終世
駅から海までの道は綺麗な一本道だった。緩やかにいつの間にか曲がっていたなんていうこともない、完全で完璧な一本道。
隣接する道路にはまばらに車が通り、その度に低く唸るようなタイヤの音が夜の空気を切り裂いていく。
不思議な場所だった。街ほどの騒がしさやよそよそしさは感じないけれど、静かで温かいというわけでもない。人の家と店が交互に点在していて、どういう場所なのかと上手く説明をすることが出来ない。
この時間でもスーパーやコンビニは営業を続けていて、眩しいほどの白い光が僕らの行く道を時々照らす。店内をちらと見ると既にがらんとしていて、取り敢えず営業時間だから営業をしているといった様子だった。
僕ら以外に殆ど人はおらず、人が取り払われたような奇妙な寂しさを覚える。この様子であれば、人が居なくなっても時間は変わらずに流れるらしい。
世界が終わった後というのもこういう感じなのだろうか。いや、世界が終わるのだから人間以外も例外ではないのか?
世界ってなんだろうか、と少しだけ考える。地球か、もっと大きく宇宙もか。でも、そんな大きいものじゃなくても、例えば何百人しかいない学校だって僕にとっては一つの世界だし、四十人くらいの教室だってまた世界だ。世界とは全てを覆うような壮大なものでもあり、極めて個人的なものでもある。相反しているようなそれはどちらも正解であり、矛盾することはない。
どのような世界が終わるのか、なんていうことは分からない。むしろ、考えれば考えるほどに思考はずぶずぶと沈んでいき、きりがなくなる。
唯一分かることは、その世界がいかに小さなものであれ、大きなものであれ、美しいものであれ、醜いものであれ、良いものであれ、悪いものであれ、終わるということは寂しいものだということだけだ。
僕はその寂しさに耐えられるだろうか。考えるうちに世界の終わりよりも、僕にとって一番大きな問題はそれであるように思えてくる。けれど、耐えられないとしても、終わりは来る。その時が来たら僕はただ、現実を受け入れるしかない。
「君はさ、夜って好き?」
風のようにさらりと、彼女は言った。そのまま流れて行ってしまいそうなほどに自然で軽やかな、そんな言葉だった。
歩みは止まらないままで、僕は少し悩んでから「うん」と頷く。
「静かで、暗くて、でも夜は温かいんだ。誰もいないけど、建物も植物ですらも静かになるけど、それは眠っているだけで、ちゃんとそこにいる。僕にはそのくらいが丁度良いんだ。誰とも、何とも、夜くらいの距離感が」
夜くらいの距離感。なんとなく、今まで思っていたことがふと口を出たかたちだったけれど、その言葉は元から言われるべきだったと思うくらいにしっくりときた。
「夜くらいの距離感」と彼女が繰り返した。
「素敵な言葉だね」
はにかみながら言われたその言葉はくすぐったいような柔らかいような、奇妙な心地よい言葉だった。
「君はどうなんだ? 夜は好き? 嫌い?」
「んー」と言い、目を瞑り、それから彼女は「嫌いかも」とこぼした。
「どうして?」
「夜って一人でしょ? みんな眠って、最後に残るのは自分だけ。曖昧で、宙ぶらりんで、本当に自分が存在するのかが分からなくなる。誰も、何も気づいてないなら、そんなのいないのと一緒だよ。それでそのまま、本当にいなくなる。かもしれない。だから、私は夜が嫌い」
からりとした声で、しかし呟くように、彼女は言う。
「なんとなく、分かるような気がする」
共感は出来ないけど、理解は出来る。
夜は悲しい気持ちになる。多分、それは彼女が言う通りに一人になるからで、彼女はそれが恐ろしく、僕にはそれが心地よいのだ。
「こうしている今だって、夜は好きじゃないよ。本当はベッドの中で枕をぎゅっとしながらうずくまりたいなあって思う。でも、君が居るから」
「僕が? 居て、何になる?」
「何にもならないよ。でも、傍に居てくれることが大事なんだ。それだけで良いんだ。それだけが大事なんだ」
「それなら良かった」と、心から思う。人が誰かのために何かをすることが出来ることなんていうのはきっと殆どなくて、大抵の場合はやったつもりになるだけだ。そして、後になってそれに気づく。
僕の「良かった」は彼女の力になれたという喜びよりも、悔やむ道を避けることが出来たという安堵大きかった。
「ごめんね、こんなことに付き合わせて」
「今更だよ、それ」
「大切なことって今更って時じゃないと言えないよ」
そう言った彼女はたったっ、と足を早める。僕はそこでようやく、潮風が香っていることに気が付いた。
「渡ろ、早く」
彼女が青になっている信号を渡る。既にそれはちかちかと点滅を始めていて、僕も急いで白い吊り橋を渡ってゆく。
信号の先に、まず砂浜が見えた。灰の山のような、波打つ凹凸。
