第6話 籠城

 百合は手前にあったトイレのドアノブに手をかけた。ゆっくり引き、わずかに空いた隙間に滑るようにして入り込む。

 そして鍵を閉めた途端、その選択が失敗だったことに気がついた。


 百合の家のトイレは、将来のことも考え、介護に適した造りだった。そのため、扉は引き戸。鍵は摘みを縦から横にする物ではなく、上から下に下ろす形の物である。


 ガチャン!


 音が響いた。


 ど、どうしよう。気づかれたかな。一応、リビングのドアが間にあるから、緩衝材かんしょうざいの代わりになると良いんだけど。


 そ、それに、自転車の籠に花を入れた変質者じゃなくて、泥棒かもしれない。それなら、私を無視してくれるかも。


 百合は狭い部屋の中、スマホを両手に持ち、希望的観測を予想した。が、果たしてその線が“希望”と言っていいのか怪しかった。

 だが、仮に相手が変質者だった場合を予想し、頭をフル回転させる。ただ何もせずに、震えていることよりも、他に何かできることを探したのだ。


 どのみち、ここで侵入者を迎え撃たなければならない。閉じた扉から、顔を覗かせる人物を想像し、百合はゾッとした。


 トイレの鍵は、玄関や他の鍵と違い、差込口がない。しかし、表には使用中などを知らせるものがある。百合の家の場合、丸い形に溝が一本ある形だった。それは爪で簡単に開けることができてしまう。


 そうだ、引き戸ならつっかえ棒……ってないじゃん!


 中にある掃除道具を見ても、使えそうな物は置いていない。そうしている間に、扉から音が聞こえた。


 始めは力づくで開けようとする音。次に鍵をあけようとする音。


 百合は急いで、扉の端に手と足を掛け、空いている縦枠に背を付け、つっかえ棒の代わりになった。


 泥棒じゃなくて、やっぱり変質者!?


「あれ? 開かない」


 相手側から扉に力が加えられた感触がした。力はそんなに強くなかったのは、すぐに開くと思ったからだろう。それと同時に、侵入者の声が聞こえた。


 声は若い男のものだった。聞いたことがな……いや、似た声を、何処かで聞いたような気がした。


 どこだろう、と百合が思っている間に、侵入者は何か呟いた。


「もしかして……」


 相手の次の行動が読めない、この時間が百合は怖かった。すると、突然扉がノックされた。


「そこにいると危ないよ。大人しく出てきてくれないかな」


 侵入者は優しく声を掛けてきた。言葉の内容から、百合がつっかえ棒の代わりをしているのだと悟った。


 こういう時、どうすればいいの? 返事をするべき?


「出てこないと、怪我をすることになるんだから」


 可笑しなことを侵入者は言う。出て行こうが出て行かなくても、危険であることには変わりない。


「う~ん。本当はこんなことはしたくはないんだけど」


 な、何をする気? と思った瞬間、扉を思いっきり叩かれた。凄い音ともに、扉に触れていた手と足に振動がきて、痺れたような錯覚を味わった。


 思わず扉から手と足を離す。それを狙っていたのだろう。扉が動き出し、百合も急いで押し返した。だが、所詮女子高生の力。侵入者が本気で開けようとすれば敵わない。


 相手もそれが分かっているのか、最初から全力では来なかった。


「そんなに拒否されると傷つくんだけどな。お花、好みじゃなかった?」


 何? 花をあげれば好意を抱いてくれる、なんてそれこそ頭の中、お花畑なの?


「ねぇ、いるんだよね、百合ちゃん」


 いつまでも返事をしない百合に向かって、侵入者は確認するように、名前まで出してきた。これではっきりした。侵入者はこの二ヵ月間、百合を悩ませていた変質者だ。


 というか、警察! 早く来て!


「百合ちゃん」


 侵入者が発する、ちゃん付けの呼び名が気持ち悪くて、百合は必死に心の中で助けを求めた。


 今はまだ、優しく語りかけて来るが、いつ豹変しても可笑しくはない。けれど、百合にはそれを阻止する術を知らない。

 突然来るかもしれない衝撃に備えて、ただ扉を抑えることしか出来なかった。



 ***



 いつまでも返事が来ないことに、とうとう侵入者は痺れを切らした。もう一度、扉を強く叩かれたのだ。

 それを皮切りに、立て続けに叩いていく。


 百合は振動が伝わってきても、さっきのことがあったため、手と足を離さず、必死に耐えた。


 い、痛い……。


 扉の揺れがどんどん大きくなっていく。その度に、百合の手と足も、本人でも分からないくらい、数ミリずつ離れていたのだろう。


 百合の方からは見えなかったが、僅かな隙間が発生していた。そこに侵入者が指を入れる。


 目を閉じていた百合はまだ気づいていない。扉を叩くのを侵入者がやめていなかったからだ。そうして、侵入者はゆっくりと扉を開けていく。少しずつ。少しずつ。


 突然、音が止み。百合が終わったのかと目を開けると、


「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 扉の隙間から、目元まで出た侵入者の顔が見えた。真横に傾いた男性の顔。嬉しそうな目元。決め手は、あの声だった。


「百合ちゃん、大丈――……」


 もう一度発せられた侵入者の声が途切れた。それと同時に、沢山の足跡が聞こえてきた。


 誰か、警察が、来たんだ。


 そう思った時、トイレの扉が開いた。驚いた衝撃で、扉から離れていたため、百合に当たることはなかった。


「もう大丈夫よ。遅れてごめんなさい」


 女性警官は百合の怯えた姿を見て、すぐに駆けつけて、優しく抱き締めた。背中を摩られ、もう大丈夫なのだと分かった瞬間、百合は泣いた。

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