第3話 とある漁師の独り言

 白く、白く、ただひたすらに、白く広がる空間があった。


 屋外なのか、室内なのか。


 地面はあるのか。床はあるのか。

 空はあるのか。天井はあるのか。


 そもそも、ここは何処いずこなのか。

 すべてが判別不能な空間に、三つの人影がたたずんでいた。


 すると彼らの向かって正面にあたる前方から、一人の女がゆっくりと近づいてきた。おそらくは来訪者であるらしき彼女は、この〝空間〟に面食らったかのように、小刻みに首と眼球を震わせている。


『ようこそ。ミストリアンクエストの世界へ』


 女が目の前で立ち止まるなり、三人の中央に位置していた、白髪の老人が優しげな声であいさつをする。彼は車椅子に腰かけているらしく、左手で車輪を操作しながら、軽く右手を挙げてみせた。


『あの……。ここは?』


『ここはミストリアスの入口。異世界への移住を希望だね?』


 女の質問に、老人は時おり眼鏡を押し上げながら、淡々と〝異世界〟の解説を開始する。これから彼女が向かう異世界の名、その成り立ちと存在理由。そして現在いまに至った経緯などを、彼女へ丁寧に話し終えた。



『じゃあ、異世界へ連れていってくれるんですか? そこへ行けば、私も……?』


『ああ、そうとも。その世界では、きみは何にでもなれる』


 老人は優しげな表情のまま、青みがかった視線を女へ向ける。彼の肉体には、老化による明らかなおとろえがみられるものの、そのそうぼうは強い意志がめられているかのごとく、真っ直ぐに彼女をとらえている。


 対する黒髪の女は胸の前で拳を結び、きょうたたえた視線を絶えず動かし続けている。とっくに少女の頃は過ぎ、もう若いと呼べる年齢でもない。いたって〝普通〟の、ひとりの女。



『異世界転生だよ! それが目的でんだろ? もっと喜べよな、オバサン!』


 女の態度にごうやしたのか、老人の右側に立っていた少年が声を荒げる。そんな少年をたしなめるように、老人が彼の肩に、そっと自身の右手を置いた。


『――落ち着いて。すでに別物とはいえ、原型もとは私が創った世界もの。すでに私の手は離れてしまったが、今でも〝なりたい姿〟程度ならば、与えられるはずだよ』


『決心が出来ないなら、永遠にに居ればいい。どうせ、もう戻れない』


 老人の言葉を継ぐかのように、彼の左側に立っていた少女が目を伏せたまま、よくようのない声でボソリとつぶやく。この黒髪の少年と少女は兄妹なのか、二人の姿はとても似通っていた。


『俺はゴメンだね! もしも居座るんなら、どっか遠くに消えてくれよな。俺らや博士はかせの視界に入らないくらい、ずっとずっと遠くにさ!』


『はは、すまないね。この子は人見知りをする性格でね。この入口空間エントランスはご覧のとおり殺風景ではあるが、最低限の個人用空間プライベートスペースならば提供するよ』


 博士と呼ばれた老人は赤子を寝かしつけるかのように、少年の背中を優しく叩く。すると少年は口をとがらせながらきびすを返し、白き闇の奥へと去っていってしまった。続いて左側に居た少女も軽いしゃくのあと、彼を追って走り去る。


             *


『やれやれ。それでは、まずはゆっくりと考えて――』


『行きます!』


 老人の言葉をさえぎって、女が大きく力強い言葉でそう答えた。いまだに瞳は震えているが、今や彼女の視線は真っ直ぐに、老人の青みがかったまなこへと向けられている。


『良いのだね? 行けば、もう二度と引き返せない』


『はい。もう私は死んだ――いえ、逃げたんです。あの世界から……。だから、どこにも帰れる場所なんて無い……』


『結構。では、これを君に』


 老人はかから、細いくさりのついた〝りの守護符アミュレット〟を取り出し、それを彼女の前へと差し出した。


『ミストリアスへ着いたら〝きり〟が出る前に、その裏面に名前を刻みなさい。君が、明確に〝君〟として生きるための、確固たるしるしを』


『私の……。名前?』


『そうだ。くれぐれも、なる時でも――守護符それを首から外さぬように。それさえ守れば、君は自由に生きることが出来る。そう、死すらも君をはばむことはない』


 女は守護符アミュレットを受け取り、それを自らの首から下げる。木製の本体には小さな水晶こそ埋め込まれているものの、見るからに簡素で安っぽい。


『はい。わかりました』


『よろしい。それでは〝なりたい姿〟を思い描きながら、真っ直ぐに進みなさい。容姿や性別はもちろん、人間以外になることだって可能だよ。それでは、よい旅を』


『い……。いってきます』


 老人に深々とをし、女は彼の指し示した方角へとからだを向ける。そして真っ直ぐに前方の〝白〟を見つめながら、ゆっくりと歩みを進めはじめた。



             *



『なりたい姿……。なりたい姿……』


 彼女は同じ言葉を何度も呟きながら、どこまでも続く空間をひたすら進む。


『人間以外……。でも虫とか動物は絶対にだ。あ、エルフとかでも良いのかな? でも〝おきて〟とかが厳しいと、〝元の世界〟と一緒だし……。うぅ……』


 老人の言葉を勘違いしているのか、思考が声にれているのか。彼女は独り言を呟きながら、なおも足を動かし続ける。しかしながら彼女の声はだいはずみ、期待に胸をおどらせているのが見てとれる。