彼女が駆けて行った。灰に彼女の足跡がつけられていく。その跡は、血痕を残していくように何か大切なものをこぼしてつけられたもののように見えて、僕は掻き消すようにそれをなぞって歩く。
海は真っ黒な流動体だった。何かが底で蠢くように、ざあ、という波の唸る音が周期的に辺りに響いている。このまま呑まれてしまうのではないかと、くらくらとした陶酔感にも似た不安感が頭の端にじとりとこびりつく。
水面がてらてらと月明かりを反射し、
するりと、服を脱ぐように艶やかに、彼女は靴を脱いだ。新雪のように真っ白い肌が、夜に晒されていく。後ろから照らす月光も相まって、ただ靴を脱いだだけなのに妙に幻想的で、美しく、神聖な出来事のように見えた。
脱ぎ終えた後でようやく、彼女がサンダルのような靴で来ていたことに気が付く。ここまでの短くない距離を、どうしてそんなラフな靴で来たのだろうか。
案外、ふらっと海に行くことを決めたのかもしれない。世界が終わっても履いていたいようなお気に入りの靴だったのかもしれない。ただ、それが、脱がれている靴が、彼女に似合っていることは確かだった。
裸足になった彼女は波打ち際に進んでいく。波と砂浜の間、繰り返し訪れる波によって黒く湿った泥の部分に。
ぺちゃぺちゃ、と水の音がする。彼女はステップを踏むように波打ち際を歩く。月明かりに照らされるその踊りは妖しい雰囲気を携えていて、僕は息を呑んで見入る。
ざあ、と波は彼女の足を濡らすため押し寄せる。
彼女は僕を見てはにかんだ。
さあ、と波は彼女を攫わないままで引いていく。
「君も来てよ」
そう言って差し出された手は、月光のせいかやけに白く見えて、断ることなんて出来やしなかった。魅力とも違う、魔力のようなものがある、そんな手だった。
靴を脱ぎ、泥を踏む。ひんやりとぬかるんだ感触が直に足の裏に伝わって、ゾクゾクとしたものが指でなぞられるように脊髄を伝う。
彼女の手に触れた。足にかかる海水よりも冷たく、今にも崩れてしまいそうな果敢ない手。
硝子細工のようだと思った。崩してしまわないように、壊れてしまわないように、そっと包むように握る。
僕らは歩く。
海と陸の間を。
静寂と潮騒の間を。
今と
彼女が手を引き、
「ねえ」と彼女が言った。
「何?」と僕が聞き返した。
「君はどうやっても今を悔やむことになるよ」
「そうかな」
「そうなの」
終わらせていない夏休みの宿題を思い出した。けれど、彼女が言っているのは勿論そんなことじゃないということも分かっていた。
「悔めるのであれば、僕はそれでいいよ」
「どうして?」
「悔むってことは、それだけ今のことを忘れないってことだろ」
安っぽい郷愁でもぼんやりとした懐古でもない、自罰的な感傷は確かな痛みを伴い、鮮やかなままで記憶に仕舞われる。
曖昧に失ってしまうくらいなら、思い出と呼んで歪めてしまうくらいなら、悔やむくらいの方が良いのかもしれない。それは、悔やんだ傷が少ないからこそ言えることなんだろうけれど。
「ありがとう」と彼女は笑った。
それで良かった。それだけで、僕の行動は報われた。単純だけど、そういうものなのだ。たったそれだけで、十分なんだ。
「どういたしまして」
右手を胸に当てがった、貴族のような慇懃な礼をすると彼女はころころと頬を綻ばせる。自分でしておきながら少しだけ恥ずかしくなって、僕も誤魔化すようにくすくすとした声を漏らす。
この時間ももうすぐに終わってしまう。それがどんなかたちであれ、終わりが来るということだけを僕は既に知っている。幸せになればなるほどに、終わりを頭によぎらせてしまう、悪い癖。
どれくらい歩いたか、正確なことは分からないけれど、もう随分と歩いたことだけは分かった。脱ぎ捨てたサンダルと靴はあのまま化石になるのかもしれない。それなら良いなと思う。後悔のように、世界に僕らの跡が残るのだ。
「ねえ、アダムとイヴって不幸だったと思う?」
アダムとイヴ。少しの間、その言葉の意味を考え、ようやく思い出す。確か、最初の人類。知恵の実を齧り、楽園から追放された二人。
「さあ、僕には分かんないや。幸せな時もあったし、不幸な時もあったんじゃないかな」
果実を口にしたその瞬間は紛れもなく幸せだっただろうし、追放を告げられたその瞬間は不幸としか言いようがなかっただろう。人の幸不幸なんていうのは殆どがタイミングのことなのだ。
しかし、彼女は「私は幸せだったと思うよ」と言い切った。そして思い出したように「イヴはね」と付け足す。
「果実を食べようって言いだしたのも、追放されることが分かって言い出したんじゃないかな」
「なんでそんなことを?」
「アダムのことが好きだったからでしょ。きっと、神様からも独占したかったんだよ、イヴは」
「じゃあアダムはどうだったんだよ。イヴのせいで一緒に追放されたアダムも幸せだったと思うのか?」
「さあ?」
しし、と彼女は悪戯っぽく口角を上げる。無邪気ながらも、蛇のような妖艶さを孕んだ表情に見惚れる。
