。部屋にものが少ないのは彼の元からの性分だが、普段は転がっていた酒類の缶や野菜ジュースのペットボトルが今日はどこにも見当たらない。明らかに死への布石だ。彼は今日、ここで死ぬと前もって決めていたのだろう。恐らく、わたしに包丁を握らせることも。わたしに断られることなんて、想像もしていなかったのに違いない。その期待に応えられてよかったと、心の底から思う。

 彼と目を合わせた回数同様、彼がわたしに頼みごとをしたのは、これが初めてだったから。

 デートしようと言い出すのはいつもわたしだし、告白もわたしからだった。わたしたちの関係において彼は常に受動的で、わたしがどれだけ愛を伝えても、彼から返ってきたことはない。それこそただの一度も。それを寂しいと思わなかったし、むしろそういう部分にこそ愛を感じていたくらいだ。愛情表現が苦手なんて、いかにも彼らしいから。

 それに殺してほしいなんて愛の究極系と言っていい。わたしだったら、少なくとも嫌いな人に殺されたくはない――最後に会う人間が嫌いな人なんて、死んでも死にきれない。どうせなら愛する人の手で殺されたいと思うのは、ごく自然なことだ。だからこれは、彼にできる精一杯の愛情表現だったのだと思う。わたしにとってもそうだ。彼が好きだから、彼を殺した。好きな人の最期を見届けられるなんて、幸せ以外の何物でもない。

 二人で囲むには少々サイズの小さいローテーブルも、冷蔵庫同様に片づけられている。普段は食事に使われていたものだが、彼はお湯を沸かす以外の調理法を知らなかったので、わたしが家に来なかった日は三食カップ麺の日もざらにあった。そのうえ片づけという概念を持ち合わせていなかったから、テーブルの上にはいつも麺類の容器が積み重なっていたものだ。

 わたしはここ二日ほど予定があったのでこの家には来ていない。本来ならゴミがなければおかしいはずだが、テーブルに置かれているのは財布と家の鍵だけ。この二つはいつもリュックの中に入れられているはずだが、この部屋のどこにもリュックはない。恐らくリュックはゴミに出したが、この二つは捨てるわけにもいかないから、テーブルの上に置いたのだろう。

 そういえば、財布の中身はそのままなのだろうか。死ぬにあたって、これだけ身の周りを整理しているのだ。お金もすべて使い切ってしまったのだろうか。

 気になって、生地の薄い長財布を開く。一万円札が二枚と、千円札が四枚。小銭は一円と五円が数枚あるだけだ。小銭は重いから持ちたくないと言って、彼はよく自販機で百円玉や五百玉を消費していた。この二種類は自販機で使えないから、残ってしまったのだろう。

 カードのたぐいは、保険証とスーパーのポイントカード、学生証の三種類。財布の中身はそれで全部だった。

 なるほど、最低限を好む彼らしい構成だ。財布を元の位置に置こうとして――ふと思い立ち、学生証を手に取る。

 学生証だから当然、顔が分かるように写真が貼られている。今のわたしたちが大学三年だから、この写真が撮られたのは約三年前。高校三年の頃だろう。首もとがよれよれの黒いシャツを着ている彼は、今よりもずいぶんと痩せこけているように見えた。

 わたしと彼が出会ったのは大学一年のとき。そのときの彼はどうだったかなと思い出す。彼は写真を好まない人だったので、おぼろげな記録を辿るしか確かめる手段はないのだが、たしかに今の彼の方がずっと健康的な見た目をしている。彼の生活がそう変化したとは思えないので、わたしがご飯を作るようになったことが原因なのかもしれない。

 そういえば、わたしと彼が出会ったのはちょうどこの学生証が理由だ。彼が学生証を落とし、たまたまわたしが拾った。それが全ての始まりだ。お礼ということで一度、学食を奢ってもらって、それから彼に話しかけるようになって、それで……。

