第3話 アイデンティファイ

 ナナシは目が覚めた。まだたいよう――いや、太陽ソルの光は薄暗い。

 彼には名前が無かった。『ナナシ』と名づけたのは彼の友人だ。

 「エルス。元気にしてるかな?」

 ベッドから降りたナナシは鏡をる。

 黒い髪・黒い瞳の見知らぬ青年の顔。若者というには少し厳しい。手前といったところだろうか。

 首には、小さな水晶の付いた木彫りのお守りアミュレットがぶら下がっている。これは入浴時はおろか、眠る時ですら外さない。

 「おはよう。ナナシ」

 彼は鏡に向かって挨拶をする。まるで、自分自身が『ナナシ』であることを再確認するかのように。彼には、自分自身に関する記憶が一切残っていなかった。


 たくを済ませ、隣の部屋へ向かう。

 ――すでに二つのベッドは空だった。

 この家は農業を生業としている。二人とも起床し、それぞれの仕事を開始したのだろう。ナナシも農業に従事しているが、特殊な境遇だったため余分に睡眠をとることを許されていた。


 ナナシはベッドを横目に、リビングへ続く扉を出る。かすかにパンの焼けたにおいが残っている。義母のマイナが、彼の朝食をテーブルに用意してくれていた。

 みずがめから流れる水で、顔を洗う。仕組みはわからないが、水のせいれいせきを利用したどうらしい。

 「いただきます」

 ナナシはテーブルに着き、手を合わせる。マイナも、義父のカルミドも、彼と同様の動作を行なったのちに、食事を開始していた。

 パンをスープに浸し、味わいながら食す。水はさきほどのみずがめから注いだものだが、冷たく冷え、味も申し分ない。

 「ほうみず

 そうつぶやいたナナシは、思わず笑みをらす。彼自身がそう名づけたのだが、首をかしげる両親をよそに、ナナシは笑いのツボに入ったかのようにゲラゲラと笑っていた。

 「――あっはっは。しい」

 ほうすいのほうが良かっただろうか?――そう感じたことを思い出し、ナナシは腹を抱えて笑いはじめる。何がそんなに可笑しいのか、彼にもよくわからなかった。


 「ごちそうさまでした」

 食事を終えたナナシは再び手を合わせ、台所で食器を洗う。

 これが彼の、いつもと変わらぬ日常。

 寝床があり、家族が居て、食事も仕事も与えられている。

 ナナシは、言語には変換不可能なほどの恩義を、義理の両親に感じていた。



 「さあ、今日も頑張ろう」

 大きく伸びをし、ナナシは玄関へ向かう。

 ――ふと、今日は壁に掛けられた古い写真が気になった。

 「あっ。これは」

 写真とは、どうを用いて描いた特殊な絵画だ。空間の情報を瞬時に認識し、紙などの媒体へ記録する。元は、洞窟などの地形を把握するための魔法を、ある錬金術士がどうへ応用した技術らしい。

