お月様と内緒話

indi子

お月様と内緒話


 暖かくなってきたからきっと大丈夫、そう思って外に出たら、夜の冷たい風が私の前を吹き抜けていった。薄着だった体は一気に凍えてしまって、慌てて玄関に置きっぱなしだったお姉ちゃんのパーカーを着て再び外に出た。目に飛び込んできたまるい月を見上げていると、誰かが私のことを「日菜ちゃん?」と呼ぶ。そちらの方向を見ると、会社帰りの裕一くんがうちの隣の家のドアを開けようとしているところだった。私の心の中がいっぱいになってしまうくらいの裕一くんと会えた嬉しさと、どうしてパーカーなんて取りに戻ったんだろうという後悔が一緒になって押し寄せてくる。裕一くんは私の微妙な表情に気づかないまま近づいてくる。せめて今日だけは会いたくなかったなと思いながら、まるで地面に縫い付けられたみたいに動けなくなった私は裕一くんと呼び返す。


「どうしたの? 中学生が出歩く時間じゃないでしょ?」

「お姉ちゃんがアイス食べたいっていうから、買いに行くの」


 私がそう言うと、裕一くんは怒ったようにぎゅっと眉をしかめた。


「香奈のやつ、こんな遅い時間に日菜ちゃんにお使いさせるなんて」

「いーの。今日のお姉ちゃんは我が家のお姫様だから。それに、こんな時じゃないと姉孝行なんてしないもん」


 それでも裕一くんは少し怒っているみたいだった。私が裕一くんを宥めていると、彼は呆れながら息を吐いて「俺も行くよ」と言って、家の鍵をスーツのポケットに仕舞った。仕事で疲れているはずなのに中学生のお使いに付き合ってくれるなんて、やっぱり裕一くんは優しい。その優しさに包まれると、私の体はとろとろのふにゃふにゃに力が抜けていってしまう。顔が緩んでしまわないように、私はより一層体に力を込めた。緩んでいた体が熱くなっていくのがわかった。


 裕一くんは八歳上のお兄さん。彼とは私が産まれてくる前からの間柄だった。パパとママとお姉ちゃんが今の我が家に引っ越したきたのと同じタイミングで、裕一くん一家も引っ越してきた。その後私が産まれたから、裕一くんは私がママのお腹の中にいた頃から私のことを知っている。

 裕一くんとお姉ちゃんの幼馴染っていうありがちな関係。そして、明日二人は結婚する。ママと私は二人が付き合っていたことを知っていたけれどパパにとっては寝耳に水で、裕一くんが結婚の挨拶に来た時にとても仰天していた。両家顔合わせの日、うちのママと裕一くんのママは「まさかお隣さんから親戚になるなんて」「でも、あの子たち、小さい時から仲良かったし、いずれこうなったらいいなと思ってたわ」なんて話をしていて、パパ同士はなんだか照れていた。私はその間、ずっと俯いていた。おめでたいからと注文した鯛の尾頭付きの刺身を見ていた。顔を上げたら、幸せそうなお姉ちゃんと裕一くんがいる。その現実を直視するのは、私にとって拷問と等しいくらい辛いことだった。きっと私の目も死んだ魚と同じようにどんよりと曇っていたに違いない。


 私もずっと裕一くんのことが好きだった。好意の種はずっと私の中に埋まっていて、それが芽吹いた日は今でもしっかりと思い出せる。10歳の冬の日だった。


 通学路の途中にある家に、秋頃、突如として犬がやってきた。茶色で背が高く、牙も鋭い。子供を見かけたら見境なしに吠えてくる。その犬に怯えるのは私だけじゃなくて、みんなも怖がっていた。仲良しの友達数人と固まって、その家の前を走って逃げていくなんてこともしょっちゅう。誰かのお母さんがその家に室内飼いにしてくれるようお願いをしてくれたみたいだったけれど、その交渉は簡単に決裂してしまった。