 学生証をしまい、仰向けに寝転がったまま微動だにしない彼の横に座る。胸に刺さった包丁の根本で、黒く変色した血が固まっていた。付き合い始めたきっかけはこの包丁だ。

 ある日、彼は大学に来なかった。サボっても他にやることがないから、と今まで一度たりとも欠席したことのなかった彼が。

 何かあったのかとも思ったが、彼はスマホも何も持っていない珍しい人種だったので、連絡も取れない。家の場所は聞いていたから行ってみると、彼は重度の風邪で寝込んでいたのだ。何か栄養のあるものを食べさせたほうがいいだろうから、冷蔵庫にあったネギなどの野菜を使ってお粥を作った。その時に野菜を切ったのが、他でもないこの包丁だ。

 それから週に二、三回ほど彼に料理を振る舞うようになって、終電を逃してしまって仕方ないから泊まったりもして、やがて恋人となり、今に至る。

 思えばあの時こそ彼は死にそうな顔をしていた。少なくとも最近の彼は血色もよく、ともすれば現状に幸せを感じることもあったのではないか、と思う。

 一つ、疑問がある。

 なぜ彼は、死にたがったのか。

 わたしは彼に殺してほしいと頼まれて、理由も訪ねずに殺した。訪ねる必要もないと思ったから。

 けれど、考えてみれば不思議なものだ。

 出会ったころの彼と比べれば、今の彼は人並みの生活をしている。

 食事もカップ麺ばかりではないし、講義も適度にサボる。友人が少ないのは相変わらずだけど、わたしという恋人もできて、少なくともわたしの目には、彼は幸せそうに映っていた。

 死ぬなら今ではなく、わたしと出会う前の方が適切なタイミングに思える。

 なぜ彼は、他でもない今、殺してほしいと言ったのか――

 その答えは、本棚の中にあった。

 他の家具とは違い、本棚の中はもともと空白が多かった。大学で使う教科書類が並んでいて、あとは小説や漫画が数冊ある程度。そこだけはいつもとなんら変わない。

 彼には趣味らしい趣味がない。ゲームはしないし、スポーツも勉強もからっきし。家事の頻度もあからさまに低かったし、これといって読書を好んでいたわけでもない。わたしが連れ出さないかぎり、彼はこの部屋で惰眠を貪るのが常だった。

 そんな彼の部屋に、なぜ本棚があるのか、以前気になって訊いたことがある。

「だって部屋が汚いと、大切なものが見つけにくいから」

 それらを見つけやすくするための本棚なのだと、彼は言った。

 大切なもの――それが教科書や小説、漫画を指して言った言葉でないことは確かだ。教科書はよく使うからすぐ手に取れるところに置いてあっただけだろうし、漫画も一度流し読みしただけで二度と開くことはない。小説に至っては初めの数ページだけ読んでそっと閉じたところを何回も目撃している。

 では彼の言った「大切なもの」とは何だったのか。

 本棚を注視すると、頻繁に出し入れしていたであろう教科書類を除けば、他の本は埃を被っているものがほとんど。その中で一冊だけ、綺麗なまま刺さっている小説があった。

 小説を手に取って、開く。そのとき、一枚の紙が本の中から滑り落ちた。

 映画の半券だった。日付は三年前で――わたしと彼が初デートで見に行った映画のものだ。

 残念ながら、内容はあまり覚えていない。彼の他に恋愛経験なんぞなく、緊張していたから。

 唯一覚えていることと言えば、人が殺される映画だったことだ。

 それだけ覚えているのは、見終わった後に彼と話したから。いつ、どこで、どんな風に死にたいか。

 彼は言った。


「いつ死んでも、どこで死んでも、どんな風に死んでもいいから――人生で一番幸せだって思える時に、死にたい」


 ぽたぽたと、こぼれ落ちるものがあった。

 気が付けばわたしは、彼の胸から包丁を抜いていた。

 刃先から垂れた粘度の高い液体が、わたしの服を赤く染め上げていく。けれど、大して気にならなかった。

 彼にしたように、刃を自分の胸へと向ける。


 ――ねえ。

 わたしもいま、人生で一番幸せよ。

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