終青

しがない

修正

 八月三十一日。


「この夏が終われば世界も終わるんだ」


 その子は真っ白なワンピースを風になびかせて、祈るように手を身体の後ろで組みながらはにかんだ。


「だから、一緒に逃げない?」


 そう言った表情は、僕と同い年とはまるで思えないほどに大人びて見えて、でも同時に子供のように無邪気でもあって、惚けたように僕は彼女を見る。


 ひぐらしが鳴いた。生温い風が凪いだ。


 沈黙がコーヒーに溶ける砂糖のようにゆっくりと夏の終わりに溶けたところで、僕はようやく口を開く。


「どこへ逃げるんだよ。世界が終わるなら、逃げる場所もないんじゃないの?」


「海だよ。海だけは残る。そういう場所なんだ、海って」


 海。


 アレキサンダー大王が目指したのも確か海だったと思い出す。


 世界の果て。そして、世界の終わりから逃れられる場所。


 僕は、今までの人生で行ったことがないからこそ、海への期待や祈りを際限なく増幅させることが出来た。肥大し続けるそれが幻想にすぎないということを分かるくらいには子供ではなかったけれど、それを空想だと切り捨てるほどに大人でもない。結局、胸の内に残ったのは広く、深く、暗い虚という漠然としたイメージだけだった。


 僕は彼女の名前を知らない。彼女も僕の名前を知らない。


 僕からすれば、夏にだけ会える女の子。彼女からすれば、夏にだけ会える男の子。


 薄情というわけではない。名前なんていうのは所詮お互いを認識するための記号に過ぎなくて、僕らはそれを必要としなかった。ただ、それだけの話だった。


「でも、海って遠いだろ」


 ここからは、何度も電車を乗り継いで何時間もかかる。その頃には、もう夜だ。子供が出歩くような時間じゃない。


「世界からしたら関係のない事情でしょ」


「そりゃそうだろうけどさ」


 言うまでもなく、世界は僕らを中心には回っていないのだ。


 彼女はじっと僕を見ている。さながら、玩具をねだる子供のようにじっと、僕のことを見ている。


「……マジ?」


「マジ」


 とても冗談ではなさそうだった。世界の終わりも、海への逃避行も、彼女は本気で考えているのだ。本当に世界が終わるのかは置いておいて、少なくとも彼女はそれを信じ切っているのだ。


 僕には彼女の頼みごとを引き受ける義理も義務もなかった。断る理由なんて探すまでもなく見つけられる。


 でも、彼女が僕に頼みごとをしたのは初めてだった。引き受ける理由なんて、それくらいで十分だった。


「じゃあ、行こう」


 僕がそう言うと彼女はぱあっと向日葵のように笑った。断らないで良かったと改めて思った。


「少し、準備をしても良いかな。今のままじゃ、電車にも乗れない」


「分かった。でも、早くね」


「うん」


 絡みつくような暑さを振り切るように、僕は温い夏の終わりの空気の中を走り始める。死にかけの蝉の声と、彼女を置き去りにして。


 ふと、このまま逃げたら彼女はどうするだろうかと思った。独りで電車に揺られ海に行くのだろうか。そうして独り海辺で世界の終わりから逃れるのだろうか。


 それは、考えるだけでも哀しくなるほどに寂しいことだった。僕は足を速める。ひぐらしの声が聞こえなくなる。


 家に着いてドアを開ける。鍵はかかっていなくて、「ただいま」と言うと「お帰り」という母さんの返事が聞こえる。


 リビングには顔を出さずに自分の部屋に上がり、バッグを手に取ったところではたと手が止まった。僕は何を持って行けばいいんだろうか。


 取り敢えず、財布は必要だろう。持っている限りの分をかき集めて詰め込めば、電車に乗るには十分すぎるほどの金額にはなる。


 他には、何が必要だろう? 世界の終わりには、何が必要なんだろう?


