秋聲

「勘違いしないで欲しいのはさ、君にこうして接している俺が異常だっていうことだよ」


 茜さす道で僕に缶コーヒーを手渡した男の人は、挨拶の次にそう言った。


「もし海に行くなんて無理をしなければ一日でも長く生きられたかもしれない。死に目に立ち会えたかもしれない。そう考えるのはなんら違和感のない当然のことで、だからこそ一緒に海に行った君に対して恨み言を吐いた母さんの対応はなんらおかしいことじゃない。分かるかい?」


「はい」


「なら、良かったよ。君は悪くないけど、恨まれるのは筋違いかもしれないけど、でも母さんからすれば恨むのは正しくて筋が通っていることなんだ」


 相反する正しさが矛盾せずに存在する。世界のようだと思った。確かそんなことをあの日、考えていた。


「なら、どうして貴方は僕とこうしてなんてことないように話しているんですか?」


 そう尋ねると男の人は「んー」と間延びしたような声を出す。霞のような、掴みどころのない人だった。似ているとまでは言えないまでも、彼女の持っていた雰囲気とどこか重なるところがあるのも確かだった。


「単に薄情なんじゃないかな。妹とは、性別も違うし歳も離れていたからあんまり話さなかったんだよ。途中からは病院の方に移ったしさ。だから、死んだ事実に悲しんだり恨んだり、そういうことが出来てないだけだよ、きっと」


 哀しみを誤魔化すように、彼は自虐的に笑いながらそう言う。


 あの日、眠りについた彼女は目を醒まさなかった。そうしてごく個人的な、小さな、彼女という世界は終わった。


 死因は病気らしいけれど、どんな病気かは一度聞いただけではよく分からなかったし、二度目を聞く気にはなれなかった。ともかく、健康そうに見えた彼女はあの時既に病魔に侵されていて、わざわざ病院を抜け出して僕のもとに現れた。そうして、海まで行って、死んだ。それだけのことだった。


 男の人は――、彼女の兄は、カシッという音を立てて手に持っていた缶コーヒーのプルタブを起こしてからぐい、とそれを呷る。コーヒーが通るたびに、こく、こく、と喉が動く。


 僕も倣うように貰った缶コーヒーのプルタブを起こしてからぐい、と呷る。想像していた以上の苦さとそれに同居する妙な甘ったるさに面食らい、でも吐き出すのも失礼だと思い、ぐっと堪えて飲み込んだ。買ってもらった以上あまり文句は言いたくないけど、どうせなら隣にあったオレンジジュースにしてくれれば良かったのにと思う。


「あの日さ、妹の方が誘ったんだろ、君じゃなくて」


「まあ、はい」


「なんて言って誘われたんだ?」


「世界の終わりが来るけど、海なら逃れられるから行こうって」


 涼風に揺れる白いワンピースを思い出しながら確かという言葉を言うと、彼は笑った。笑われて、ああ、確かに馬鹿馬鹿しいことを言われていたな、とようやく気が付いた。


「ごめん、馬鹿にしてるわけじゃないんだ」


「いえ、馬鹿にされるような話だと思います」


 嘘だと知って、それでもついて行くのであれば恰好がついたんだろうけれど、僕の場合は本気で世界が終わると信じていたし、今でも個人的な、彼女という世界が終わったと勝手に納得をしていた。そこも含めて、まるきり馬鹿だ。現実とは常にシンプルなものなのに、必要以上に考えて不必要な意味を見出してしまう、悪癖。


「いや、馬鹿にするような話じゃないさ。確かに世界は終わらなかったけど、君たちが信じたものは間違いだったけど、でもそれだけの話だよ。信じた人間を馬鹿にすることは、俺には出来ない。ましてや、信じて行動に移した人間を馬鹿にすることなんていうのはね」


 随分と偉そうな言い方にはなるけれど、僕は彼に好感を抱いた。それは、兄妹として彼女の影を見たからとかそういう理由ではなくて、今まで一度も顔を合わせたことのなかったような僕みたいな子供に対しても出来る限り誠実に話そうとしていることが分かったからだ。


 子供というのは大人が思っているよりもずっと子供じゃなくて、でもどうしてもその立場上過剰と言っていいくらい子供として扱われる。だから、こうして対等に喋ってくれる大人というのはそれだけでとても嬉しかった。


「それで、何が聞きたいんですか?」


 だからこそ僕も誠実に、直截的に質問をすると、彼はおどけるようにはにかんだ。


「そんなに何か聞きたそうに見えた?」


「いや、ただ、そもそも何か聞きたいことがなければ話しかけないかなと思って」


 そう言うと彼はコーヒーを一口分飲んで、コンコン、と缶を爪弾く。彼なりの、考えている時の癖らしかった。


「何かを君に聞けるほど、俺は妹のことを知らない」


 暫くしてから、やけにさっぱりとした口調で彼はそう口火を切った。


「当然のことだけどさ、健康で、ある程度放任しても大丈夫な年齢の俺と病弱な妹だったら妹の方を親は優先するわけでね。恨みとか嫌悪とか言えるほどのものじゃないけど、少なからずマイナスな感情を、俺は妹に抱いていたわけだ。だから、俺は何も知らない。知ろうと思わなければ、情報なんていうものは殆ど入ってこないし、入って来たとしてもすぐに忘れ去られる」


 斜陽に染められたアスファルトに落とされた視線は自罰的で、どことなく惨めに見えた。


「……だから、せめて俺が、妹のために出来ることをしたかったんだよ。母さんが母親として君を恨んだように、僕も兄として何かがしたかったんだ」


 エゴイスティックだな、と思った。でも、人間の行動なんて大抵がエゴによるもので、責めるようなつもりはなかった。


 夕の陽が僕らの影を並んで地面に落とす。


 奇妙な二人だった。彼女という存在だけを挟んで成り立っている関係なのに、僕らは互いに彼女のことを殆ど知らない。


 ただ、そのうえで彼は僕とは違い、彼女のことを知ろうとしているように思えた。どちらが正しいのかは分からない。あるいは、二人とも正しいのかもしれない。


 静かで冷たい風が肌をなぞった。蝉はもう鳴いていない。からりとした、真空のような沈黙が僕らの間でひっそりと佇んでいた。


「ひとつだけ聞いても良いですか」


「俺に答えられるものであれば」


「彼女の名前は、なんて言うんですか」


 僕の問いに彼は驚いたような顔をしたものの、彼自身の中で何かを推測し、納得したのか何も僕に聞くことはなく彼女の名前を口にした。それは、想像していた通り、最期に彼女が僕に告げた名前とは違うものだった。


 名前なんていうのは認識するための記号に過ぎない。だから、僕は綺麗さっぱり今教えて貰った戸籍上の名前のことは忘れることにする。


 彼女は僕にだけあの名前を教えた。彼女はあの名前で死んでいった。


 彼女がどういう理由であの名前を使ったのか、なんていうことは僕には分からない。あるいは、全く理由なんてないのかもしれない。


 ただひとつ確かなことは、記憶の中で名前という実態を持った彼女のことを、僕は二度と忘れることは出来ないだろうということだった。あの夏の終わりの記憶は、彼女の名前がつくことによって完成されたのだ。


 僕はそのことを彼女の兄には話さない。勿論彼女の母親にも、誰にも。


 小さく、彼には気付かれないほどの声で彼女の名前を呟く。ラムネ瓶のように青い、綺麗な音だった。

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終青 しがない @Johnsmithee

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