 その日は私は一人で帰らなきゃいけない日だった。みんな家の用事や習い事ですぐに帰ってしまって、居残りの課題をしなきゃいけなかった私は一人、小学校に取り残された。課題をなるべく早く終わらせた私は震えながら家路を急ぐ。寒さだけじゃない、恐怖からくる震え。一歩踏みだすたびに私は決意するように息を吐いた。あの角を曲がれば、あの犬がいる。私はぎゅっと目を閉じ、耳を両手で塞いだ。視界に入らなければ、鳴き声を聞かなければ、犬なんて怖くなんてない。


「日菜ちゃん、危ないよ。目を開けて歩かなきゃ」

「……裕一くん?」


 目を閉じて歩こうとする私の名前を誰かが呼んだ。私が目を開くと、裕一くんがいた。高校の学ランを着て、青いマフラーを巻いた裕一くん、その腕はあの家の柵の中に入っていた。大変! そこには凶暴な犬がいるのに、裕一くんが食べられちゃう! そう考えた私は裕一くんに飛びついていた。裕一くんは「おおっと」なんて言いながらよろめく。


「裕一くん、何してるの? 危ないよ!」

「大丈夫だよ。コイツ、大人しいし」


 あんなに凶暴な犬が大人しい? 裕一くん、なに変なことを言っているの? そう言おうと顔を上げると、そこには裕一くんに背中のあたりを撫で回されてしっぽをブンブン振り回す犬がいた。私は驚きのあまり、顎が外れそうなくらい大きく口を開けてしまう。


「コイツはさ、みんなに構ってほしくて大声で吠えてただけなんだよ。ほら、日菜ちゃんも撫でであげなよ」


 私は小さく頭を横に振る。すると、尻尾はしょんぼりとうなだれていく。その姿を見ていると、なんだか可哀想になってきた。私は勇気を振り絞り、えいっと柵に手を突っ込む。手のひらにふんふんと荒い犬の鼻息がかかる。そして犬は、私の手をベロッと舐めた。私は悲鳴をあげる。


「あはは! 日菜ちゃんのこと、美味しいってさ!」


 裕一くんはそう言って、大きな口を開けてそう笑った。私はその笑顔を見ていると、体を包み込んでいた変な緊張がほぐれていくような感覚を覚えた。裕一くんはまだ怖がっている私の手を取り、一緒に犬を撫でてくれた。犬のゴワゴワした背中よりも、裕一くんの手の暖かさが気になって仕方がない。私はこの時、裕一くんのことが好きになった。こんなに年下の私にも、いつも吠えてばかりの犬にも分け隔てなく平等に優しい。どんな垣根も飛び越えて、私が今まで考えてもこなかった新しい世界を教えてくれる。裕一くんとこれからも一緒にいられたら幸せに違いないと幼いながらそう思った。


「あ、これ、日菜ちゃんが好きなチョコレートじゃない?」


 コンビニに着いてすぐ、裕一くんは棚にあるチョコのお菓子を指さした。そんな話をしたことないのに、どうして知っているの? そう聞きたかったけれど、私は口を噤む。きっとお姉ちゃんから聞いたに違いない。


 彼のことを好きになった私は、裕一くんに告白をしようと思った。年が明けてやってきたバレンタインの日、チョコレートを作ってそれを渡して、好きだって伝えよう。前日のうちに、お姉ちゃんとキッチンも並んでチョコを作る。お姉ちゃんはブラウニーという少し凝ったお菓子を作っていて、それが大人っぽくて少し羨ましかった。当日は急いで家に帰って、2階にある自分の部屋の窓から、裕一くんが帰ってくるのを今か今かと待ち構えた。遠くからやってくる彼らしき姿を見た時、胸がぎゅっと鷲掴みされたみたいに痛くなった。私はお気に入りのシールを貼ってラッピングした袋を持って玄関を飛び出していく。その時、私よりも先に帰っていたはずのお姉ちゃんの靴が無かったことに私は気づかなかった。