 筆箱も、漫画も、ゲーム機も、まるで役に立つ未来が見えない。リコーダーも、上履きも、夏休みの宿題も、持っていても惨めになるだけだ。残念ながら、僕の部屋には世界の終わりに立ち向かえそうなものはなさそうだった。


 僕はバッグに入れた財布をポケットに入れ直して、バッグを放り投げて部屋を出る。世界が終わった後で必要なのはきっと道具ではなくて心意気なのだ。取り敢えず、そう自分に言い訳をしておく。


 履きなれた靴に足を通し、ドアを開くと思いのほか大きくがちゃりという音がした。


「またどっか行くの?」とお母さんがキッチンから声を張る。


「もうすぐ夕飯だから早く帰ってきてよ」


「うん、分かった」


 それだけ言って逃げるように、というか逃げるために急いでドアを閉めた。世界が終わるというのに、結局母さんの顔は見ないままだった。


 僕は走って女の子の待つ場所に急ぐ。とはいえ、さっきも走った身体は気怠さを未だに残していて、明らかに速度は落ちている。


 ひぐらしの声が近づく。夕陽はもう落ち始めている。遠い空には藍色が差している。


 風が吹いて、ざあっと木々の揺れる音がした。葉と一緒に、彼女もどこかへ連れて行ってしまうのではないかという考えがふっと湧き、無視が出来ないほどに一気に膨らんだ。それは根拠のない漠然とした予感だったものの、曖昧だからこそ際限なく肥大し続ける。


 名前を知らないからか、あるいは生来のものか、彼女にはいつも触れれば消えてしまいそうな、陽炎のような雰囲気があった。儚げなんて幻想的なものではなく、朧げというような不安定な雰囲気が。


 風を縫うように加速する。夏の暮れの道には誰も見えず、僕の駆けるという音が蝉の声の中でいやに響く。


 ひゅーひゅーという自分の呼吸が五月蠅い。夏が喉を焦がし、何度かえずく。


 ようやくたどり着いた時にはじとりとした汗のせいでシャツが身体に貼りついていた。生温いはずの風がいやに寒く感じる。


「早かったね」


「……君が、早くって言ったんだろ」


「確かに言えてる」


 彼女はくすくすと笑う。君が消えているかもしれないから早く来たなんて言ったらもっと笑うことだろう。だから、僕は「行こう」とだけ短く言った。彼女は「うん」と頷いた。


「正直、僕には海への行き方なんて分からないよ」


「大丈夫、私、知ってるから」


「なら安心だ」


 そうして僕らは海に向かっての移動を始めた。世界の終わりから逃げるための、逃避行を始めた。


 まずは駅へ向かう。田舎の、この時間ならきっと数えられる程度の人しか乗っていない列車に乗るために。


 ひょっとしたら、もう二度と通ることはないかもしれないと思って通るだけで、いつもの道はひどく新鮮なものに見えた。ここの家はこんな色の屋根をしていたんだとか、ここの電柱があったんだとか、発見と懐かしさが同居する奇妙な感覚。彼女もまた、同じようにこの風景を見ているのだろうか。


 僕らは何も言わないままで夏の終わりを泳ぐように進んでいく。終わる世界を噛み締めるようにゆっくりと、歩いていく。列車に乗ってしまえば、あとは揺られるだけだ。乗り継ぎはあれど、僕らのペースで進めるのは今が最後だった。


「君は、海に行ったことがあるの?」


「多分、一度だけ」


「ふうん、どうだった?」


「んー、砂浜が熱かった、とかかなあ? 多分、とかつけちゃうくらいには昔のことだから殆ど覚えてないんだよね」


 相変わらず、海のことは分からないままだった。青くて、広くて、冷たい、隣には熱い砂浜がある場所。そんな断片的な情報だけじゃあ結局何も分からない。ましてや僕らが行くのは夜の海だ。青く見えないし、砂浜はきっと冷たくなっている。


 目的地は曖昧で、けれど道は分かっているから歩けば良くて、歩くしかなくて。


 僕はふと、どうやって世界は終わるんだろうかと思った。古い映画にあったみたいに隕石でも降って来るのか、突然空が割れて崩れ始めるのか、そんな大仰な仕掛けすらもなくふっと手品みたいに消えるのか。当然のことながらどれもリアリティに欠けるものばかりで、僕は考えることを諦めた。諦めた後で、知っていたところでどうにもならないことにも気付いた。


 長いのか短いのかもよく分からない時間が経って、僕らは駅に着く。橙色に染まった無人の駅は良く言えばノスタルジックで、悪く言えば廃れていた。薄汚れたベンチの汚れを手で払って、僕らは列車を待つ。


