第8話 霧に包まれた世界

 薄暗い酒場から脱出した二人の視界に、真っ白な景色が広がった。


 だが、それはまぶしさのせいではない。

 いつの間にかファスティアの街全体を、〝白い霧〟がおおっていた。


「あっ、霧。今日は早いね」


「ん? あぁ……。そうだな」


 大通りの霧の中からは、次々と人が現れては消える。しかし荷運びをする男たちも、談笑を楽しむ婦人がたも、少し視界が悪くなる程度にしか感じていない。このような霧が出ることなど、この世界ミストリアスの者にとっては〝当たり前〟の光景なのだ。


 エルスも特に気にするでもなく、道ばたに放置されたままのぐるまに上り、積まれっ放しのワラ山に腰かけた。



「よッと……。ちょっと一休みしようぜ」


「そうだね。じゃ、何か食べるもの買ってくるね」


「おッ! オゴってくれるのか?」


「うん。その代わり、お夕飯は期待してるからねっ?」


 アリサは小さく手を振り、小走りで霧の大通りへと飛び込んでゆく。エルスは彼女のポニーテールが消えるのを見届けた後、ワラ山にあおけに寝転がった。



「霧か……。こんな気分の時は、嫌なコト思い出しちまうよなぁ」


 白くかすんだ空には、光をさえぎられた太陽ソルの影だけが浮かんでいる。それ以外には、どこまでも真っ白な空間だけが広がっていた。


 エルスは何かをつかむように、その白い空へ向かって手を伸ばす。

 ――すると伸ばした手に、アリサがを掴ませた。


「はいっ! お待たせ」


「おっ、勇者サンドじゃねぇか!――へへッ、いただきまーッス!」


「これ好きだもんね、エルス」


 勇者サンドは野菜を中心に甘辛く味付けした具材を、薄く切ったパンで挟み込んだ簡単な料理だ。外でも手軽に食べられるため、露店などでもよく売られている。勇者サンドという名称は、はるか昔に活躍した〝とある勇者〟の好物だったことが由来となっているらしい。



「ふぅ、美味かった! ごちそうさんッ!」


「もう食べたの? 早いねぇ」


「なんたって今日は、朝早くから動きっぱなしだったからな!」


 昼食を食べ終わったエルスは再びワラ山に背を預け、真っ白な空へ向かって手を伸ばす。アリサは自分の勇者サンドをかじりながら、そんな彼の横顔を見て静かに微笑んだ。



「エルス、よくそれするよね」


「ああ、これか?」


 エルスは、伸ばした手をじっと見つめる。


「なんか、ついやっちまうんだよなぁ」


「神様探し。昔よくやってたよね。一緒に」


「ん? あの絵本の真似してたやつか? ガキの頃の話じゃねぇか」


「ちゃんと覚えてるよ。エルスがよく、読んでくれたから」


 そう言ってアリサも彼にならい、白い空へ向かって手を伸ばす。


「霧ン中に神様の城が浮いてて、ナントカって神様が願いを叶えてくれる……とかッてやつだろ?」


「うん。ミストリアって神様だね。この世界を見守ってくれてるんだって」


「あぁ、そんな名前だったッけ。……でもなぁ、本当に居るかどうかもわからない神なんかに、守ってるとか言われてもなぁ」


「わたしは、神様も頑張ってくれてると思うけどなぁ。ほら、あれ――」


 アリサは言いながら、酒場の外壁にできた真新しい傷を指さしてみせる。それは誰も触れていないにもかかわらず、ゆっくりと無傷の状態へと修復されてゆく。


 他にも、街路の砕けたいしだたみや、馬車の衝突によって破損した店舗の一部なども、自然と元通りになっていった。



「あれは『魔力素マナの濃度が上がった時の自然現象』ッて、やつだろ? おまえのジイちゃんが教えてくれたじゃねェか」


 エルスは「当たり前」と言わんばかりに両手を広げ、わざと大きな溜息をつく。


「うーん。そうだけど。――エルスも、おじいちゃんのお話、ちゃんと覚えてるんだね」


「まぁ、俺にとっても自分のジイちゃんみたいな人だしな! それに、なんたって〝元・すごうでの冒険者〟だ!」


 エルスは嬉しそうに言い、我が事のように誇らしげに胸を張る。

 幼少期に家と家族を失ったエルスは、アリサと共に彼女の祖父に育てられたのだ。



「エルスって、本当ほんとに冒険者が好きだよねぇ」


「そりゃそうさ! だッて冒険者は、みんなの味方だしなッ!」


 白い歯を見せながら、エルスは少年のような顔で笑う。――だが次の瞬間にはうらむかのような、にらみつけるような視線を上空へと向けた。


「もしよ、この霧が本当に〝神の力〟だってンなら……。俺らの父さんたちも、俺の家だって……。神が元通りにしてくれたはずだろ?」


「うん……。そうだね――」



 ◇ ◇ ◇



 アリサは十三年前の――。

 両親を失った日の記憶を思い出す。


 まだ三歳だっただろうか。

 あの日、アリサは高熱を出し、自宅で祖父のラシードに看病されていた。


 兄のようにしたっていたエルスの誕生日パーティーに参加することができず、酷く悔やんだアリサ。しかし皮肉にも、そのおかげで魔王の襲撃から逃れることができた。



 熱も少し治まった頃。アリサは祖父にかかえられながら、霧の林道を進んでゆく。二人が着いた先は、見る影もなく破壊された、エルスの家だった。



 瓦礫がれきけた一角には、変わり果てた姿の父アーサーと母レミ。そしてエルスの父であるエルネストが、静かに横たわっていた。


 そこには、真っ白な空に向かって精一杯に手を伸ばし、泣きながら神に救いを求めている、幼いエルスの姿もあった。



『お願いしますッ! 神さまッ! みんなを助けてくださいッ! 生き返らせてくださいッ! ミストリアさまッ……! お願いします――ッ!』


 しかし、エルスの願いは聞き届けられることはなく。

 三人の肉体は光の粒となり、霧の中へと消えてしまった。


 無慈悲な結末にどうこくげるエルスとは対照的に――。

 幼いアリサは、その光景を〝きれい〟だと思ったのだった。



『人はな、命が尽きると霧の中へとかえってゆく。それに、家や大地を元に戻す〝霧〟でも、魔王に壊されたエルスの家だけは直せんのじゃ……』


 まだ状況を理解し切れていないであろう孫娘アリサをそっと抱き上げ、祖父のラシードは静かに語る。


『そっかぁ。じゃあエルスお兄ちゃん、ひとりぼっちだねぇ……。かわいそう』


『ああ……。それに、おぬしのお父さんとお母さんも……。いなくなってしまったのじゃぞ……?』


『うん。でも、わたしにはおじいちゃんがいるし、リリィナお姉ちゃんも遊びに来てくれるし、エルスお兄ちゃんもいるからさみしくないよ?』


 沈痛な表情を浮かべるラシードとは対照的に、アリサは不思議そうな顔で首をかしげる。


『そうか……。二人とも、これからはおじいちゃんが守ってやる……。エルスも、いつかゆうかんな冒険者になって――アリサを守ってくれるだろうて……』


『うんっ! あっ、そうだ! それじゃ、わたしもエルスお兄ちゃんと一緒に、冒険者になろっと!』


『アリサ……。おぬしは強い子じゃの……。本当に――』


 周囲を覆う、おごそかでいんうつな雰囲気をよそに。将来の夢を語るアリサは両手をかかげ、嬉しそうに身体をはずませている。


 そんな無邪気な孫娘の様子を見て、ラシードは少し悲しげにほほんだのだった――。

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