 視線の先に、裕一くんがいる。けれど、彼は一人ではなかった。裕一くんの正面にはお姉ちゃんがいて、ほんの少し顔を赤く染めて、昨日見たばかりの可愛い袋を裕一くんに渡していた。私はすぐに足を止めて、裕一くんの横顔を見た。足から温かさが抜けていくように、体が冷たくなっていく。それは2月の寒さのせいではない。裕一くんの柔らかくて、嬉しそうな微笑みがお姉ちゃんだけに向けられている意味を理解して、ショックを受けたから。私は二人に気づかれないように踵を返し、家に帰った。作ったチョコはパパに渡した。パパは何かを察したみたいだったけれど何も言わず、美味しいと言って食べてくれた。市販のチョコを溶かして型に入れて固めただけのチョコ。きっとお姉ちゃんが作ったのがブラウニーではなくコレでも、裕一くんはあんな素敵な表情を見せたに違いない。だって好きな子からチョコを貰えたら、きっと誰にとってもそれは特別なものなのだから。その晩、私は眠ることが出来なくてずっと夜空を眺めていた。その時、月の明かりがこんなにも優しいんだってことに気づいた。けれど、私は裕一くんの優しさの方がやっぱり好きだった。


 私はお姉ちゃんがリクエストしていたアイスをカゴに入れて、自分は何食べようかなとアイスケースの前で少し悩む。やっぱり新発売のバニラアイスにしようと思ってカゴにそれを入れたら、裕一くんが何やらレジで会計をしているのが目に入った。彼がそれをポケットに中に仕舞う。


「あ、アイス決まった? それも一緒に買おうか?」

「ううん、大丈夫。お姉ちゃんからお金もらってるし」


 私はアイスを2つとお金をレジに置いた。お姉ちゃんはお釣りはお小遣いにしてもいいと言ってくれたけれど、マンガ一冊も買えないくらいしか残らなかった。私はそれを財布にしまって、待ってくれていた裕一くんの隣に立つ。もうすぐ、彼を独り占めできる時間が終わってしまう。視線の先には私たちの家が見えてきた。


「そうだ、日菜ちゃん」


 歩きながら、裕一くんはポケットに手を入れた。その手には、さっきコンビニで見た、私の好きなお菓子があった。


「これ、あげる。お使いのご褒美」


 柔らかい笑みを見せる裕一くんが、今夜ばかりは憎くて仕方ない。お願いだから、もうこれ以上私に優しくしないで。そう叫んでこの場から逃げ出したくなった。その優しさを向ける相手はお姉ちゃんだけで、私のことは冷たくあしらってくれたら、今の私は少なくとも不幸じゃなかった。胸がこんなに強く軋むことも、目の奥がこんなに痛くなることもなかったのに。私は我慢するように奥歯を噛み締めて、手を差し出す。彼がそのお菓子をそこに乗せた時、私の手がわずかに震えていた。けれど、裕一くんはそれに気づかなかった。


「ありがとう、裕一くん」


 声を出すと涙が出そうになる。私はそれを懸命に堪えてちゃんと笑った。


「香奈には早く寝るように言っておいて。明日、朝早いんだから」

「うん、わかった」

「じゃあ、またね。日菜ちゃん」


 私はとっさに「裕一くん!」と呼びかけていた。裕一くんはきょとんと私を見つめる。私も、どうして彼を引き留めようと思ったのか分からなかった。もしかして、本能的に告白しようとでも思った? そんなこと、したくないのに。ただのお隣に住んでいた子で、彼が結婚する相手の妹、それ関係性を壊したらきっと今まで通りに接することが出来なくなるのに。


「あ、あの、新しい家、遊びに行っていい?」


 絞り出した言葉に裕一くんは私の大好きな笑顔で答える。


「もちろん。だって日菜ちゃんにとってはお姉ちゃんの家でもあるんだから」

「う、うん、ありがとう。バイバイ、裕一くん」


 私が玄関の前で手を振ると、裕一くんも軽く手を振って自宅に戻っていった。私はそれを見届けてから、顔を高くあげる。視線の先にはお月様がこうこうと光っている。その明かりは優しかったけれど、私が先程感じた痛みが癒えることはない。


「好きだよ、裕一くん」


 ぽつりと呟いた言葉は風に乗り、吹き上げられてきっと月に届いただろう。私は本当の気持ちを、お月様にだけ打ち明ける。その光はまるで私を慰めるみたいに柔らかく、優しかった。

 

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