第3話 とある漁師の独り言
白く、白く、ただひたすらに、白く広がる空間があった。
屋外なのか、室内なのか。
地面はあるのか。床はあるのか。
空はあるのか。天井はあるのか。
そもそも、ここは
すべてが判別不能な空間に、三つの人影が
すると彼らの向かって正面にあたる前方から、一人の女がゆっくりと近づいてきた。おそらくは来訪者であるらしき彼女は、この〝空間〟に面食らったかのように、小刻みに首と眼球を震わせている。
『ようこそ。ミストリアンクエストの世界へ』
女が目の前で立ち止まるなり、三人の中央に位置していた、白髪の老人が優しげな声で
『あの……。ここは?』
『ここはミストリアスの入口。異世界への移住を希望だね?』
女の質問に、老人は時おり眼鏡を押し上げながら、淡々と〝異世界〟の解説を開始する。これから彼女が向かう異世界の名、その成り立ちと存在理由。そして
『じゃあ、異世界へ連れていってくれるんですか? そこへ行けば、私も……?』
『ああ、そうとも。その世界では、
老人は優しげな表情のまま、青みがかった視線を女へ向ける。彼の肉体には、老化による明らかな
対する黒髪の女は胸の前で拳を結び、
『異世界転生だよ! それが目的で
女の態度に
『――落ち着いて。すでに別物とはいえ、
『決心が出来ないなら、永遠に
老人の言葉を継ぐかのように、彼の左側に立っていた少女が目を伏せたまま、
『俺はゴメンだね! もしも居座るんなら、どっか遠くに消えてくれよな。俺らや
『はは、すまないね。この子は人見知りをする性格でね。この
博士と呼ばれた老人は赤子を寝かしつけるかのように、少年の背中を優しく叩く。すると少年は口を
*
『やれやれ。それでは、まずはゆっくりと考えて――』
『行きます!』
老人の言葉を
『良いのだね? 行けば、もう二度と引き返せない』
『はい。もう私は死んだ――いえ、逃げたんです。あの世界から……。だから、どこにも帰れる場所なんて無い……』
『結構。では、これを君に』
老人は
『ミストリアスへ着いたら〝
『私の……。名前?』
『そうだ。くれぐれも、
女は
『はい。わかりました』
『よろしい。それでは〝なりたい姿〟を思い描きながら、真っ直ぐに進みなさい。容姿や性別はもちろん、人間以外になることだって可能だよ。それでは、よい旅を』
『い……。いってきます』
老人に深々と
*
『なりたい姿……。なりたい姿……』
彼女は同じ言葉を何度も呟きながら、どこまでも続く空間をひたすら進む。
『人間以外……。でも虫とか動物は絶対に
老人の言葉を勘違いしているのか、思考が声に
『異世界では長生きしたい。若いままで生きていたい。こんな私じゃなく、もっと派手で、明るくて、活発で――! そう、元気な女の子になりたい……!』
女が、そう言った直後――。
彼女の姿は白き闇に溶け、一面に〝白〟が広がった。
そして次の瞬間には、彼女の視界は真っ白な闇の空間から、薄暗い屋外の風景へと移り変わっていた。
*
『えっ? ここは……? もう着いたの?』
彼女は周りを見渡し、ゆっくりと真上の空を見上げる。天上には一切の
辺りに漂う空気からは、生物らの発する有機的な
そこで彼女は違和感に気づき、自らの顔や耳をペタペタと触る。顔の質感は今までとは異なって〝張り〟があり、何よりも自身の耳が、真横へと長く尖っている。
加えて声も若々しくなっており、
『すごい! 本当に異世界に来たんだ!』
彼女は少女のように飛び跳ねながら、前方に見える街へ向かって一気に駆けはじめた。しかし彼女は不意に立ち止まり、あの老人から言われた言いつけを思い出す。
『そうだ、名前……』
異世界へ着いたら名前を刻め――。そう彼に言われたことを思い出し、彼女は立ち止まって頭を
『私たち人間に名前なんて無い……。統一政府から与えられたのは、無意味なアルファベットと数字だけ……。みんなは〝その一部分〟を取って呼び合ってたけど……』
しばらく悩んだ末、彼女は木製の
すると、その直後――。
彼女の背中に、何か大きなモノが思いきりぶつかってきた。
*
『ひゃっ!? なっ、何……?』
『あらぁ? ごめんなさい。――うん? お嬢ちゃん、見ねぇ顔だな?』
『へっ? えっと……。あの……?』
彼女が振り向いた先には半裸の上半身に可愛らしいエプロンを
『うふっ。ちょっとランベルトスまで買出しにねぇ。――にしても、お嬢ちゃん。俺とぶつかって身じろぎもしねぇとは、大したモンだぜ』
『すっ、すみません……。少し考えごとをしてて。――っていうか、あの……?』
『あら、申し遅れちゃったわね。――俺はライアンって
そう言ってライアンなる中年男は彼女に向かい、軽くウィンクをしてみせた。
『名前……。えっと、私はオーエ……。オーウェル! オーウェルっていいます!』
『へぇ、オーウェルちゃんね。――あんた見たところハーフエルフみてぇだが、なかなかに体力がありそうじゃねぇか。なぁ、良かったらウチで働いてみねぇか?』
ライアンは言いながら、真っ白な歯を出して笑ってみせる。彼女――オーウェルは
『働くって、漁師を……? ですか?』
『ええ、そうよ!――いい歳こいた息子は馬鹿みてぇなチンピラ野郎になっちまって、跡取りが居なくってな。ロイマンってンだが、今頃どこで何してやがんだか』
『たっ……、大変なんですね……。うーん……。どうせ来たばっかりで、右も左もわからないし……。それなら……』
オーウェルは
『わかりました! ぜひ、やらせてください!』
『ふふっ、決まりねっ!――それじゃオーウェルよ、これからよろしく頼むぜ!』
ライアンはオーウェルと軽いハイタッチを交わし、二人で港町カルビヨンへの夜道を進む。炎のように真っ赤な髪と、血のように真っ赤な瞳をした少女。この娘はやがて、港町と〝漁猟団〟を引っ張ってゆく存在になれる。
この時よりライアンは、そう強く確信していた――。
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