「じゃあ幸せってことにしておこっか。イヴだけ幸せじゃ、惨めだもんね」
惨め。あっさりとした、残酷な言葉だった。
僕は祈る。何千年か、何万年か、あるいはもっと昔に居たアダムの幸せを。自分でもびっくりするくらい切実に、縋るように祈る。
月が煌々と海と彼女を照らす。果たして、僕も照らされているのだろうか。ふと、そんなことが心配になった。けれど、その答えは分からないままで、彼女が足を止めた。
「そろそろかな」
「そろそろ?」
「うん。多分、そろそろ」
彼女は視線を黒く、暗い、虚のような海の方へと移す。相変わらず、そこは見えない何かが渦巻き、蠢いているようにざあ、と水面を揺らす。
「綺麗だね」と彼女が言う。
「うん」と僕は頷く。でも本当は、そんなに綺麗とは思っていなかった。
彼女が再び歩き始めた。しかし、今度は波打ち際をではなく、砂浜の方に向かって。このまま海の方に歩き始めたらどうしようと思ったので少し安心をしながら、手を引かれるままに僕もついて行く。
足にはべたべたと砂が纏わりつく。指と指の間に挟まったものが気持ち悪くて仕方がなくて、でも取ったところでまたくっついてを繰り返すだけだということも分かっていて、僕は気にならないふりをする。
「ここら辺で座ろっか」と言われた場所は、波打ち際から十メートルほどの何もない場所。そうして僕らは灰色の砂浜に並んでぺたりとお尻をつける。夜の砂浜は冷たいということにここで初めて気が付いた。
「世界の終わりってね、夜みたいなんだ」
彼女は撫でるように優しく言った。海を見ているから、彼女がどこを見ているのかは分からなかった。
「冷たくて、独りで、悲しい気持ちになる」
「君は世界の終わりを見たことがあるの?」
「分かるだけだよ、なんとなく。それに、きっと、君だって分かってるはず」
そんなことを言われたって僕には分かっていなかった。ただ、それについて聞くには時間がなさすぎるし、何より無意味なことな気がして、僕は「そっか」とだけ呟く。
海は揺れる。月は光る。僕らは物言わずにそれを見ている。ひんやりとした砂の感触が心地よく纏わりつく。
「月が綺麗だね」
沈黙を埋めるように僕は言った。
「そうだね」と彼女は頷いた。
月が綺麗という言葉には言葉面そのままではない、隠れた意味があったんだっけ。そんなことに気が付いたのは、言ってもう暫く経ってからだった。
わざわざ否定をするのもおかしな気がして、結局何も言えずにぼうっと海を見る。僕らは夏目漱石のせいで月を褒めることすらもままならない。
そもそも、僕は彼女のことが好きなのだろうか。そんな大事なことすらも、僕は分からないままだった。向き合う機会なんて散々にあったはずなのに、知ってしまえば何かが壊れてしまうような気がして、僕はちゃんと向かい合うことを避けてきた。今更そんなことを言ったって、もうどうしようもないのだけれど。
何もせず、何も言わず、ただ夜の海辺に座っていると、段々自分という存在の輪郭がぼやけてくるような錯覚に陥ってくる。このまま闇に溶けるように消えてしまうのではないか。あるいは、既に僕という存在は消えていて、惨めな残滓が俯瞰しているだけなのではないか。
思考が夜の魔物に喰われそうになったそこで、彼女がぎゅっと僕の手を強く握った。
「 」
風と波の音で掻き消されてしまいそうなほど小さく、彼女はそう呟く。
「私の名前」
その注釈がないと名前だと分からないような、奇妙な名前だった。ゆっくりと味わうように、僕はその言葉を口の中で転がし、反芻する。
「良い音だね」
情けないとは思うけど、それが僕なりの精一杯の誉め言葉だった。本心ではあったけれど、もっと小粋な言葉くらい選べなかったのかと、自分でも思う。
しかし、彼女は不器用で稚拙な僕の言葉が気に入ったらしく「ふふん」と満足げに鼻を鳴らして、「良い音でしょ」と笑った。
僕も名前を教えた方が良いのだろうか。そう思って口を開こうとしたところで彼女は「少し眠る」と言って砂浜の上に寝転がった。当然のように、僕の手は握ったままで。
「世界が終わるところを見なくても良いの?」
そう声をかけても、彼女は目を瞑ったままでじっとしている。
あんな靴で来たこともあって疲れたんだろう。僕はそう納得をして、起こすのはやめて空を眺めた。
満天の、とは言えないけれど確かに星が見える空。綺麗というわけでも、特別なところがあるというわけでもない空。そんな平々凡々な夜空が突然ぱっくりと割れて、がらがらと星と空の欠片が地上に落ちてくる。
もし、本当に世界の終わりが来るのならそれが良い。そう祈りながら僕は空を眺め続けた。ずっと、ずっと。
結局、空は崩れなかった。それでも、ひっそりとひとつの世界が終わった。
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