「どれくらい待てばいいんだ?」


「さあ、分からない。でも、待てば来るよ」


 間違いのない、確実で、しかし曖昧な答えだった。


 遠い線路の先を見ても当然のように列車の影は見えず、仕方なく駅のホーム際を見ながらぼうっとする。


 横に座っている彼女はどこを見て、何を考えているんだろうか。ふと気になりはしたものの、わざわざ隣に向き直るというのも気恥ずかしくて、足をぶらぶらと揺らすことで沈黙を紛らわせる。


「君はさ、最後に何食べて来た?」


「え?」


 唐突な質問に、莫迦みたいな声を出して聞き返す。彼女はそれが面白かったのかカラコロと笑いながら「最後の晩餐はなんだったのかってこと」と付け足した。


「最後の晩餐」


「そう。よくあるでしょ、『もし世界が終わるなら最後に何を食べたいか』っていう時間つぶしのための質問。でも、そういうふざけたもしも話じゃなくて、本当の本当の最後の晩餐はなんだったのかってこと」


 最後の晩餐。最期に食べたもの。


 おやつは、食べてない。となると最後に食べたものは昼食で。


「焼きそばかな」


 母さんは休日の昼は焼きそばを作ることが多かった。なんでかは分からない。もしかしたら楽なのかもしれないし、もしかしたら単に母さんが好きなのかもしれない。


 いずれにしても、今日の昼食は焼きそばだった。野菜が多めの、しゃきしゃきとした焼きそばだった。


 特別な料理というわけではない。でも、最後の晩餐としてはなかなか悪くないものだった気がする。正確には晩の餐ではないけど。


「君の方はどうなんだよ」


「私は――、私はなんだったっけ」


 彼女はんー、と懊悩を漏らしながら考える。老人の記憶力テストでもないんだから、悩むほどのことじゃないだろうに。最後に食べたものとなると昼食か、それを抜いていたとしても朝食だ。最長でも十二時間前の記憶。僕らみたいな子供であれば取り出すのにそう苦労することのないであろう記憶。


 しかし、彼女にとってはそうではなかったらしく、「多分」と前置きをしてから「ご飯と、お味噌汁と、焼き魚かな?」と呟くように言った。「多分」から始まり疑問符で終わる文章の頼りなさたるやいなや。


「和食なんだね」


「まあ、うん。言われてみれば和食かも」


 言われてみればで気付くまでもなく、これ以上ないほどに無形文化遺産的な食事だと思う。


 朝はパン派の僕からするとそれらのメニューは新鮮で、少し羨ましかった。もし、世界の終わりから逃れた先に朝があるなら、和食を食べてみるのも良いかもしれない。


 ごとごとという音がする。線路の先を見ると深緑のボディーをした列車がゆったりとした速度で僕らの待つ駅へ向かっている。


 列車から目を離さないままで僕はうわ言のように聞く。


「こっちの方向で良いんだよね?」


「うん、そう。あれに乗ろう」


 すたり、と軽い音がして、彼女が立っていた。僕も急いで立ち上がり、列車の到着を待つ。


 ただでさえ遅い速度を更に落としながら、しゅー、と音を立てて列車は駅へと滑り込む。がが、という鈍い音を鳴らし完全に止まった後で、ぷしー、とドアを開く。


 まず彼女が乗って、僕はそれに続く。車内は案の定がらんとしていて、僕らの他には若草色のワンピースを着た女の人だけだった。


 僕らは陽の当たっている方の座席へ腰を下ろす。何十、何百回も座られてくたびれた座席はぺたりとしていてとても良いとは言い難い座り心地だった。


 女の人がちらと僕らの方を見た。けれど何を言うでもなくすぐに気だるげに窓枠に肘をついて窓の外に視線を移した。不審がられているのかとも思ったが、僕からすれば彼女もまた奇異に見えるわけで彼女の反応はある意味で当然のことなのだろう。


 首筋に当たる柔らかな陽は温かく、ふわふわとした波が意識の中で満ちては引いていく。しんとした車内に退屈な窓外、周期的な揺れ。微睡のような心地よい感覚がとろん、と脳内に流し込まれる。


 ふっと何かに服の裾を引っ張られて、意識がぼんやりとした狭間から引きずり出された。引っ張られた裾を見やると、細くて白い人さし指と親指がしっかりと僕のシャツの裾を掴んでいる。しかし、当の彼女はまるで自分は関係がないとでも言うように僕の方は全く見ないままで列車に揺られていた。