『異世界では長生きしたい。若いままで生きていたい。こんな私じゃなく、もっと派手で、明るくて、活発で――! そう、元気な女の子になりたい……!』


 女が、そう言った直後――。

 彼女の姿は白き闇に溶け、一面に〝白〟が広がった。


 そして次の瞬間には、彼女の視界は真っ白な闇の空間から、薄暗い屋外の風景へと移り変わっていた。


             *


『えっ? ここは……? もう着いたの?』


 彼女は周りを見渡し、ゆっくりと真上の空を見上げる。天上には一切のほしは無く、暗黒の空に銀色に輝くルナが、ぴたりと頭上で静止している。


 辺りに漂う空気からは、生物らの発する有機的なにおいに混じり、わずかにしおの香りを感じる。少し前方には街があるらしく、木製の大きなアーチ型の門には〝KALVIYON〟と刻印されていた。



 そこで彼女は違和感に気づき、自らの顔や耳をペタペタと触る。顔の質感は今までとは異なって〝張り〟があり、何よりも自身の耳が、真横へと長く尖っている。


 加えて声も若々しくなっており、にも活動的な少女といった印象を与える、低めのこわいろへと変化していた。


『すごい! 本当に異世界に来たんだ!』


 彼女は少女のように飛び跳ねながら、前方に見える街へ向かって一気に駆けはじめた。しかし彼女は不意に立ち止まり、あの老人から言われた言いつけを思い出す。


『そうだ、名前……』


 異世界へ着いたら名前を刻め――。そう彼に言われたことを思い出し、彼女は立ち止まって頭をひねる。そして自身の腰にぶら下がっていた短剣を抜き、その切っ先を、守護符アミュレットの裏面に当てがった。


『私たち人間に名前なんて無い……。統一政府から与えられたのは、無意味なアルファベットと数字だけ……。みんなは〝その一部分〟を取って呼び合ってたけど……』


 しばらく悩んだ末、彼女は木製の守護符アミュレットの裏面に、二文字の神聖文字アルファベットを刻み込んだ。


 すると、その直後――。

 彼女の背中に、何か大きなモノが思いきりぶつかってきた。


             *


『ひゃっ!? なっ、何……?』


『あらぁ? ごめんなさい。――うん? お嬢ちゃん、見ねぇ顔だな?』


『へっ? えっと……。あの……?』


 彼女が振り向いた先には半裸の上半身に可愛らしいエプロンをり、長い金髪をしゅくじょのようにカールさせた、くっきょうな大男が突っ立っていた。彼の肩には大きなカゴがかつがれており、大量の野菜や雑貨類などが飛び出している。


『うふっ。ちょっとランベルトスまで買出しにねぇ。――にしても、お嬢ちゃん。俺とぶつかって身じろぎもしねぇとは、大したモンだぜ』


『すっ、すみません……。少し考えごとをしてて。――っていうか、あの……?』


『あら、申し遅れちゃったわね。――俺はライアンってもんだ。そこの港町カルビヨンで〝デスアーミーぎょりょうだん〟を率いてる、チンケな漁師さ』


 そう言ってライアンなる中年男は彼女に向かい、軽くウィンクをしてみせた。



『名前……。えっと、私はオーエ……。オーウェル! オーウェルっていいます!』


『へぇ、オーウェルちゃんね。――あんた見たところハーフエルフみてぇだが、なかなかに体力がありそうじゃねぇか。なぁ、良かったらウチで働いてみねぇか?』


 ライアンは言いながら、真っ白な歯を出して笑ってみせる。彼女――オーウェルはあっにとられながら、ライアンの顔を見て首をかしげる。


『働くって、漁師を……? ですか?』


『ええ、そうよ!――いい歳こいた息子は馬鹿みてぇなチンピラ野郎になっちまって、跡取りが居なくってな。ロイマンってンだが、今頃どこで何してやがんだか』


『たっ……、大変なんですね……。うーん……。どうせ来たばっかりで、右も左もわからないし……。それなら……』


 オーウェルはしばしのしゅんじゅんのあと、自らの両手に視線を落とす。そしてそれを強く握り、再度ライアンの黒いまなこを真っ直ぐに見つめた。


『わかりました! ぜひ、やらせてください!』


『ふふっ、決まりねっ!――それじゃオーウェルよ、これからよろしく頼むぜ!』


 ライアンはオーウェルと軽いハイタッチを交わし、二人で港町カルビヨンへの夜道を進む。炎のように真っ赤な髪と、血のように真っ赤な瞳をした少女。この娘はやがて、港町と〝漁猟団〟を引っ張ってゆく存在になれる。


 この時よりライアンは、そう強く確信していた――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る