白紫陽花と黒い塵
みゐ
白紫陽花と黒い塵
今日は、雨が降らない予定だった。
とっくに梅雨入りしたこの町は、毎日色とりどりの傘が見える。上から見れば面白いものになるかと思ったが、そうでもない。
つまらない。
傘のせいで人との距離はできるはずなのに、皆、そんなものはないよと私に見せつけるようにして学校を出る。まだ教室にいる私を独りにしていく。
もうこんな時間だったっけ。夕焼けが見えない。
逆さに見える白紫陽花は今日も綺麗だ。濡れた花は輝きが増して。
このビー玉のおかげで、私だけ違う世界を見ているような気持ちになれる。
このたくさんの傘も硝子を一つ通せば輝いて見える。
高校に入学して早二ヶ月。馴染めないまま進んでいく世界は少し錆びついてきていた。
硝子の中に溶けられたらいいのに。
自分まで透明に澄んだ世界で生きられたら、こんなにも苦労することはなかったのに。人を傷つけることもなかったのに。普通でいられたのに。何も失わなかったのに。
後悔だらけ。後悔が体に沈んでいく。
「あっ、
「
「うん、もう汗だく。でも、チア思ってた以上に楽しいかも」
「そっか。七羽が楽しいなら良かったよ。クラス違ってからあまり話せてないし、どうしてるのかなって思ってた」
久しぶりにみた七羽は、橙の練習着とバトンがよく似合う高校生になっていた。中学生の頃の面影はない。私の中で少し違和感が見えるほど、変わっていた。
硝子の向こうの世界のように、毎日変わっていってしまう。
「それは私もだよ。音花どうしてるかなーって。全然連絡もしてくれないし、学校でも見かけないし。でも中間テストの順位掲示で見たよ。一桁とか凄すぎ!私なんて三桁で、ママ驚いてた。ほら、中学の時は音羽と同じくらい点数取れたのに、一気に下がっちゃってさ。あっ、それより、せっかくの高校生活楽しんでる?」
そう言って、私の隣に並ぶ。少し吹き込んでくる雨に、私の世界は湿っていた。
もとから期待していなかった高校生活。私の世界を壊さないと成り立たないと知った。これが、『大人になる』ということだろうか。それならずっと、子供と大人の狭間に浮かんでいたい。
「楽しいよ。前から興味あったことをちゃんと学べるし、部活は先輩優しいし。それに、七羽と同じ学校だから」
「ふーん。そこで私の名前言ってくれるのは嬉しいけど、指、こんなに真っ直ぐ伸びてるよ?」
意識した瞬間、手からビー玉が離れて、床に落ちた。嘘を付くとき、どうしても緊張してしまう。体に染み付いた癖は治らないものだ。
私は、ごまかして、なんか、いない。
たかが数年の付き合いの七羽にも見透かされるような、そんな話じゃない。
「ほら、ビー玉落ちたよ。相変わらず好きなんだね、キラキラしたもの。でもこーいうのだったら、ヘアアクセとかの方が良くない?可愛いし、身につけられるし」
「ありがとう、拾ってくれて。でもアクセサリーとビー玉じゃ価値が全然違うよ。見える世界も」
「そう?価値は人それぞれだよ。だけどさ、オシャレすると少し大人の世界が見えたりするんじゃん。面白い世界が見えるかもよ」
『大人になる』のは、こう聞けば案外簡単なのかもしれないけれど、背伸びをすれば足は疲れてしまう。
生憎私は、背伸びも大人も好きではない。
「いいの。このくらいの価値の方が私に馴染んでる」
「まぁ、音花と私が違うことなんて、分かりきってるから。じゃあ私、そろそろ行くよ。部活の人たち待たせちゃってるから」
「久しぶりに話せてよかった。気をつけてね」
「うん。またね」
『またね』なんて言葉を、私は到底使う気になれない。それがいつになるか分からないから、怖い。私の世界に確定できないことは口にも出せない。
落として少し傷ついてしまった私の世界は、覗くと少し歪んだ。どれだけ雨で濡らしても、壊れたままだった。
ついさっきよりも傘の数は減って、紫陽花と同じくらいまばらになってしまった。私を独りにさせるものは減ったのに、増えたようだった。
七羽とは違う足音が教室に向かってくる音。教室の灯を消しておけば通り過ぎただろうか。
「おぉ、まだ教室にいたんか。こんな時間まで一人で何してん?」
案の定、そこには苦手な担任がいた。誰とも話すフレンドリーな姿勢は、どこに感情があるのか分かりづらい。
「いえ、雨が止めばいいなと。当分降り続きそうですけどね」
「そやなぁ。梅雨っていい気はしないよな。ジメジメして過ごしづらいし、ズボンの裾は濡れるし、良いことないからか。あれ、それ手に何持ってるん?もしかしてビー玉か?」
「はい、そうですが……」
「やっぱそうか。懐かしいなぁ、ちょっと触らせてもらってもいいか?久しぶりすぎて、もはや感動だよ」
相手が断りたいとは微塵も思っていなさそうな態度で、私のビー玉に触れていく。私の世界が、他の人に侵されてしまっている。
今までは私だけのものだったのに、今日だけで二回も触られたら。
私だけの世界に、二人の足跡がついてしまったら。
それはもう、私の世界じゃない。
「ありがとな。久しぶりに懐かしいもん見れてよかったわ。じゃ、気をつけてけるんだぞ。もう少しで最終下校だから、それまでにな」
「わかりました。さようなら」
「はい、さようなら。また明日な」
立ち去っていく担任は、私の心を荒らしていくようだった。私の世界に入ってきた上に、そんなことまで。
この硝子は、もうただのビー玉だ。荒された世界はもういらない。そこにあっても、私を救ってはくれない。
こんな世界、壊しちゃえ。
指紋で汚れたビー玉を、三階の窓からコンクリートに向かって落とす。
簡単に割れるものだった。
ずっと昔、ラムネ瓶に入っていたビー玉を苦労して一人で取り出せたときは輝いて見えたはずなのに、今落としても輝きは散るわけではなく、ただ黒い塵が落ちているようだった。
『感情に任されて自分を動かし過ぎちゃいけないよ』なんて、誰かに言われたっけ。確かに帰り際に割れたビー玉を見るときには後悔するかもしれないが、そうでもしないと『大人になる』ことが一生達成できない気がしてしまった。この先に機会が訪れるとは思えなかった。
もう、あの世界を手に入れたときのような感動は得られないだろう。私の世界はこのままなくなるのか、何かの拍子でまた出来上がるのかもわからない。
それでも、今の決断は悪くなかった、と思う。この感情が私の一部になれば、現実を認められる。そんな気がする。
自分の存在を主張したくて、認められたくて生きているのに、人を傷つけることを何よりも恐れて、『私』に籠もって時を止める。
この生活は今日でもう終わりだ。私の世界はとっくに必要なかった。その世界がくれる一番大きな感情を求めていただけで、それはもう手に入れた。
気がつくのがあと二ヶ月ほど前だったら、今の私は友人と一緒に帰っていたのかもしれない。もしかしたら、アクセサリーを着けて大人の世界で背伸びをしていたかもしれない。
けれど、粉々に散った私の世界は雨粒よりも美しく見えた。白紫陽花と黒い塵は、硝子を通さなくてもいつかの輝きを放っている。
白紫陽花と黒い塵 みゐ @tuki_bi-al
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