 僕は少しだけ掴みやすくなるように彼女の方に身体を動かし、何も言わずにじっと目的地に着くのを待つ。


 三つ目の駅で若草色の女の人が降りていった。誰も降りたところを見たことがないような駅で降りたので思わずじっと見てしまったけれど、そんな僕には気が付かずに彼女は廃れた駅を歩いて行った。何のために彼女は降りたのだろうか。少しだけ、若草色のワンピースの行く先を想像した。


 列車はゆく。


 僕らはただ静かに待っていた。


 幾つの駅を過ぎたんだろうか。五つ目以降は数えていないから分からないけど、段々とコンクリートの建物が増えてきたあたりで彼女が掴んでいた僕の裾を引っ張った。


「次、降りるからね」


「それからは?」


「乗り継いで、そこから徒歩かな」


 なんだか一気に月くらい遠いところのように思えてきた。ずっとこのまま、列車に乗っているだけで海に着いてしまえばいいのに。砂浜に到着する列車なんて幻想的で良いじゃないか。でも潮風で錆びたり、砂がレールの間に挟まったりして大変なんだろうか。


 まあ、空が落ちてくるような憂いは置いておいて、僕が想うべきはひとまず次の乗り継ぎだろう。この列車ですらもこんなに遠くまで乗った記憶がないんだから、当然乗り継いだことなんてないわけで。都会の人に言ったら馬鹿にされるんだろうけど、胃がじくじくとするくらいには緊張している。


 ただ、口ぶりからするにどれに乗り継げば良いかは彼女が知っていて、僕はともかく彼女について行けばいいだけだ。そうするだけだし、そうするしかない。


「君は遠くに行くのに慣れてるの?」


「慣れてないよ。行くとしてもお父さんの車でだし、こういうのは初めて」


「そっか」


 乗りかかった舟に文句を言っても仕方がない。沈むのならばその時はその時だ。


 それに、そもそも僕の目的は彼女について行くことで、世界の終わりから逃げることではなかった。仮に迷って、世界が終わるまでに海に辿り着けなかったとしても、道半ばで世界が終わったとしても、僕にとってはどうでも良かった。


 別に、死にたいわけでもないし、世界が憎いわけでもない。ただ僕は、終わるなら終わるで仕方のないことであるように思ってしまうのだ。泣いたり、怒ったり、やけを起こしたり、そういうのが全部馬鹿らしくて虚しいことのように見えてしまうのだ。


 案外、僕が知らなかっただけで世界が終わるということは周知の事実で、街は虚しいパニックで充満しているんだろうか。そのスラップスティック的な混沌は見ている分には楽しいんだろうな、と思う。もしそうなっているのであれば、少しだけ遠くからポップコーンでも食べながら見てみたいものだ。きっと、最高に楽しい。


 徐々に風景の流れる速度が遅くなる。しゅー、という音がして列車が止まる。並んだ僕らの身体は進んでいた方向と逆の方向に少しだけ揺れる。慣性の法則って言うんだっけ、これ。ぷしゅー、という音とともにドアが開く。軽やかに立ち上がった彼女に導かれるままに、僕も列車を降りる。


 いつの間にか、空は橙色よりも藍色の方が多い割合を占めていて、肌を撫でる風は涼しいものに変わっていた。日が落ちたからか、街の冷たさのせいかは分からない。あるいは、その両方かもしれない。


 僕らはそれぞれの運賃を駅員さんに払う。つまらなさそうにぼうっとしている駅員さんは特に何かを言うわけでもなく作業的にそれを受け取る。少なくとも、彼の子供の頃の夢通りの今ではないんだろう。人生なんて多分そんなものだ。僕くらいの歳でも分かる。


 駅を出る。少しだけ街に近づいたここは人の流れも少なからずある。彼女はその中をすたすたと、特に迷う様子もなく歩く。


「ここら辺に来たことあるの?」


「初めてだよ。何度も道を確認してただけ」


 どこか誇らしげに彼女はふふんと笑った。僕もふふと笑った。機嫌が良い人を見ているのは気分が良いのだ。


 彼女は人の波を魚のように泳ぎ、僕はそれに曳かれるように歩く。ぷかぷかと流れに身を任せ揺蕩うような、不思議な感覚。そのまま漂着するように次の乗り継ぎの駅に辿り着いた時にはなんだか手品を見せられたような気分だった。


