第3話 アイデンティファイ
ナナシは目が覚めた。まだ
彼には名前が無かった。『ナナシ』と名づけたのは彼の友人だ。
「エルス。元気にしてるかな?」
ベッドから降りたナナシは鏡を
黒い髪・黒い瞳の見知らぬ青年の顔。若者というには少し厳しい。
首には、小さな水晶の付いた木彫りの
「おはよう。ナナシ」
彼は鏡に向かって挨拶をする。まるで、自分自身が『ナナシ』であることを再確認するかのように。彼には、自分自身に関する記憶が一切残っていなかった。
――すでに二つのベッドは空だった。
この家は農業を生業としている。二人とも起床し、それぞれの仕事を開始したのだろう。ナナシも農業に従事しているが、特殊な境遇だったため余分に睡眠をとることを許されていた。
ナナシはベッドを横目に、リビングへ続く扉を出る。
「いただきます」
ナナシはテーブルに着き、手を合わせる。マイナも、義父のカルミドも、彼と同様の動作を行なった
パンをスープに浸し、味わいながら食す。水はさきほどの
「
そう
「――あっはっは。
「ごちそうさまでした」
食事を終えたナナシは再び手を合わせ、台所で食器を洗う。
これが彼の、いつもと変わらぬ日常。
寝床があり、家族が居て、食事も仕事も与えられている。
ナナシは、言語には変換不可能なほどの恩義を、義理の両親に感じていた。
「さあ、今日も頑張ろう」
大きく伸びをし、ナナシは玄関へ向かう。
――ふと、今日は壁に掛けられた古い写真が気になった。
「あっ。これは」
写真とは、
――だが、気になったのは仕組みに関してではない。
被写体となった三名に、見覚えがあるような気がするのだ。
「アインス。ゼニスさん」
ナナシは
それでも、彼には誰が写っているのかを把握できた。
「……えっ? ナナシ……?」
いつの間にか戻って来たマイナが、驚いたように口元に手を当てる。頭には帽子代わりの布巾を被り、一方の手には野菜カゴを
「ん?――エレナ?」
ナナシはマイナへ視線を移し、その名を口にする。それは、写真に写る少女の名だった。マイナの茶色の瞳孔が、さらに大きさを増した。
「……あ、違う。ごめん、母さん」
「え……、ええ……。ナナシ、どうしてご先祖さまの名前を?」
記憶を失くしたナナシを養子に迎え入れているが、ナナシとマイナの年齢に大差はないと思われる。そんな『母』に、ナナシは叱られた子供のように頭を下げている。
「わからないんだ。いつも見てたはずなのに――」
――今日は何故か、ひどく写真が気になった。
そして、写真を眺めていると彼らの名前が浮かんだことを、ナナシは説明した。
「そう……。そうなのね。ご先祖さまの名前は、誰にも話していないのに」
マイナは野菜カゴを置き、動揺するナナシを軽く抱きしめる。彼女自身も驚いたが、自分自身のこともわからない『息子』の方が混乱しているに違いない。
「――でも不思議。アインス?……その名前を聞いた時、私にもそんな気がしたの」
自身より背の高い息子から離れ、マイナは写真を見上げる。中央に写る少年の名は、マイナも教わっていなかった。
「金髪の少年――勇者アインス。それが、彼の名前だって……」
「マイナ。準備はいいかね? そろそろ
帰宅したカルミドがリビングへ入り、二人を
「――どうした、二人とも? 何かあったのかな?」
「ううん。何でも――いえ、あとで話しましょう?」
マイナは野菜カゴを台所へ置いて戻り、優しげに微笑んだ。
いずれにせよ、ナナシの記憶の手がかりになるのなら喜ばしいことだ。
「うむ? わかった。――ではナナシ、留守を頼むよ」
「はい。父さん。
「ああ。行ってくる」
カルミドはマイナの手を引き、玄関から出ていった。程なくして、荷車が揺れる音が響き、次第に遠ざかってゆく。
「僕は、ナナシだ。絶対に……」
ナナシは再び、写真を見上げていた――。
農作業服に着替え、ナナシはアルティリアカブの畑へと向かう。この地方で古くから栽培されている作物だ。今朝、飲んだスープの材料にもなっていた。
「さて、もう良いかな?」
丸々と育ったカブを引き抜き、荷車へ積み込む。この作物は一週間ほどで収穫できる。ナナシは初めこそ驚いたが、今では慣れてしまったようだ。
次々と畑を周り、土を耕し、種を撒き――次は水をやる番だ。
畑に手をかざし、ナナシは小さく呪文を唱えた。
「ミュゼル――!」
水の精霊魔法・ミュゼルが発動し、ナナシの頭上に数個の水球が出現する!――水球は上空へ舞うと弾け、周囲に水の雨を降らせた!
「――ふう。今日も上手くいった」
ミュゼルは本来、対象を凍結・粉砕する魔法だ。当然ながら、主な用途は戦闘用となっている。こうして『水の雨』を降らせるには、かなりの熟練を要する。
「よし、戻ろう」
農地の見回りを終え、ナナシは山盛りの荷車を
納屋から運搬用の木箱を運び出し、土を落としたカブを丁寧に詰める。木箱はかなりの重量だが、ナナシは箱詰めを終えた木箱を軽々と積み上げる。
「少し、ゆっくりしすぎたかな?」
ナナシは空を見上げる。すでに天上の
「うん。今回も出来が良いね」
カブを磨きながら、ナナシは思わず笑みをこぼす。記憶は戻らずとも、彼には今の生活だけで充分だった。
――作業を進めていると不意に、聞き覚えのある声が彼の名を叫んだ!
「おーい! ナナシーッ!」
「……ん? あっ――」
顔を上げると、ナナシの前に三人の姿があった。
一人はエルス、もう一人はアリサ。
そして、エルスにしがみついている幼い少女は初対面だ。
「やぁ、久しぶりだね。エルス、冒険は順調かい?」
ナナシは手を止め、気さくに挨拶をする。
――なぜか、今日は彼らに会える予感がしていた。
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