 ――だが、気になったのは仕組みに関してではない。

 被写体となった三名に、見覚えがあるような気がするのだ。


 「アインス。ゼニスさん」

 ナナシはつぶやきながら、剣をたずさえた少年と、杖をついた老人を順番に指す。写真は退色し、もう顔や表情もわからない。

 それでも、彼には誰が写っているのかを把握できた。

 「……えっ? ナナシ……?」

 いつの間にか戻って来たマイナが、驚いたように口元に手を当てる。頭には帽子代わりの布巾を被り、一方の手には野菜カゴをげている。

 「ん?――エレナ?」

 ナナシはマイナへ視線を移し、その名を口にする。それは、写真に写る少女の名だった。マイナの茶色の瞳孔が、さらに大きさを増した。

 「……あ、違う。ごめん、母さん」

 「え……、ええ……。ナナシ、どうしてご先祖さまの名前を?」

 記憶を失くしたナナシを養子に迎え入れているが、ナナシとマイナの年齢に大差はないと思われる。そんな『母』に、ナナシは叱られた子供のように頭を下げている。


 「わからないんだ。いつも見てたはずなのに――」

 ――今日は何故か、ひどく写真が気になった。

 そして、写真を眺めていると彼らの名前が浮かんだことを、ナナシは説明した。

 「そう……。そうなのね。ご先祖さまの名前は、誰にも話していないのに」

 マイナは野菜カゴを置き、動揺するナナシを軽く抱きしめる。彼女自身も驚いたが、自分自身のこともわからない『息子』の方が混乱しているに違いない。

 「――でも不思議。アインス?……その名前を聞いた時、私にもそんな気がしたの」

 自身より背の高い息子から離れ、マイナは写真を見上げる。中央に写る少年の名は、マイナも教わっていなかった。

 「金髪の少年――勇者アインス。それが、彼の名前だって……」



 「マイナ。準備はいいかね? そろそろいちに――」

 帰宅したカルミドがリビングへ入り、二人をる。ドワーフ族の彼は三十代後半であるが、すでに白髪の老人にみえる。女性とは正反対に、男性は外見の老化が早い。

 「――どうした、二人とも? 何かあったのかな?」

 「ううん。何でも――いえ、あとで話しましょう?」

 マイナは野菜カゴを台所へ置いて戻り、優しげに微笑んだ。

 いずれにせよ、ナナシの記憶の手がかりになるのなら喜ばしいことだ。


 「うむ? わかった。――ではナナシ、留守を頼むよ」

 「はい。父さん。農園こっちは任せて。いってらっしゃい」

 「ああ。行ってくる」

 カルミドはマイナの手を引き、玄関から出ていった。程なくして、荷車が揺れる音が響き、次第に遠ざかってゆく。

 「僕は、ナナシだ。絶対に……」

 ナナシは再び、写真を見上げていた――。



 農作業服に着替え、ナナシはアルティリアカブの畑へと向かう。この地方で古くから栽培されている作物だ。今朝、飲んだスープの材料にもなっていた。

 「さて、もう良いかな?」

 丸々と育ったカブを引き抜き、荷車へ積み込む。この作物は一週間ほどで収穫できる。ナナシは初めこそ驚いたが、今では慣れてしまったようだ。


 次々と畑を周り、土を耕し、種を撒き――次は水をやる番だ。

 畑に手をかざし、ナナシは小さく呪文を唱えた。

 「ミュゼル――!」

 水の精霊魔法・ミュゼルが発動し、ナナシの頭上に数個の水球が出現する!――水球は上空へ舞うと弾け、周囲に水の雨を降らせた!

 「――ふう。今日も上手くいった」

 ミュゼルは本来、対象を凍結・粉砕する魔法だ。当然ながら、主な用途は戦闘用となっている。こうして『水の雨』を降らせるには、かなりの熟練を要する。

 「よし、戻ろう」

 農地の見回りを終え、ナナシは山盛りの荷車をきながら家の前まで戻る。今度は作物の選別と箱詰めを行なうのだ。



 納屋から運搬用の木箱を運び出し、土を落としたカブを丁寧に詰める。木箱はかなりの重量だが、ナナシは箱詰めを終えた木箱を軽々と積み上げる。

 「少し、ゆっくりしすぎたかな?」

 ナナシは空を見上げる。すでに天上の太陽ソルは、昼の陽光ひかりを放っている。いつしかナナシも、太陽ソルを見れば時間を把握できるようになった。

 「うん。今回も出来が良いね」

 カブを磨きながら、ナナシは思わず笑みをこぼす。記憶は戻らずとも、彼には今の生活だけで充分だった。


 ――作業を進めていると不意に、聞き覚えのある声が彼の名を叫んだ!


 「おーい! ナナシーッ!」

 「……ん? あっ――」

 顔を上げると、ナナシの前に三人の姿があった。

 一人はエルス、もう一人はアリサ。

 そして、エルスにしがみついている幼い少女は初対面だ。

 「やぁ、久しぶりだね。エルス、冒険は順調かい?」

 ナナシは手を止め、気さくに挨拶をする。

 ――なぜか、今日は彼らに会える予感がしていた。

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