 駅は僕らが来たところから比べればはるかに人が溢れ、ごった返している。券売機でそれぞれの切符を購入してから、改札を通る。言われた通りの切符を買ったからどこまで行くのかは分からないけど、安くはなかったから目的地は近くはないのだろう。


 ホームにある電光掲示板曰く、次の電車は二分後の到着らしい。狙っていたのか偶然か、丁度良いタイミングでの駅に着けたようだ。


 僕らは三人ほどで出来ていた列に加わり、電車を待つ。一番前に並んでいるのはスーツを着たサラリーマン。


 どうしてあの人はスマホなんか見ながら一番前に並べるんだろう。僕にはそれが心底不思議だった。誰かに突き落とされないかとか、そういうことを考えないのだろうか。悪意がなくても、ふと誰かがぶつかって線路に落っこちてしまうんじゃないかとか、考えないのだろうか。彼らがやっているのは人は人に理由もなく危害を加えないという信頼ではなく、どうしようもないから信じることにしようという思考の放棄に思えて仕方がなかった。


 そんなことを考えていると、サラリーマンがスマホから顔を上げた。電車が来たのだ。


 がたんがたんと音を鳴らしながら、鉄の箱が滑り込んでくる。中はたくさん埋まっているものの、無味な雰囲気からもしかしたら彼らは人間ではないのではないだろうかと疑ってしまう。けれど、女の人が咳払いをして、ようやく人間だと確証が持てた。


 座席はまばらに空いてはいるものの二人分空いているところはなくて、僕らは結局立つことになった。吊革には届かないので僕が座席端の手すりに捕まって、手を繋いで倒れないようにする。


 電車のなかはいやに静かだった。鉄の箱が揺れる音だけがやけに騒がしくて、それがかえって車内のよそよそしい静けさを際立たせている。


 窓の外はコンクリートの灰色とビルから漏れる白い明かりが徐々に増えていく。空は暗くなっていくのに、段々と明るくなってゆく。


 僕に街は合わない。少なくとも、今はそうだった。


 いつか、僕が街に馴れることがあれば、それは成長なのだろうか。あるいは。


 ぎゅっと彼女の手を強く握った。彼女は何を言うでもなく優しく僕の手を握り返した。温かくて柔らかい、安心する手だった。


「ねえ」


「んー?」


「海って冷たいのかな」


「大丈夫。温かいよ。冷たくなんてない」


 それなら良かった。冷たいところでじっと世界の終わりを免れるのなら、温かいところで世界と一緒に終わる方がずっと良かったから。


「大丈夫、大丈夫だから」


 誰に言うでもなく、彼女は小さく呟いた。僕は聞かなかったフリをして、電車の中に流れる広告をぼうっと見ていた。


 電車が駅に着く度、膿を出すかのようにぞろぞろと人が降りていく。乗る人もいるにはいるけれど、時間が時間だからか降りた人よりかは少なくて、電車の中は少しずつ空いていく。


 四つ目の駅を過ぎたところで僕らはようやく席に座った。でも、降りたのは六つ目の駅だったから、あんまり休めたような感じはしなかった。


「降りよう」という彼女の言葉に従い、僕らは電車から降りる。ゆっくりと膿として鉄の箱から吐き出される。


 その流れに流されるままで改札を通り、駅の外に出る。いつの間にか、ビルが立ち並ぶようなところからは少し外れて、静かな方へと来ていたようだった。


 スーツ姿の人たちが僕らを追い抜いて歩いて行く。ふと、家のことを思い出した。母さんも父さんも心配しているだろうな。もしかしたら、警察を呼んでいるかもしれない。それは少しだけ、いや、かなり申し訳ないと思っているけど、でも世界の終わりの前では警察なんかも些細な問題だ。どうせ何もかも終わるんだから。


「ここからは歩くんだったっけ?」


「うん」


「どれくらいかかるの?」


「三十分くらいだと思う。もしかしたら、もう少しかかるかもだけど」


「分かった。じゃあ、行こうか」


 そうして僕らはゆっくりと歩き始めた。海に向かって、終わりに向かって。

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