第5話 来訪者

 それから百合は、穏やかな日々を過ごしていた。


 始めの頃は、二ヵ月振りというのもあり、その前はどんな心境でいたのか、すっかり忘れてしまうほどに戸惑っていた。思った以上に、あの出来事が心を支配していたらしい。


 ただ自転車の籠に、花を入れられていただけなのに……。


 冴にも勿論、連絡を入れていた。その時“ほら、やっぱり言った方が良かったでしょう”と返事が来た。


 その後の百合の様子が気になったのか、冴とは連絡を頻繫に取り合う様になっていた。


 塾の様子は相変わらず、夏期講習で少しピリピリした空気はあるが、至って平和であること。あれから駐輪所を確認したが、百合の自転車のように花が入っていた籠はなかったことまで、教えてくれた。


 まるで、解決したら戻ってきて、と言ってくれているようで、心がとても軽くなった。


 百合はスマホを机に置いて、教科書とノートに向き合う。塾を休んでいても、今は夏休みである。

 本来なら、学校の友達と遊んでいる頃だろうが、さすがにそんな気分にはなれなかった。


 父親が警察に連絡をしてから、念のためということで、自宅と塾の周辺を巡回ルートに入れてくれることになった。


 多分、私だけなら、警察もそこまではしなかったと思う。でも、ターゲットが塾生だった場合も考えて、塾の方から警察にお願いしたんじゃないかな。だから、ここまでしてくれている。

 そんな私が、夏休みだからといって、気軽に遊びに行くと言うのは……ちょっと、不謹慎だと思う。


 さらに、塾に復帰した後、授業について行けない、なんてことになるわけにもいかず、百合はこうして勉強に励むしかなかった。


「百合ー!」


 もう一度スマホを見ようと、手を伸ばした瞬間、下の階から母親の呼ぶ声が聞こえた。まるで、サボろうとしたのを咎められたような気分だった。


 百合は立ち上がり、部屋のドアを開けて、下に向けて返事をする。


「何ー!」

「お母さん、買い物に行ってくるから!」

「分かった!」


 いつもなら、いちいちそんなことで声をかけないでよ、と思っていたところだ。しかし今は、一人になるから用心するのよ、という意味を含んでいるため、邪険にできなかった。


 部屋のドアを閉めながら、大丈夫、と心の中で唱えた。だって、何もなかったんだから。



 ***



 塾に行かなくなってから、一人で留守番をすることは何度もあった。


 当然、始めは怖かった。休まず通っていたのだから、突然やめれば不審に思われるだろう。しかも、警察の巡回もある。


 恐らく、百合の自宅までは知られていないだろう、と安直に考えていたが、犯人が塾の関係者だったら?

 自宅の住所など、すぐに分かってしまう。さすがに塾内でも、警戒しているだろうが、アルバイトの先生もいると聞く。そのすべてを管理できるだろうか。


 その都度、百合はこう自分に言い聞かせていた。


「自意識過剰になっちゃダメ!」


 もう犯人は、百合になんて構うのをやめているはずだ。そう思い込むことにしたのだ。


 静かな部屋の中、再び机に向かう。けれど集中できない。なら、先ほど手に取れなかったスマホを取ろうとするが、そんな気分にもなれなかった。


「何か飲もうかな」


 そう思うと、スマホを片手に百合は部屋から出て行った。



 ***



 百合の部屋から階段までの間はとても短い。だから先ほど母親へ返事をする時、部屋を開けただけで返せたのである。わざわざ階段まで行く必要はない。


 階段を下りて、廊下に出るとすぐにリビングの扉が見えてくる。

 その先には目的地であるキッチンに繋がる扉。さらに向かい側には、トイレと脱衣所の扉がある。玄関は今、百合が立っている廊下の反対側だった。


 百合が手に掛けなければならないノブは、奥にあったが、キッチンはリビングと繋がっているため、どっちを開けても変わらない。だから、手前にある扉のノブに触れた。


 その瞬間、物音が聞こえた。何かが割れる音。


 どこから……? いや、その前に連絡しないと。


 あれは、あの音は、ガラスが割れた音だ。


 嫌な予感がして、音を立てないように後退る。ゆっくり、後ろへ。そして、次は横へと。


 どっちの横? 右はトイレと脱衣所。左は玄関だ。


 一瞬、玄関が頭を過ったが、その音を聞きつけた侵入者が、外まで追いかけて来たら? 連絡した警察がどれくらいで駆け付けくれる?


 そう思ったら、百合の足は右へと動いていた。侵入者は今、百合が家の何処にいるか、知らないはずだ。籠城も視野に考え、賭けることにした。


 スマホに登録した、担当の警察官の番号に連絡しながら。

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